第16話:繭の家-中編-
第16話:繭の家-中編-
自宅へ戻り、不機嫌そうに缶ビールを飲んでいると、友人からMINEの音声通話が入った。 男が今日あった出来事と探偵事務所への不満を愚痴ると、友人は呆れ気味に言った。
「それなら良い先生を知ってるよ。『繭の家』ってところのカウンセラーさんなんだけどさ」
「繭の家……? なんか怪しくないか? 宗教の勧誘とかシェルター詐欺みたいな……」
「いやいや、俺もスピリチュアルは信じてないけど、
霊界探偵??だっけ?そんな怪しい探偵よりよほど健全だよ。
社会復帰を支援するNPO法人で、カウンセリングも相談も完全無料らしいし。
試すだけ試してみたらどうだ?」
友人の言葉に背中を押され、男は翌日、指定された「繭の家」を訪れることにした。
―—―――――――――――――――
◇
指定されたビルの階段を上り、「繭の家」と書かれた木製の小さな看板のドアを叩いた。
「どうぞ、お入りください」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような澄んだ静かな声だった。
ドアを開けると、そこは雑踏の喧騒が嘘のように遮断された、
柔らかな陽光と淡い白で統一された静かな空間だった。
空気には、心身を解きほぐすような微かなハーブの香りが漂っている。
奥の木製デスクから立ち上がり、男を迎え入れたのは
一瞬で見とれてしまうほどの女性だった。
膝まで届きそうな美しい黒髪ロングに、
日本人形のように額で水平に切り揃えられた前髪がよく似合う。
白いブラウスに身を包んだ聖蓮華は、穏やかで
深みのある瞳で男を優しく見つめ、そっと微笑んだ。
「ようこそ、繭の家へ。……どうぞ、そちらのソファーへお掛けになってくださいね。温かいハーブティーをお入れします」
硝子器に注がれた透明な琥珀色の茶から、心地よい湯気が立ち上る。
レムの事務所で出されたあの冷えた「おーい粗茶」とは何もかもが真逆だった。
男は緊張を少しずつほぐしながら、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……実は、気味の悪い現象に悩まされていて……」
男は、ここ数ヶ月自分を苦しめている『耳契り』の恐怖を吐露した。
夢の中だけでなく、仕事で弱気になった時や他人に
媚びを売ろうとした瞬間に、誰もいないはずの右耳を巨大な手で強く引っ張られ、
肉が裂ける激痛と共に『なにくそッ!』という怒声が響くこと。
そして昨日、怪しい探偵事務所で「自分を押し殺してきた自業自得だ」
「お前の卑屈さの代償だ」と冷たく突き放されたこと――。
男が途切れ途切れに話す間、蓮華は一度も言葉を挟むことなく、
男の目を見つめて静かに頷き続けていた。
男が話し終えると、彼女は深く重い息を一つ吐き、痛ましそうな眼差しで男の手に自分の温かい手を重ねた。
「……本当によく、今まで耐えてこられましたね」
その一言だけで、男の胸の奥が熱く目頭がツンと痺れた。
「社会人七年目……会社でも一番期待され、
同時に最も理不尽に擦り減らされる時期です。あなたは周りの空気を壊さないよう、誰かを傷つけないよう、
本当の自分を殺してまで必死に笑顔を作ってきたのですね」
「は、はい……っ。俺、本当は悔しくて、言いたいこともたくさんあって……でも、笑うしかなくて……」
「ええ、分かっていますよ。その探偵さんはそれを『卑屈』だの『自業自得』だのと冷たく評価したようですが……私は全く違うと思います」
蓮華は男の手を優しく包み込み、まるで傷ついた子供を宥めるような甘く澄んだ声で語りかけた。
「それはあなたが誰よりも優しく、誠実で、周りの調和を大切にする人だからこそ纏わざるを得なかった、あまりにも痛々しい『愛の鎧』だったのですよ」
(ああ……この人は、俺の苦しみを分かってくれている) 男の頬を、ぽろぽろと涙が伝い落ちた。レムに「自業自得」と切り捨てられて傷ついていた心が、みるみると温かい湯に溶かされていく感覚がした。
「そして……その、あなたの右耳を引く『手』についてですが」
蓮華は少し首を傾げ、神秘的な微笑を浮かべた。
「私は、それは呪いでも戒めでもないと思います。
……それは【これ以上、自分を傷つけないで】とあなたを引き止めようとしてくれている、あなた自身の傷ついた心が作った『守護者の手』なのですよ」
「俺の……守護者の手……?」
「ええ。あなたの身体と心が
『もうこれ以上、自分を殺してまで他人に合わせなくていい』と、
強引にでもあなたを立ち止まらせ、守ろうとしてくれているのです。
……今、あなたの心は過酷な現実で擦り減り、古い自分を解きほぐして休ませている『蛹』の期間なのですよ」
蓮華はゆっくりと立ち上がると、男の背後に回って、その肩へそっと両手を置いた。耳元で囁かれる言葉は、まるで深い眠りへと誘う子守唄のように男の意識を痺れさせていく。
「もし……また夢でその手が現れたら、どうか怖がらず、抗わずに、その手を優しく握り返してみてください」
「握り……返す……?」
「ええ。そして、その手が導いてくれるまま、あなたが何一つ傷つかずに済む『温かい繭』の中へ、身を委ねてみてください。
……誰の顔色も窺わなくていい、あなただけの静かな答えが見つかった時、
あなたは蛹から羽化した美しい蝶のように、また新しい翼で力強く羽ばたけるはずですから」
「繭……。蝶に……」
「もう、頑張らなくていいのですよ。あなたはもう、十分すぎるほど戦ったのですから」
蓮華の言葉が、男の心に抵抗する気力を完全に奪い去っていく。 男は深い安心感と幸福感の中で、深く深く、頷いていた――。
―—――――――――
◇
その夜。男は夢の中で、自分を強引に引っ張る手への抵抗をやめ、そっと握り返した。
途端に耳の激痛は幻のように消え去る。
代わりに男を包み込んだのは、温かく白い霧――「繭」の内部だった。
そこは誰の顔色を窺うこともない、絶対的な静寂と優しさに満ちた世界。
遥がいる。タカシがいる。かつて失った者、
すれ違った者たちの姿がそこにあった。
自分を脅かし、傷つける者はもうここには来ない。
――あぁ、なんて心地良い空間だろう。
まるで母の胎内に抱き留められたように、遠くで響く穏やかな波の音だけが、彼を満たしていた。
――
現実世界での男は、あの日を境にピタリと会社を休んだ。
「繭の家」のシェルターのベッドに横たわったまま、
うつろな瞳で天井の一点を見つめ、呼びかけにも一切応じない。
まるで、中身の魂だけをきれいに抜き取られた空っぽの「殻」のように、
息をしていることすら忘れたかのような完全な無気力状態に陥っていた。
―—―――
◇
「た、探偵さん……助けてくれ!! 俺が余計なところを紹介したせいで……あいつが『繭の家』から戻ってこなくなっちゃったんだよ!!」
雑居ビルのドアを打ち破らんばかりの勢いで駆け込んできた依頼人の友人は、青ざめた顔でレムのデスクにしがみつき、激しく胸倉を濡らす勢いで悲鳴を上げた。
レムは灰皿のフチで煙草の灰をトントンと落とすと、紫煙の向こうから冷めた瞳で友人を見下ろした。
「……『繭の家』ねえ。聖蓮華のところへ行かせたのか」
レムはソファからだるそうに立ち上がると、深く煙を吐き出した。
「自分の本音を隠して他人に媚びるのに疲れた男に、『頑張らなくていい』って甘い麻酔を打ち込み、傷つかないぬるま湯に沈める……あいつの得意な手口だ。
抗うのをやめさせられ、まんまと『綺麗な繭』の中で腐り始めたわけだ」




