第3話(第2話エピローグ):甘い夜の底で
エピローグ:甘い夜の底で
事務所の重い扉を閉めた時、外の空気は思っていたよりも冷たく、けれど澄んでいた。
手元に残った空の缶コーヒー。
口の中に残る暴力的なまでの甘ったるさは、
レムの「生きてる味だ」という言葉を反芻するたびに、冷え切っていた胃の底からじんわりと体温を押し上げてくるようだった。
男はその足で、何年ぶりかも思い出せないドラッグストアへと向かった。
仕事用のエナジードリンクではなく、棚の隅に置かれたホットアイマスクと、
ラベンダーの香りがする安価な入浴剤をカゴに入れる。
レムに言われた通り、鞄の中に詰め込んでいた未処理の書類は、会社のロッカーに放り込んできた。
「積んだら、その時だ」
声に出して呟いてみると、胸を縛り上げていた鉛の鎖が、わずかに軋んで緩んだ気がした。
帰宅したワンルームの部屋は、いつも通り静まり返っていた。
けれど、湯を張った風呂に浸かり、髪を乾かしたあと、男はふと壁のスイッチに指をかけた。
ここ数ヶ月、怖くてどうしても落とせなかった天井の明かり。
パチン、と乾いた音がして、部屋が深い闇に沈む。
ベッドに潜り込み、毛布を首元まで引き上げる。
心臓がトクトクと耳の奥で早鐘を打った。
また、あの風呂場のような反響音が始まるのではないか。
無数の声が、嘲笑が、暗闇の隙間から這い出してくるのではないか――。
まぶたの裏で、暗闇が揺らめいた。
すうっと意識の輪郭が溶け落ち、気づけば男は、再びあの教室の机に座っていた。
時計の針は、12:35分を指している。
けれど、教科書を開く手は止まっていた。
教室の空気が、じわりと青緑色に染まっていく。
前の席から、ゆっくりと振り向くおかっぱ頭の生徒。
その瞳は底知れず暗く、けれどどこか泣き出しそうな光を宿して
男をじっと見つめていた。
『……変わってよ』
乾いた声が、静かな教室に落ちる。
周りの生徒たちも、無表情のまま一斉にこちらへ身を乗り出してくる。
冷たい緑の影が、男の足元へ向かってじわじわと伸びてくる。
恐怖で喉が詰まりかけた。
だが、その時――男の舌の奥に、あの悪趣味なほど甘いコーヒーの味が蘇った。
(ああ、そうか)
男は震える拳を、机の上でぎゅっと握りしめた。
こいつらは悪霊でも、化け物でもない。
逃げ場を失い、未来を失い、この苦しい現実にすら戻れなくなった、哀しい誰かの抜け殻なのだ。
男はゆっくりと息を吸い込み、おかっぱの生徒の目を真っ直ぐに見据えた。
「……嫌だ」
小さく、けれど芯の通った声だった。
「俺は、お前たちと代わらない。苦しいし、頭も悪いし、明日も情けないサラリーマンだけどさ」
男は、自嘲するように、けれど微かに口角を上げた。
「まだ、生きるよ。泥水を啜ってでも、お前たちには譲らない」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気がふっと揺らいだ。
おかっぱの生徒は、拒絶されたことに怒るでもなく、ただポカンと目を見開いていた。
やがて、その薄い唇が、諦めたように、どこか寂しそうに緩む。
『……ちぇっ。ケチ』
どこか悪戯っぽく響いたその声を最後に、教室を照らしていた不気味な緑の光は、淡い煙のように解けていった。
机も、教科書も、クラスメイトたちの影も、
朝靄が晴れるように静かに遠ざかっていく。
冷たく張り詰めていた空間に、ただあたたかな静寂だけが満ちていった。
―—―――――――――――
◇
ハッと息を吐いて目が覚めた。
部屋の天井にはカーテンの隙間から差し込む乳白色の朝の光が揺れていた。
枕元のスマートフォンを見ると、時刻は午前7時。
4時の中途半端な覚醒でも、金縛りでもない。
悪夢に追われることもなく、男はただ深く泥のように眠っていたのだ。
耳を澄ませてみる。
風呂場のような不気味な反響音も、自分を責め立てる罵倒の声も、もうどこからも聞こえなかった。
聞こえるのは、遠くを走る電車の微かな走行音と、朝の街が動き出す気配だけ。
「……よし」
男は起き上がり、カーテンを一気に開けた。
眩しい朝日が疲れの残る顔を真っ直ぐに照らし出す。
まだ仕事は山積みだし、頭痛が完全に消えたわけでもない。
それでも男の足取りは、
昨日までとは比べものにならないほど確かな重みを持って
フローリングを踏みしめていた。




