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第7話:影法師・エピローグ-後編-

第7話:影法師・エピローグ-後編-




数日後の深夜。蛍光灯の白い光が虚ろに広がる、ファーストフード店のカウンター。


自動ドアがひんやりとした夜気を引き連れて開き、来客を告げる無機質なチャイムが鳴った。


「いらっしゃいませ」


マニュアル通りの言葉を口にしながら、シフトに入っていた彼女――かつて肘の故障と失恋の痛みに耐えかね、自分を消すように深夜バイトに逃げ込んだ彼女は、ふと客席からカウンターへと歩み寄ってくる人影に息をのんだ。


そこに立っていたのは、あの日、雑踏の中で虚ろな目をして彷徨っていた「彼」だった。


「……〇〇君」


彼女の口から漏れた声に、彼はびくっと肩を揺らした。 だが、以前のような薄っぺらで空虚な「陽キャの威勢」も、あの街角で見せた幽霊のような生気のなさもない。少し背を丸め、首筋を赤くして恥ずかしそうに首を掻く姿は、等身大の、どこか情けなくて不器用な一人の少年のものだった。


「……よお」


彼は喉を詰まらせ、それから意を決したようにまっすぐ彼女の瞳を見つめ、深く、深く頭を下げた。


「あの時は……本当にごめん。俺、調子に乗ってイキって、みんなに酷い迷惑かけて……。……それと」


頭を上げた彼の瞳には、ほんのりと湿った光が宿っていた。


「あの日、街角で俺の名前を呼んでくれて……本当にありがとう。……君の声が届かなかったら、俺、本当にあの暗闇の向こう側へ消えてたと思う。君が俺の名前を呼んでくれたから、俺、ここに帰ってこれたんだ」


その言葉が、深夜の静かな店内にそっと溶け込んでいく。


彼女の胸の奥で、固く凍りついていた何かが、あの日レムの事務所で飲んだ温かいココアのように、じわじわと温かい熱を持って解けていった。


(ああ、そうだったんだ――)


人は大勢の人間が行き交う冷たい雑踏の中で、誰かに名前を呼ばれなければ、どこまでも簡単に消えていってしまう。 でも、誰かが名前を呼んでくれたなら。誰かが自分という存在を認知し、叫んでくれたなら、人はどれほど深い闇からでも現実へと繋ぎ止められるのだ。


そして同時に、彼女は気づいていた。 あの日、必死で彼の名前を叫んだことで、救われたのは彼だけではない。自分自身もまた、「仲間を放っておけない自分」という途切れていた名前を取り戻し、現実の世界へと繋ぎ止められていたのだということに。


「ううん」


彼女の唇から、自然と小さな吐息のような言葉がこぼれた。目元がじんわりと熱くなり、彼女はまっすぐに彼を見つめて微笑んだ。


「無事で……本当に、よかった」


「……うん。じゃあ、ブレンドコーヒーひとつ。テイクアウトで」


照れくさそうに注文する彼に、「かしこまりました」と応える。 トレイの上で紙カップを受け渡し、指先がかすかに触れ合う。そこには、冷たい幽霊の気配など微塵もない、生きている人間の確かな体温があった。


多くを語る必要はなかった。 過酷な現実に擦り切れ、一度は世界の境界線から消えかけた二人は、この深夜の小さな店内で、生きている日常の温もりを噛みしめるように、静かに微笑みを交わした。


---



◇

―—―――――――――




彼を現実の世界へと送り届けた後。 冷たい雨が、崩れた廃ホテルの屋根を叩き、暗闇の中で打楽器のように重い音を立て続けていた。


腐敗したコンクリートと、生臭い湿気が満ちる無人のロビー。 その歪んだ空間の渦中に、一人残された男――境界探偵レムの姿があった。


「……参ったな。本当に出られない。心の問題じゃなかったかもな」


レムは指先に挟んだ細い煙草をくわえ直し、紫煙を暗闇へ深く吐き出した。

その言葉とは裏腹に、彼の硝子玉のような瞳には一切の動揺もない。

依頼人の前で見せていた「冷ややかな探偵」の仮面の下から、底知れない深淵を覗かせる冷徹な光が、静かに揺らめいていた。


彼が引きずり込まれていたのは、単なる心理的解離だけではない。

人間の逃避心と共鳴し、空間そのものを腐敗させて歪める

本物の「境界の癌腫」――。


「まったく、五千円じゃ割に合わない労働だ」


ポツリと呟いたレムは、左手の指先で滑らかに

そして恐ろしい精度で複雑な印を結んだ。

結印の風が、雨で湿ったレムの髪をかすかに揺らす。

同時に、右手に握られたスマートフォンの画面を、闇の奥へ向かってまっすぐに掲げた。


――カチリ、と内部の機構が駆動するような微かな電子音が響く。


次の瞬間。


言葉を失うほどの青白い光彩が、液晶画面の奥から溢れ出した。


**――ギュオン……ッ!!!**


空間の密度が跳ね上がり、雨粒が空中で静止したかのような錯覚が走る。

スマホの画面から解き放たれた高濃度の光の輝線が、

空気を物理的に削り取るような低音の脈動を伴いながら、

幾重もの幾何学模様


――青白く輝く立体的な曼荼羅を夜の闇の中に描き出した。


その圧倒的な光の幾何学が暗闇を焼き払った瞬間――「それ」があぶり出された。


壁一面、そして天井の隅々にまでびっしりとこびりついていた、黒くドロドロとした負の質量。 志半ばで死んだ者や、現実に絶望して消えた者たちの未練が凝固した「巨大な怪異の塊」が、眩い光に晒されたことで一斉にうごめき始めたのだ。


グチャリ、と湿った生々しい音がロビー全体に響き渡る。

闇のあちこちから、無数の「誰のものでもない手」や

「半ぐずれの顔」が泥のように蠢き出し、光を嫌うように

あるいは眼前の獲物を喰らい尽くそうとするかのように

巨躯を歪ませて立ち上がっていく。


空気が異様な重力で引き絞られ、幾百の呻き声が雨音をかき消した。

あぶり出された怪物たちが

牙を剥くように一斉にレムへと向かって蠢き、手を伸ばし始める――


だが、レムは逃げようともせず、ただ煙草の煙をふっと怪物たちへ吹きかけた。

その硝子玉の瞳に、薄く、冷ややかな狂気の笑みを浮かべながら。


「――臨・兵・闘・者――」


雨音を切り裂く、低く澄んだ声。

襲いかかる黒い影の群れと、スマホから解き放たれた青白い光彩が激突する

まさにその刹那――。

実は10月19日に疲労と眠気のピークの中で一度書き上げたのですが、

どうしても納得がいかず書き直してみました。


当初は「情報を詰め込みすぎると読みにくいのでは?」と葛藤し、

あえて文字数を減らしてシンプルに表現したつもりでした。

しかし、改めて読み返すと単に話が飛んでいるように感じられ、

手直しせずにはいられなくなってしまって……。


今回のエピソードは、私が昔の勤め先で聞いた実話系の話を元に、

「もし境界探偵レムが関わったらどうなるのか?」

「その話を考察することで、何か別の真実が見えてくるのではないか?」という

発想から描いたものです。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

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