第17話:繭の家-後編-
第17話:繭の家-後編-
◇
「繭の家」のドアが、静かに開いた。
白を基調とした静謐な室内。ほのかに漂うハーブの香気を切り裂くように、雑居ビル二階の薄暗い事務所の臭い――煙草の紫煙を連れたレムが足を踏み入れた。後ろには、顔を真っ青にした男の友人がおそるおそるついて来ている。
奥のソファーでは、右耳の痛みが嘘のように消え、安らかな顔で深く眠り続ける男の姿があった。その肌はうっすらと白い霧のような光――「繭」に包まれ、現実の知覚を完全に失っている。
「……あら。勝手に入って来られては困りますね、レムさん」
デスクの前に立つ聖蓮華は、微塵も動じることなく、静かな笑みをたたえてレムを迎えた。
膝まで届く綺麗な黒髪ロング、整った一絲の乱れもなく
真横に揃えられた前髪の下で、透き通った瞳が穏やかに細められる。
「探偵さん! あいつ、あの時からずっとあの状態なんです! 声をかけても、つついても全然起きなくて……!」
友人が悲鳴のような声を上げるが、蓮華は慈悲に満ちた瞳で首を横に振った。
「パニックにならないでください。彼は今、傷つかない世界で古い自分を解きほぐし、新しく生まれ変わるための神聖な『蛹』の期間に入っているのです。
過酷な現実で砕かれた精神が再構築され
……やがて、誰の顔色も窺う必要のない、完璧で美しい『理想の自分(蝶)』として目を覚まします。彼は今、本当の幸せを手に入れようとしているのですよ」
「理想の自分、ねえ……」
レムは煙草の灰を床へ静かに落とすと、硝子玉のような無機質な瞳で蓮華を射抜いた。
「社会復帰させたから救済か? 笑わせるな。お前がやってんのは、そいつが泥をすすりながら積み上げてきた『自我と記憶』を彫刻刀で削り落とし、お前好みの『傷つかない綺麗なお人形』に書き換えてるだけだ。
ただの自我の殺人だろうが」
蓮華の微笑みが、ほんのわずかに陰る。
「……古い、痛みに満ちた自分を捨てて生まれ変わることの、何が悪いのですか? 彼はもう、二度と他人に媚びを売って自分を殺す必要がなくなるのですよ」
「どうしたいのか……その泥臭い自我のまま足掻くのか、お前のお人形になって逃げ切るのか。それを決める権利は、当人にしかねえんだよ」
レムは蓮華の制止を無視し、ベッドで横たわる男の傍らへ歩み寄った。
◇
男の精神の深層――「繭」の内側。
そこは音も風もない、ぬくもりに満ちた真っ白な世界だった。 男の目の前には、半透明の光を纏った「もう一人の自分」が浮かんでいた。
その姿はピシッと背筋が伸び、爽やかな笑みを浮かべ、誰に対しても堂々と誇り高く振る舞える、まさに『理想の自分』だった。
(さあ、僕とひとつになろう)
理想の自分が、優しく手を差し伸べてくる。
(僕になれば、もう職場で理不尽に怒鳴られて悔し涙を呑むこともない。上司に媚びを売って、嫌な愛想笑いを浮かべる必要もない。遥ちゃんの前でおどけて見せる情けない自分とも、お別れだ。君の醜い記憶も、屈辱も、全部僕が消してあげよう)
「俺の……記憶を……?」
頭の奥で、カチリと音がした。 遥へ本心が言えずにおどけてごまかした、あの胸が引きちぎれるような切なさ。
上司に頭を下げながら、胃の裏側が焼けつくほど滾らせていた、あの激しい怒り。
他人に都合よく扱われ、夜のアパートで一人、情けなくて仕方がなかったあの涙。
(そんな惨めなものは、君の人生にいらないだろう? 綺麗な蝶になって、生まれ変わるんだ)
理想の手が、男の胸元へ触れようとした、その時――。
『おい。いつまで他人の用意したぬるま湯で眠ってんだ。自分で決めろ』
白い霧を切り裂いて、境界の底から冷たい男の声が響き渡った。
次の瞬間、右耳に、肉がブチブチと千切れ飛ぶような激痛が走った。
『なにくそッ!!』
耳の奥で轟いたのは、雷鳴のような野太い怒声だった。
「がっ……! あ、あああああっ!?」
男は激痛に顔を歪ませ、差し出された「理想の自分」の手を、咄嗟に振り払っていた。
(どうして……? 痛みのない、理想の自分になれるのに……!)
困惑する「理想の蝶」に向かって、男は右耳を血が滲むほど強く押さえながら、膝をつき、歯を食いしばって叫んだ。
「たしかに……たしかに俺の人生は惨めだよ! 好きな女に本音も言えず、上司にはヘラヘラ媚びを売って……情けなくて、ダサくて、最低な男だよ!」
男の目から、ボロボロと熱い涙が溢れ出した。
「でもな……! あの時悔しくて腹が立ったのも! 泣きたくなるほど情けなかったのも! 全部……全部俺が生きようとして掻いた、俺だけの泥なんだよ!! それを綺麗さっぱり消されて、お前みたいな空っぽの人形になるくらいなら……!」
男は立ち上がり、周囲を覆う白い「繭」の壁に両手を突き立てた。
「俺は、俺の無様な人生を……俺の足で生きていくんだよっ!!」
バリッ、と音がして、白い繭に亀裂が入った。男は爪が割れるのも構わず、己の生きる本能のままに、光の繭をバリバリと力任せに引き裂いていった。
◇
「ハッ……!! っ、はぁっ、はぁっ……!!」
現実のベッドの上で、男が弾けたように飛び起きた。 全身から汗を流し、荒い息を繰り返しながら、自分の両手をじっと見つめている。
「あ……あいつ、起きた……! 探偵さん、起きたよ!!」
友人が歓喜の声を上げて駆け寄る。 だが、跳ね起きた男は、友人の顔を見てもパニックを起こす様子もなく、静かに自分の服の乱れを整え始めた。
その所作には、かつてのオドオドした冴えない面影は微塵もなかった。背筋は隙なくピンと伸び、立ち上がる動き一つをとっても、驚くほど無駄がなく洗練されている。
男はゆっくりと顔を上げた。 その表情には、今まで一度も見せたことのない、あまりにも爽やかで、歪み一つない完璧な微笑みが浮かんでいた。
「やあ、心配をかけてごめんね」
男の声は、部屋の空気を澄み渡らせるほど爽やかで、落ち着き払っていた。
「探偵さんも……ありがとう。おかげで、長年僕を縛っていた無駄な迷いや葛藤が、綺麗に消え去りました」
「あ……え……?」
友人は、男のあまりの変貌ぶりに言葉を失い、喉を詰まらせた。
かつてなら、こんな時、男は顔を赤くして「あ、ごめん! 心配かけた!」と情けない愛想笑いを浮かべてへこへこ頭を下げていたはずだった。
だが、目の前にいる男の瞳には、一切の揺らぎも、気まずさも、人間臭い鬱屈も存在しなかった。
「これからは、理想の自分として、正しく社会に貢献していきます。会社での理不尽も、自分の成長のための糧として、笑顔で受け止めるつもりですよ」
澄み切った声でそう語る男の姿は、誰もが羨む「完璧で美しい社会人」そのものだった。
部屋の奥で、聖蓮華が静かに微笑んだ。
「……おめでとうございます。古い、痛ましい自分を破り捨て、ようやく美しく羽ばたけましたね」
「ええ。先生のおかげです」
男は蓮華に向かって清々しく一礼した。
友人はがたがた身体を震わせ、恐怖に満ちた目でレムの袖を引っ張った。
「た、探偵さん……あいつ、助かったんだよな……? 自分の力で目を覚まして、前向きになったんだよな……!?」
レムは一口深く煙草を吸うと、紫煙の向こうから、無機質な硝子玉のような瞳で男を見つめた。 その瞳には、救いも、希望も、何一つ映っていなかった。
「……手遅れだ」
「え……?」
「繭を破って出てきたのは、あいつの自我じゃねえ。あいつが命がけで抗った『なにくそ』って本能も、今まで溜め込んできた泥臭い記憶も全部……聖蓮華の描いた『理想の形』に化けるためのエネルギーとして使い切られたんだよ」
レムは灰皿へ冷たく吸殻を押し潰した。
「目の前にいるのは、中身をキレイに消去されて、あいつの顔をした『完璧なお人形(蝶)』だ」
「そんな……っ! じゃあ、あいつの本当の心は……!?」
「もうどこにもねえよ」
男は友人の狼狽にも、レムの冷酷な宣告にも、まったく傷ついた様子を見せなかった。 ただ穏やかに、透き通った瞳で二人を見つめ、どこまでも完璧なマナーで頭を下げた。
「それでは、僕はこれで失礼します。明日からの仕事に備えて、準備がありますから」
男は一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで「繭の家」をあとにしていった。 その背中には、もう二度と誰も触れることのできない、透明で完璧な「蝶の羽」が広がっているようだった。
取り残された静かな部屋で、聖蓮華はポツリと琥珀色のハーブティーを見つめながら、穏やかに囁いた。
「レムさん……これで彼も、二度と傷つかずに済むのです。……これ以上の『救い』が、どこにあるというのですか?」
レムは答えず、ポケットに手を突っ込んでドアへと歩き出した。
「……行くぞ」
「あ、あの……探偵さん……」
友人が絶望に打ちひしがれながら後を追う中、レムは雑居ビルの冷たい廊下へ踏み出し、小さく吐き捨てた。
「……一回五千円。それと、おーい粗茶の代金百五十円。……請求書は、あの『綺麗な人形』宛てに送っとくよ。
もう、痛みを感じないらしいからな。」
夕暮れの街風が、二人の横顔を通り抜けていく。 街の喧騒の中へ消えていく男の右耳には、もう二度と、耳を引きちぎろうとする「あの手」が現れることはなかった。
(繭の家- 完-)




