笑顔で辞めた男
第一話 笑顔で辞めた男
境界探偵事務所の真鍮のドアベルが、湿った空気の底でカランと鳴った。
夕暮れ時。
窓の外は、今にも泣き出しそうな鈍色の空が広がっている。
薄暗い事務所の奥で、レムは深煎りの珈琲を静かに淹れていた。
細い煙草から立ちのぼる紫煙が、重たい雨の気配にゆっくりと溶けていく。
俺は革張りのソファに深く腰を下ろし、十数年のあいだ胸の底に澱のように溜まり続けていた話を始めた。
二十代半ば、地方の自動車部品工場で働いていた頃の話だ。
そこに、Yという派遣社員がいた。
「あいつは、生まれつき心臓が弱かったんです。それに、子供の頃の事故で片脚も悪くて、少し足を引きずって歩いていました。それなのに……現場の連中は、油と鉄粉が飛び交う一番過酷なプレス工程にあいつを放り込んだんです」
毎日のように、Yは青白い顔で「もう辞めたい」と小さく零していた。
だが、生きるためには働くしかなかった。
日に日に頬が削げ落ち、まるで錆びついた機械のように摩耗していくあいつを、俺はただ隣で見ていることしかできなかった。
そして――限界を迎えたある日、ようやく退職が決まった。
「その日の帰り道のことです。あんなYの顔、後にも先にも一度も見たことがありませんでした」
俺は膝の上で組んだ両手に力を込めた。
「安いファミレスに入って、二人でハンバーグを食べたんです。その時のあいつ、信じられないくらい笑ってて。『もう二度とここへは戻らない』『田舎へ帰るんだ』って、まるで地獄から抜け出した子供みたいに、眩しい笑顔で……」
だが、その数日後だった。
俺の携帯に、Yの母親から震える声で電話がかかってきた。
アパートの万年床の上で、冷たくなっていたという。
死因は、急性心不全。
まるで眠るように逝っていた、と母親は泣いていた。
「……それで?」
話を聞き終えたレムは、珈琲カップを手にしたまま静かに言った。
感情の読めない、硝子玉のような瞳だった。
「それだけです」
「それだけ?」
「突然死だったらしいです。もともと心臓が悪かったから、張り詰めていた糸が切れて、持たなかったんだろうって」
「らしい、ね」
レムはカップをソーサーに戻すと、指を組んでその上に顎を乗せた。
じっと俺の顔を見つめる。心の奥底の、見ないふりをしてきた薄暗い隙間を覗き込むような視線だった。
「ねぇ。その人さ」
「はい?」
「本当に、会社を辞められたことを喜んでいたと思う?」
チクリと、胸の奥を小さな針で刺されたような痛みが走った。
親友との最後の思い出を、土足で踏みにじられたような苛立ちが湧き上がる。
「喜んでいましたよ。あんなに嬉しそうだったんだ。俺はずっと隣で見ていたんだから分かります」
「そうだね。嬉しそうに見えたんだろうね」
レムは怒るでもなく、淡々とした声で返した。
「じゃあ、逆に聞くけどさ」
「……何ですか」
「なんで、あんなに嬉しかったんだろうね?」
息が詰まった。
過酷な現場から解放されたから。もう苦しまなくていいから。
そう言い返そうとしたのに、言葉が喉の奥で硬い石になって塞がった。
レムは静かに煙草の灰を落とし、紫煙を天井へ吐き出した。
「人間ね。本当に限界を迎えると、苦しいとも言わなくなっちゃうんだよ」
煙が、俺とレムの間に一本の境界線を引くように漂う。
「毎日『辞めたい』と愚痴を言えていた頃は、まだ戦ってたんだよ。生きたいと願っていたから、SOSを出していた。でもね、脚も心臓も悲鳴を上げて、生きるための気力が完全に擦り切れた時……脳はさ、自分を守るために恐怖も絶望も全部麻痺させるんだ」
レムの平坦な声が、冷たい水のように胃の底へ染み渡っていく。
「あのファミレスでの笑顔はさ。会社を辞められた喜びなんかじゃないよ。『もうこれ以上、生きるために頑張らなくていい』って、魂が生きるのを諦めた瞬間の顔だ」
「……諦めた?」
「壊れちゃったんだよ、彼は。その日の夜にはもう、向こう側に半分落ちていたんだ。だから退職した途端、生きる理由を失って、あっさりと心臓が止まった」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
あの夜の、眩しすぎるほどの笑顔。
未来への希望でも、安堵でもなかった。
限界を超えて粉々に砕けてしまった人間の、痛ましすぎる最後の痙攣だったというのか。
そして俺は――その壊れた姿を見て、「よかったな」と一緒に笑っていたのだ。
「祟りでも、幽霊でもない」
レムは珈琲を一口啜り、窓の外を見つめた。
窓硝子に、雨粒がぽつぽつと当たり始めている。
「怪異よりずっと怖いことがある。人が壊れる瞬間を、周囲が見逃してしまうことだよ」
俺は両手で顔を覆った。
十数年のあいだ、喉の奥に引っかかっていた正体不明の罪悪感が、一気に溢れ出して止まらなくなった。
俺があの時、もっと早く気づいていれば。あんな笑顔を呑気に受け止めず、病院へ引っ張っていってさえいれば。
嗚咽を漏らす俺の前に、カップの触れ合う乾いた音が響いた。
「……でもさ」
レムの声だった。
さっきまでの冷徹な響きとは違う、どこか低く、柔らかな温度を含んでいた。
「十年間、ずっとあいつの顔を覚えててさ。今でもそうやって泣いてくれるお前みたいな奴が、現場に一人だけでも隣にいたんだ」
顔を上げると、レムは煙草をくわえ直しながら、酷く曖昧な笑みを浮かべていた。
「心臓も脚もボロボロで、誰にも助けてもらえなかったあいつにとって……最後の夜に、一緒にファミレスで飯を食って笑ってくれたお前の存在だけが、唯一の救いだったんじゃないの?」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「あいつがこの世で最後に見た景色がさ。冷たい鉄の塊と油の匂いだけじゃなくて、お前との他愛のない時間で、本当によかったと思うよ」
レムは立ち上がり、背を向けて奥の小部屋へ歩き出した。
「相談料は珈琲一杯分でいい。雨が強くなる前に帰りな」
事務所を出た時、外は静かな雨が降っていた。
俺の頬を伝う涙は、雨水と混ざり合って、けれど不思議と胸の重荷はすっと軽くなっていた。
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その夜。
私は、夢を見ました。
あの、薄暗いロードサイドのファミレスでした。
深夜のオレンジ色の照明の下、向かいの席にYが座っていました。
退職の夜と同じ作業着を着て、あの日のままの笑顔を浮かべています。
けれど、もう怖くはありませんでした。
痛々しく引きつった狂気など、どこにもありませんでした。
ただひたすらに懐かしく、穏やかで、澄み切った顔をしていました。
Yは私をじっと見つめ、口を開きました。
「ありがとうございました」
そして。
少し照れ臭そうに小さく笑うと、静かに立ち上がり、伝票を持たずに店の出口へ向かって歩いていきました。
もう、片脚を引きずることもなく。
背負っていた重たい荷物をすべて下ろしたかのような、信じられないほど軽やかな足取りでした。
呼び止めようとした時には、硝子扉の向こう、雨上がりの夜の闇の中へ、溶けるように消えていました。
目が覚めると、枕がじんわりと涙で濡れていました。
カーテンを開けると、昨夜からの雨はすっかり上がり、東の空からやわらかな朝の光が部屋を満たしていました。
あれ以来、私が部屋の隅にYの姿を見ることは、二度とありません。




