単話怪談:病室と気功のカゲ
単話怪談:病室と気功のカゲ
深夜、自室の明かりを落としたまま、パソコンの画面をぼんやりと眺めていた。作業用BGM代わりにYouTubeを適当に自動再生させていると、アルゴリズムの気まぐれか、見慣れない動画が流れ始めた。
画面の中で、落ち着いた声の男が手振りを交えながら語っている。
――気功の基本は、意識の集約です。手のひらの間に見えない空気の玉を丸めるように、意識を集中させてみてください。
「くだらない」と鼻で笑いながらも、手持ち無沙汰だった俺は、何気なく両手を胸の前へ持ち上げてみた。両掌を向かい合わせ、十センチほどの隙間を空ける。意識を研ぎ澄まし、見えない球体を押し縮めるイメージを作ってみる。
すると、じわり、と手のひらの中心が熱を帯び始めた。
まるで温かい湯の中に手を浸したかのような、あるいは薄い膜越しにカイロを当てられたような、独特のぬくもり。
単なる血流の変化やプラセボだろうと頭では分かっている。だが、その不可思議な感覚が皮膚を撫でた瞬間、記憶の底に沈んでいた古い光景が、鮮烈に蘇ってきた。
あれは、まだ小学生の頃だった。
兄貴が急性肺炎で入院し、母親に連れられて大きな総合病院へ通っていた時期がある。
消毒液の匂いが充満する長い廊下に、子供の俺はすぐに飽きてしまった。母親が医師と話し込んでいる隙を見計らい、抜け出して薄暗い病棟をうろついた。
古い病棟の奥、開け放たれたままの病室が一つあった。西日の差し込む窓辺のベッドに、一人の女性が横たわっている。ひどく痩せ細り、青白い顔をして、深い眠りに落ちているようだった。
そのベッド脇に、パイプ椅子に腰掛けた男がいた。
男は身を乗り出し、女性の細い手首を両手で包み込むように握りしめていた。見舞いに来た身内か、恋人だろうか。そう思った瞬間、男の口から低い、擦れた声が漏れ出た。
「……やっとだ。やっと、こっちに来てくれるんだね」
ぞわり、と全身の産毛が逆立った。
男の表情は逆光になっていてよく見えなかった。いや、見えなかったはずなのに、その輪郭が人のものではない何か、笑みを歪ませた異形の影のように脳裏に焼き付いて離れなかった。部屋の空気がそこだけ澱み、女性の命が男の掌を通して吸い上げられているかのような、異様な気配。
恐怖で声も出せず、俺は静かに踵を返し、走ってその場を逃げ出した。
――あの記憶が、なぜ今になって繋がるのか。
手のひらの熱を見つめながら、背筋に冷たいものが走った。
気功の世界では、気を「送る」「整える」とよく言われる。世間にある気功療法や怪しいエナジーサロンの類なんて、すべて詐欺まがいのオカルトだと見下していた。
けれど、もし本当に「気」という生命エネルギーのやり取りが存在するのだとしたら。
送ることができるのなら、その逆――**他人の気を奪うこと**だって、可能なのではないか。
あの病室の男は、女性の手を握りながら、何をしていたのか。
その日以来、俺の頭からその疑念が消えなくなった。そして、いつしか日常の中で、密かな実験を試みるようになっていた。
ターゲットは、満員電車で隣に立つ男や、オフィスのデスクで向かい合っている同僚。あからさまに手をかざせば不審者として通報される。だから俺は、ポケットの中に手を入れたまま、あるいは自然に組んだ指先の隙間から、ただじっと相手の首筋あたりを見つめ、意識を集中させる。
相手の体から立ち上る見えない湯気を、己の手のひらへと手繰り寄せるイメージ。
少しずつ、少しずつ、相手の生気を自分の皮膚へと吸着させていく。
「……うーん、なんか今日、急にだるいな」
数分後、向かいの席の男がこめかみを押さえ、重たそうにため息をついた。
その瞬間、ポケットの中で握りしめた俺の手のひらが、じわりと、確かに温かくなった。
この温もりが気のせいなのか、それとも本当に奪い取った何かなのか、俺にはまだ分からない。ただ、一度覚えてしまったこの飢えのような好奇心は、もう止まりそうになかった。




