第5話:影法師-前編-
**境界探偵レム 第五話 影法師-前編-**
カラン、カラン――。
湿った錆びの匂いが漂う雑居ビルの二階。薄暗い廊下から叩きつけられるようにすりガラスの扉が開くと、古びた真鍮のドアベルがけたたましく鳴り響いた。
駆け込んできたのは、雨に濡れた髪を額に張り付けた学生風の若者だった。
目の下には炭を擦り付けたような泥黒い隈が落ち、全神経を恐怖に削り取られたような顔をしている。
浅く荒い息を吐き出すたび、彼の痩せた肩がガタガタと激しく上下した。
「あの、ここ、境界探偵レムだろ……! ネットの噂でここを知ったんだ。助けてくれよ!」
対面式の革張りソファで細い煙草をくわえていたレムは、だるそうに上体を起こした。重たい紫煙の向こう側から、感情の欠落した硝子玉のような瞳が、冷ややかに若者を射抜く。
だが、若者はレムのその冷淡な視線にさえ頓着しなかった。 恐怖という名の濁流に押し流されるまま、止まらない言葉の塊をまくし立てる。
「有名なお祓いや神社にも行った! 高い金を払ってお祓いも受けたんだ! なのに……全然ダメなんだよ! あああああ!!!!」
自分の声の激しさに耳がキンと鳴る。だが、言葉を止めれば
その一瞬の隙間に足元から黒い闇が這い上がってくるような気がして、
彼はまくし立てるのを止められなかった。
「一回五千円ね。……で、最初から落ち着いて話してくれる?」
淡々と落ちてきたレムの低い声。
その冷ややかな静寂の刃が、若者の暴走する呼吸をバッサリと切り裂いた。
「――っ」
若者はそこで初めて、自分の言葉が相手に何一つ届いていないことに気がついた。
会話のキャッチボールどころではない。
自分は今、恐怖に狂うがあまり、重い石コロのような感情を一方的に相手の顔面に投げつけ続けていただけだったのだ。
室内を覆う重たい煙草の煙と、レムの冷徹な眼差し。
その静寂の中で、若者の脳裏に、かつて友人やバイト先の人間から投げつけられた苦々しい言葉が、遅れてきた痛みのように蘇った。
―—――――――
(お前さ、いつも自分の話したいことしか喋らないよな)
―—――
(人の話聞いてる? マジで自分のことしか考えてないよね)
―—
…
ハッとして、喉の奥が引きつる。
自分が切羽詰まれば詰まるほど、周囲の人間を置き去りにして
身勝手なパニックをぶちまけてしまう
――己の「生きづらさ」の根底にある醜い
コミュニケーションの癖が、この土壇場で醜く露呈していた。
恥辱と恐縮、そして底なしの恐怖が混ざり合い、
若者の顔からさっと血の気が引いていく。
彼は濡れた拳を固く握りしめ、消え入りそうな声で小さく身を縮めた。
「……っ、す、すみません……。俺……俺……っ」
レムの素っ気ない態度と硝子玉のような冷たい瞳に一瞬怯み、
落ち着きを多少取り戻し、
相手に伝わるよう、考えながらおずおずと喋りだした。
「俺……2ヶ月前に肝試しで行方不明になって、街で奇跡的に発見されたんだ…
そ、それで、記憶が飛んでたことにして大学には戻ったんだ。
でも……日常生活に戻ってから、その、なんて言えば良いんだろう、
異常なことが起きてるんです。」
彼は頭を抱え込み、吐き出すように語った。
「あの……なんて言えばいいのか、自分でももう、頭がおかしくなったんじゃないかって思うんですけど……!」
彼は両手で髪をかきむしり、爪が皮膚に食い込むほど強く頭を抱え込んだ。呼吸は浅く荒く、話そうとするたびに喉が引きつるような音が鳴る。
「全部……おかしいんです。最初は、スマホだったんです。
……MINEとか打ってて、画面がふっと暗転する瞬間ってあるじゃないですか。
あの黒い画面に、自分の顔が映るはずなのに…
…映らないんです。
代わりに、画面の『内側』に、なんか……どろっとした黒いシミみたいなものが浮いてて。
指で拭いても消えない。画面の向こう側の暗闇に何かがべったり
貼り付いてるみたいで……」
レムは煙草の煙を静かに吐き出し、何も言わずに彼の乱れた言葉を聞いている。
「それだけじゃなくて……洗面所で顔を洗うのが、怖くてたまらないんです。
かがんで顔を上げて鏡を見るじゃないですか。
一瞬……ほんの一瞬だけ、鏡の中の自分の反応が遅れるんです。
俺が顔を上げたあと、ワンテンポ遅れて鏡の中の奴がゆっくり顔を上げる。
しかも、そいつ……服も顔も、全身泥だらけで……俺の顔をしてるのに、虚ろな目でじーっと俺のことを見てるんです……!」
彼はガタガタと膝を震わせ、縋るようにレムの顔を見上げた。
「一番ヤバいのは……夜なんです。
一昨日の夜も、ふと目が覚めて……金縛りとかじゃないんです。
身体は動くのに、恐怖で指一つ動かせなくなる。
部屋の隅から……なんか、生臭い、川底の泥みたいな匂いが漂ってくるんです。
恐る恐る足元の方を見たら……暗がりの中に、誰かが立ってるんですよ」
「……誰か?」 初めてレムが低く問いかける。
「誰かていうか、それ俺です……!
泥まみれで、水滴をボタボタ垂らした俺が、
ベッドの足元に突っ立って……
口を半開きにしたまま、じーーーっと俺を見下ろしてるんです。
逃げようとしても声も出ない。そいつ、じっと俺の顔を見つめたまま、
じゃあ……じゃあ今、ベッドの上で震えてる俺は一体誰なんだよって……!! もう限界なんです、助けてください……!」
---
◇
レムは煙草の紫煙を深く吐き出し、て2ヶ月間の空白について耳を傾けた。
「最初は……ホント、くだらない理由だったんです。一緒に行った女の子に、ちょっといい格好見せたくて……イキっちゃったんですよね。『俺、ちょっと奥まで一人で見てくるわ』なんて言っちゃって……」
彼は自嘲するように乾いた笑いを漏らしたが、すぐにその顔は引きつり、恐怖で歪んだ。
「で……廊下の奥の、ドアが腐ちかけてる客室のドアノブに手をかけて、押し開けたんです。……その瞬間でした。フッと、音が消えたんです」
「音?」とレムが短く促す。
「はい……。静かになったんじゃないんです。音が『消された』んです。さっきまで外で鳴いてた虫の声も、下にいた連中のバカ騒ぎも、まるで水中に沈められたみたいに全部聞こえなくなって……。代わりに、湿っとしたカビ臭い空気と……耳のすぐ横で、大勢の人間がヒソヒソヒソヒソ何かを囁き合ってるみたいな、不快な音が部屋中に充満してて」
彼は自分の腕をかき抱き、鳥肌の立った皮膚をさすった。
「ヤバいと思ってすぐ引き返そうとしたんです。でも、振り返ったらドアがどこにあるかも分からないくらい真っ暗で……。
パニックになって、助けを呼ぼうとポケットからスマホを取り出しました。
あの子か、一緒に行った奴の番号を押そうとして、画面を見たんです。そしたら……」
喉が喉鳴りを立て、彼の言葉が途切れる。
「画面の連絡先が……っ、上から下まで全部、俺の名前になってるんです。
あの子の名前も、親の名前も、警察の番号も……全部、俺の名前、
俺の名前、
俺の名前……!
わけかんないじゃないですか! 意味が分からなくて、発狂しそうになりながら、
夢中で画面を叩いて発信ボタンを押しました。でも、繋がらない……」
彼はガタガタと歯を鳴らし、自分のスマートフォンを汚物でも見るような目で見つめた。
「……違ったんです。あとから気づいたんですけど……あれ、
俺が電話をかけてたんじゃないんです。
俺の手が……スマホを持ってる俺の指が勝手に動いて、
俺の口が勝手にパクパク開いて……。
俺の体とスマホを使って、暗闇の中にいた『何か』が、
外の世界へ手当たり次第に電話をかけまくってたんです……!」
「時間の感覚は?」とレム。
「ほんの数時間……せいぜい一晩だと思いました。
外に出ようとしても出られなくて、あのホテルから出ようとすると
なぜか、ホテルに戻って来てるんです。
でも、怖くて震えている内に朝が来て、それで、タクシーでとにかく人気の多い場所に行きたくて中心街の方に向かいました。
その時に、一緒に肝試しに行った女の子に話しかけられてわかったんです。
外では2ヶ月が経っていたって……」
話を聞き終えたレムは、灰皿に煙草を押し付けると、ぬっと立ち上がった。
「ついて来な」
「え……? どこへ……」
「お前が『自分』を置いてきた場所だよ」




