戻って来た
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### **境界探偵レム 第四話:戻って来た**
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カラン、カラン――。
雑居ビルの二階、古びた真鍮のドアベルが湿った空気の底で乾いた音を立てた。
すりガラスの扉を開けると、そこは薄暗く、どこか浮世離れした静寂が満ちていた。
部屋の奥、対面式の革張りソファには、ボサボサの髪をした男がだらしなく寝転がっている。
指先に挟んだ細い煙草から立ちのぼる紫煙が、重たく天井へ溶けていく。
男――境界探偵レムは、私が入ってきても動こうとせず、ただ硝子玉のように感情の読めない瞳でじっとこちらを見つめてきた。
「あの……『怪異のご相談お受け致します』って、表に書いてあったので……」
私が震える声で切り出すと、レムは気怠げに上体を起こした。
「相談? それとも依頼?」
「相談……だと思います。自分がただおかしいのか、それとも本当に不可解なことが起きたのか……」
「ふぅん。一回五千円ね」
レムはあっさりとそう言うと、のそりと立ち上がり
部屋の片隅にある小さなコンロへ向かった。
小鍋を火にかけ、やがて甘く濃い香りと共に湯気が立ちのぼり始める。
手持ちのマグカップに注がれたのは、なみなみと注がれた温かいココアだった。
「どうぞ。粗茶ですが。あんた、身体冷えてるだろ」
「あ、どうも……(粗茶…?)」
ローテーブルに置かれたマグカップからは白い湯気がゆらゆらと揺れている。
包み込むように手を添えると、陶器越しにじんわりとした
温もりが手のひらに伝わってきた。
私はその暖かさにすがるように両手でカップを握りしめ、
胸の奥に溜まっていた「あの夜」の記憶を少しずつ吐き出し始めた。
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#### **2**
大学二年の夏、私は肘の故障と失恋が重なり、
高校時代からすべてを捧げてきたソフトボール部を退部した。
エースとしての自分を失い、逃げるようにファーストフード店の
深夜バイトを始めた。
人と深く関わらず、ただ夜の暗闇に紛れて時間を潰すためだった。
あの日、私はたまたまヘルプで、いつもの遅番(夕方六時から十二時)ではなく、夕方四時から夜九時までのシフトに入っていた。
一緒に勤務していたのは、高校三年の女子一人、他大学の女子一人、そしてノリの軽い男子大学生が二人。
上がりの時間になると、男子たちが
「せっかくだし遊びに行こうよ!」と強引に誘ってきた。
高校生もいる時間に夜遊びなんてモラル的にどうかと思ったが、
当時の私は断る気力すらなく、流されるまま5人で飯を食べ、
カラオケへ向かった。
深夜、帰路についた頃。
車を運転していた女子学生がふと思いついたように言った。
『ねえ、近くの廃ホテル行ってみない? 肝試ししようよ』
そこは街外れのホテル街の奥にある
空き家の目立つ有名な噂の場所だった。
深夜のノリに歯止めは効かなくなり、私たちはその廃ホテルへ足を踏み入れた。
そこで事件は起きた。
男子学生の一人が
「俺、一人で見てくるわ」と
奥へ単独行動を起こしたきり、戻ってこなくなったのだ。
懐中電灯の光を頼りに明け方まで探したが見つからず、メッセージアプリの『MINE』で連絡を入れても既読がつくだけ。
直後に何度か彼からの着信があったが
画面を開いて出ようとすると即座に切れ、
こちらからかけ直しても応答はなかった。
翌日、バイト先に出勤すると、夜勤チーフが無断欠勤した彼に対して激怒していた。大学にも来ていないと知り、怖くなった私はチーフに事情を話し、
警察にも連絡を入れた。
しかし、手掛かりのないまま二ヶ月が過ぎた。
「……それが、先週のことです」
私はココアの湯気で湿った前髪を払いながら呟いた。
「街の中心街を歩いていたら、雑踏の中でばったり彼と出くわしたんです。
思わず
『〇〇君! どこに行ってたの!?』
って声をかけたら……彼は虚ろな目をしていて。
『え……? あぁ……あれ?? 俺、なにしてたんだっけ……??』
って、急に正気に戻ったみたいになって……」
彼はその後、休学扱いになっていた大学へ復帰し、バイトはクビになったものの、何事もなかったかのように元の日常へ戻ったという。
「無事だったなら、それで良かったはずなんです。でも……私、どうしても背筋が凍るような不気味さが消えなくて……」
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#### **3**
私の話を聞き終えたレムは、灰皿に煙草を押し付け、静かに新しい煙草に火をつけた。
「無言電話と『MINE』の既読か」
レムは冷ややかな声で言った。
「怪異でも何でもないよ。廃ホテルの暗闇の中でパニックを起こした彼が、
声も出せないまま、震える指で画面をタップして助けを呼ぼうとしていただけだ。
最後はバッテリーが切れて終わりさ」
「じゃあ……二ヶ月間の失踪は……?」
「彼は普段、調子のいい陽キャを演じていたんだろ?
でも心の中は、大学や将来のプレッシャーで限界まで擦り切れていたのさ。
廃ホテルという『現実から切断された空間』に入った瞬間、
脳が自分を守るためにスイッチを切ったんだ。
逃げ出したかったんだよ、日常から」
レムは指を組み、その硝子玉のような瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「でもね。君が本当に怖がっているのは、彼の不可解な行方不明じゃない」
「え……?」
「**『人間って、こんなにあっけなく自分の人生から消えられるんだ』**という恐怖だ」
チクリと、胸の奥を刺されたような痛みが走った。
「君は怪我と失恋でソフトボールを諦め、
自分を隠すように深夜バイトに逃げ込んだ。
君自身がずっと、自分の人生から逃げ出したいという願望を抱えていたんだ。
だから、綺麗さっぱり日常から消えて、
何事もなかったように戻ってきた彼を見たとき、自分の中の『消えたい願望』を
見せつけられてゾッとしたんだよ」
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#### **4**
言葉を失う私に、レムは顎でマグカップをしゃくった。
「冷めないうちに飲みな」
言われるがままマグカップに唇をつけ、そっと口に含んだ。
濃厚なココアの強い甘みと、身体のすみずみに染みわたる温もりが、かちこちに固まっていた胸の奥をじわじわと解かしていく。
「甘いだろ? それが生きている人間の実感だよ」
レムは微かに口角を上げた。
「あの日、雑踏で彼の名前を呼んだろ。大勢の人間が行き交う中で、
誰一人彼を見ていなかった時に、君だけが名前を呼んだ。
……誰かに名前を呼ばれなきゃ、人はどこまでも消えていけるんだ。
君の声が、彼を境界の向こう側から引き戻したのさ」
レムは煙草の煙を天井へ吐き出しながら、ぽつりと言い足した。
「エースだったんだろ。投げ出したと思っていても、仲間を置いていけない根っこまでは腐ってなかったんじゃないの」
胸の奥が、温かい熱を持って脈打った。
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#### **5**
「一回五千円ね」
テーブルの上に五千円札を一枚置き、私は事務所を後にした。
真鍮のドアベルがカランと鳴り、夕暮れの冷たい空気が頬を撫でる。
アパートへ帰り、久しぶりに押し入れの奥を開けた。
埃をかぶったエナメルバッグの中から、少し革の硬くなったグラブを取り出す。
手にはめ、パンと一度だけ掌を叩いた。
乾いた音が、静かな部屋に響く。
失った過去も、挫折した自分も、もう逃げずに背負っていこう。
自分が自分の名前を呼び戻すように、私はグラブを強く抱きしめた。




