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苦い人生

第二話:苦い人生

カラン、カラン――。

古びた真鍮のドアベルが、雑居ビルの二階に乾いた音を響かせた。

すりガラスの向こうから足を踏み入れたのは、

くたびれたスーツを着た一人のサラリーマンだった。

長年の疲労が背広の皺にまで染み付いているような男だ。

彼は入り口で足を止め、不安げに室内を見渡した。


「あの、境界探偵……さん、ですか? 表の窓ガラスに『怪異のご相談お受け致します』って貼ってあったんですけど、本当でしょうか……?」


普通なら「いらっしゃいませ」だの「どうぞお掛けください」だの、

迎え入れる言葉があるはずだ。


しかし、薄暗い事務所の奥

――対面式に置かれた革張りのソファにだらしなく寝転んでいた部屋の主は、ピクリとも動かない。

ただ、指先に挟んだ細い煙草から白く重い紫煙を

天井へ向かって吐き出しているだけだった。


男の問いかけには答えず、硝子玉のように感情の読めない瞳だけが、ギョロリとこちらを向く。


値踏みするような、あるいは魂の輪郭を測るような静かな視線に耐えかねて、男は乾いた唇を震わせた。


「あ、あの……?」


たまらず声を絞り出すと、部屋の主――境界探偵レムは、ようやく気怠げに口を開いた。


「相談? それとも依頼?」


「あのー、うーん……相談、かも……?」


「かも……?」


オウム返しに呟くレムの声には、拍子抜けするほど緊張感がなかった。

男は額に滲む脂汗をハンカチで拭いながら、しどろもどろに言葉を継いだ。


「その……自分がただ仕事で疲れているだけなのか、

それとも本当に霊とか、怪異の類なのか、

もう判断がつかなくて……。

お祓いに行くべきなのか、それとも精神科に行くべきなのか、

ずっと悩んでまして……」


言いたいことが上手く纏まらないのか、男の声は頼りなく尻すぼみになっていく。


レムは「ふぅん」と鼻を鳴らすと、ようやくソファから上体を起こし、ボサボサの髪を掻いた。


「まー、いいや。話、聞くよ。一回五千円ね」

「えっ! いや、高っ!!」


思わず素っ頓狂な声を上げた男をよそに、

レムは立ち上がって隅の小さな冷蔵庫を開けた。

取り出したのは、見るからに安っぽい金のデザイン缶だ。

それを男の目の前のローテーブルに、コツンと置いた。


「どうぞ。粗茶ですが」

「ど、どうも……(粗茶……?)」


男がおずおずと向かいのソファに腰を下ろし缶を手に取ると、

そこには『特製・激甘ミルク珈琲』と書かれていた。

冷えたアルミ缶の表面についた水滴が、男の手のひらをじんわりと濡らす。


「じゃあ、話してみようか。パシーンとね。そこらの精神科医よりしっかり聞くから、安心してくれ」


「う、うーん……頼もしいような、気がしますね」


その軽薄なまでの調子にどう答えていいのか迷いながら、男はとりあえずの生返事を返した。


そして、冷たい缶コーヒーを両手で握りしめたまま、胸の奥に溜め込んでいた暗い澱(おり)を少しずつ吐き出し始めた。


―—―――――――――――――――――

◇

いつからだっただろう。


男は夜、部屋の電気を消して、真っ暗な闇の中で眠ることができなくなっていた。

瞼を閉じ、意識が泥の底へ沈みかけると――必ず「声」がするのだ。


夢なのか現実なのか、その境界線すら曖昧な浅い眠りの淵。


まるで誰もいない深夜のタイル張りの風呂場で、音が幾重にも反響しているような、くぐもった不気味な響き。それがどこからともなく湧き上がってくる。


一つや二つではない。おびただしい数の声だ。

汚い言葉で罵倒する声。耳元で静かに罵る声。

鼻で嗤うような嘲笑。かと思えば、

妙に浮き立った嬉しそうな声に、世界の終わりみたいに悲しそうな啜り泣き。


あまりにも多くの声が一度に重なり合うため、

具体的に何を喋っているのかは判別できない。

けれど、その音の塊が自分に向けられた純粋な

「敵意」や「悪意」であることだけは肌を刺すような感覚で理解できた。


声が響き始めると同時に、決まって金縛りに遭う。

見えない鉛の毛布を頭から被せられたように指先一つ動かず、

肺の奥まで冷たい水で満たされたような、ひどい酸欠感に襲われる。

息が詰まり、脂汗だけが滲む、とにかくおぞましい夜が続いていた。


だが、ある晩のことだ。


その息の詰まるような音の渦の中で、男は「夢」を見た。

正確には、目が覚めたあとも鮮明に覚えているほど、奇妙に輪郭のはっきりした夢だった。


夢の中で、男は学生の頃の自分に戻っていた。

懐かしいはずの教室。けれど、そこで味わっている感覚は、今のサラリーマンとしての息苦しい生活と何一つ変わらなかった。


周囲のクラスメイトたちは皆、才能に恵まれ、悠々自適に

青春を謳歌しているように見える。

それなのに、要領が悪く頭の回転も鈍い自分だけが、

いつも置いていかれそうになっていた。

カリキュラムの予習に復習、最低限でも平均点を維持できるようにと、

昼休みも、家に帰ってからも、ただ必死に机にしがみついて勉強に励んでいる。


本当は、みんなみたいに部活に打ち込んだり、放課後に寄り道をして遊びたかった。


でも、男は鉛のように重いシャーペンを動かし続け、「今は必死に頑張って、あとで遊べばいいんだ」と、呪文のように自分へ言い聞かせていた。


心の中ではいつも、擦り切れたレコードのように『疲れた、疲れた』と繰り返しながら。

そんな夢の中の、ある日の昼休みだった。



13時きっかりに午後の授業が始まるため、男は12:35分頃、いつものように一人で参考書を開いた。


その時、ふと、肌にまとわりつくような違和感を覚えた。


教室中の空気が、急に重く澱んだような気がしたのだ。


なぜだか周囲の視線が気になり、男はおそるおそる顔を上げた。

息が止まりそうになった。


先ほどまで談笑していたはずのクラスメイトたちが、全員ピタリと動きを止め、無表情のままジッ、とこちらを食い入るように見つめていたのだ。



(え……? 何……?)



シンと静まり返った教室で、前の席に座っていた生徒がゆっくりと振り返った。

髪は短めで、少し不揃いなおかっぱの前髪をした生徒だった。

その生徒は、瞬きもせずに男の目を覗き込み、ぽつりと問いかけてきた。


『楽しい……?』


感情の抜け落ちた、平らな声だった。

男は喉の奥を引きつらせながら、正直に答えた。


『苦しいよ……。でも、やらなきゃ……詰んじゃうんだよ……』


今ここで手を止めたら、自分の人生は取り返しがつかなくなる。そんな強迫観念からの言葉だった。


しかし、おかっぱの生徒は男の返答を聞くと、予想だにしなかった言葉を口にした。


『いいなぁ、いいなぁ。じゃあ、変わってよ』


男は虚を突かれ、目を見開いた。


『えっ?? でも、こんなに苦しいんだよ??』


『いいなぁ、いいなぁ、変わってよー』


おかっぱの生徒がそう繰り返した瞬間、背筋を氷の刃で撫でられたようにゾッとした。


不意に、教室の照明が落ちた。そして、周囲を取り囲むクラスメイトたちの顔が、床の下から『深い緑色のライト』で照らし出されたような、

異常な色彩に染まったのだ。


目の下に濃い影が落ち、緑色に浮かび上がる無数の顔、顔、顔。

それはもう、自分の知っている同級生ではなく、決して関わってはならない「この世の者ではない何か」の雰囲気だった。


――そこで、弾かれるように目が覚めた。


心臓が早鐘を打ち、全身がびっしょりと冷たい汗に濡れている。枕元のデジタル時計に目をやると、時刻はまだ、朝の四時だった。



◇



「……もう、気味が悪くて。あれ以来、夜が来るのが怖いんです」


語り終えた男は、大きく肩で息をした。手の中の缶コーヒーは、いつの間にか男の体温で生ぬるくなっていた。


向かいのソファでじっと耳を傾けていたレムは、短くなった煙草を灰皿に押しつけ、ふぅ、と長い息を吐いた。


「なるほどね。お祓いに行くべきか、精神科に行くべきか、か」


「はい……レムさん、これってどっちだと思います?」


「どっちも正解で、どっちもハズレかな」


レムは膝の上で指を組み、その硝子玉のような瞳で男を真っ直ぐに射抜いた。


「まずね、夜中に聞こえる風呂場の反響みたいな声と、金縛り。あれは間違いなく、あんたの脳みそが上げてる悲鳴だよ」


「悲鳴……?」


「あんた、学生の頃から今まで、ずっと自分を鞭打って走り続けてきたんだろ。

『やらなきゃ』『詰んじゃう』って強迫観念で自分の首を絞めて、

限界を超えてもまだ足を止めない。

だから脳が、あんた自身を守るために『もう無理だ、誰か代わってくれ』って

SOSを出したんだ。

幻聴も金縛りも、パンク寸前の心が起こしたエラーみたいなもんさ」


「やっぱり……俺、精神的に病んでるんでしょうか」


肩を落とす男に、レムは「いや」と静かに首を振った。

その声が、部屋の温度を少しだけ下げるように低く響く。


「話はここからだ。

人間がね、本当に心も体も擦り切れて、

『もう嫌だ、誰か代わってくれ』って無意識の底から願うとさ…

…生と死の『境界』が緩むんだよ。

あんたが自分で、向こう側へのドアを少しだけ開けちゃったんだ」


男はゴクリと唾を飲み込んだ。


「あの夢、最後に『深い緑色のライト』で下から照らされたって言っただろ?

あれはただの夢の演出なんかじゃない。

緩んだ境界の隙間から、あんたのSOSに引き寄せられて、本当に『向こう側の連中』が教室を覗きに来てたんだよ」


「えっ……! じゃあ、あのおかっぱの生徒は……悪霊か何かで、俺の体を乗っ取ろうと……!?」


血の気が引いて青ざめる男を見て、レムは「うーん」と曖昧に首を傾げた。そして、新しい煙草に火をつけながら、どこか切なげに目を細めた。


「悪意があったわけじゃないと思うよ。むしろ、逆だ」


「逆……?」


「あんたさ、昔から要領が悪くて、苦しかったんだよね。

遊びたいのも我慢して、必死に机にしがみついて、

今もこうしてボロボロになりながら働いてる。

でもさ、この世の中には、そうやって『頑張りたくても頑張れなかった奴』や

『途中で心が折れて、命ごと脱落しちゃった奴』がごまんといるんだよ」


紫煙がゆらゆらと立ちのぼり、男とレムの間に薄い幕を作る。


「境界の向こう側で漂ってるそういう連中から見ればさ。

『苦しい、しんどい』って泣き言をこぼしながらも、

まだ明日を生きるために必死に戦ってるあんたが、たまらなく眩しかったんだよ」


男の胸の奥が、トクン、と大きく脈打った。


「『苦しい』って感じるのは、あんたがまだ

諦めずに『生きてる』って証拠だからね。

『いいなぁ、まだ戦えて。まだ未来を心配できて。俺たちと変わってよ』ってさ。

あれは呪いなんかじゃない。生きる舞台から降りてしまった死者たちの、

狂おしいほどの羨望だよ」


レムの言葉が、静かな雨粒のように男の乾いた心に染み込んでいく。


脳裏に、あのおかっぱの生徒の顔が蘇った。


緑色の光の中でこちらを見つめていた、食い入るような瞳。

『いいなぁ、変わってよー』

というあの声に滲んでいたのは、自分を害そうとする敵意ではなく泣き出したくなるような「生への渇望」だったのかもしれない。


「……じゃあ、俺は、どうすればいいんでしょうか」


震える声で尋ねると、レムは顎で男の手元をしゃくった。


「簡単だよ。まず、その缶コーヒーを全部飲みな」


言われるがまま、男はプルタブを開けて一口飲んだ。

喉が焼けるほど甘ったるい液体が、冷え切った胃の腑に落ちていく。


「甘いだろ? それが生きている人間の味だ」

レムはニヤリと笑った。


「あいつらに『嫌だ、絶対代わってやらない』って見せつけてやればいい。

ただし、今のまま無理を続けてたら本当に心が壊れてあいつらの仲間入りだ。

今日から夜は仕事を忘れて、泥のように休め。

精神科でも行って睡眠薬をもらってこい。

あんたが自分の人生をちゃんと休んで、ちゃんと生きること。

それが一番の除霊だよ」

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