第15話:繭の家-前編-
# 第15話:繭の家-前編-
「あのー、すいません……ここ、境界探偵……さんでしょうか?」
ガラン、ガラン、と真鍮のドア鈴が寂しげな音を立てた。
雑居ビル二階の薄暗い事務所に足を踏み入れたのは、スーツ姿の冴えない男だった。社会人七年目になるという男は、
疲れ切った顔でレムへ向け、奇妙で不気味な相談を始めた。
最近、夢の中でも
そして現実で少しでも弱気になった時でも、誰もいないはずの
右耳を巨大な手で強く引っ張られるのだという。
ブチリと肉が裂けるような感覚と共に、脳の奥で『なにくそッ!』という野太い怒声が響く。
男はその怪現象に怯えきっていた。
話を一通り聞き終えたレムは、ゆっくりと考察を始める。
「一回、五千円ね。……あ、粗茶、いる?」
レムは事務所の小さな冷蔵庫へ歩み寄ると、冷えたペットボトルを一本、テーブルの上にポンと置いた。
ラベルには『おーい粗茶(渋め)』と書かれている。
「ほ、ほんとに、粗茶なんですね……」
男が困惑していると、レムは灰皿の縁で煙草の灰を静かに落とし、硝子玉のような瞳で男をじっと射抜いた。
「……パニック障害による自傷行為かもな」
「え……?」
「あ、ひょっとして、集落とか、田舎の出身だったりする?」
男は急に無関係に思える質問をされ、意図が分からず困惑した。
「耳契り(みみちぎり)、って聞いたことある?」
レムは細い煙を天井にくゆらせながら、淡々と語り出す。
「怪談や民俗学的な類似事象における『耳引き』や『戒め』の怪異だ。古来の村社会で、『村の掟(同調圧力)に従い、個人の本音や悲鳴は決して口に出さず、聞かなかったことにする』という、村人たちの抑圧された同調圧力が生み出した呪いさ」
「同調、圧力……?」
「現代では、会社や人間関係で『自分を押し殺して空気を読む』人間に憑りつく。憑かれた人間には、他人に都合よく合わせるのが異常に上手くなる【怪異の恩恵】がある。その代償として、『自分の本当の心の声を聴くこと』を禁じられるんだ」
レムは紫煙の向こうから、冷ややかな視線を向けた。
「自分を殺して生きることで生と死の『境界』が緩み、向こう側へ滑り落ちそうになった魂が、脳の奥で『なにくそッ!』と叫ぶ……。本音を言いたいのか、あるいは常に誰かの意見に従い続ける呪縛から解き放たれたいのかもな」
レムの言葉を聞きながら、男は思い当たる節を次々と脳裏に浮かべていた。
――かつて好きだった、幼馴染の遥。
彼女には片思いの相手がいた。同じく幼馴染のタカシだ。
タカシの友人として、二人の後ろを金魚のふんのようについて回る日々。
ずっと胸の奥で悶々としたやりきれなさに苛まれていたが、ある日、遥が笑って言ったのだ。
『私達、このままでいたいね。ずっと』
胸を突き刺すような切なさの中で、本音など言えるはずもなく。
『あ、あぁ……そうだなっ!』
自分はおどけた顔を作り、ヘラヘラと笑ってみせることしかできなかった。
――会社で上司からどんなに理不尽な要求をされても、責任を擦り付けられても。
(悔しい……! なんて身勝手な言い分なんだ……! 自分の言葉に責任持てよ!!)
腹の底でははらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えていても、次の瞬間には口角を無理やり引き上げ、お調子者の笑顔で媚びを売っていた。
『いや、おっしゃる通りです!! さすが部長!! そこに気が付くとは……いやー、まったく気が付きませんでした!!』
『だろうー!? まったく、お前もまだまだだなぁ!』
バシバシと調子よく背中を叩く上司に、へこへこと頭を下げ続ける自分。
――そうだ。自分はそうやって、いつも自分の本心を殺して生き込んできたのだ。
「何か、その呪縛に囚われるような儀式めいたことに身に覚えはあるか?」
レムの問いかけに、男は我に返って首を捻った。
「儀式……? うーん……こっくりさんとか、神社への肝試し、廃墟に行ったりとか、人並みの遊びはやったと思いますけど……そんな本格的な儀式なんてやったことないですよ。俺、ずっとこの街で生まれ育ったから、民俗学的な習慣とかもなかったですし……」
「ふーん」
レムは興味なさそうに吐き捨てた。
「まあ、いいや。耳契りは、あんたにこれまで『都合よく立ち回る力』を与えてきた。
少なからずその恩恵に預かってきたんだろ? でももう、
その契約が破棄されようとしてる。
その痛みは、あんた自身が生きるために上げてきた抵抗の悲鳴さ。……理解できた? 一回五千円ね」
男は呆気にとられた。
何か劇的なお祓いや解決をしてくれるのだと思っていたのに、ただ話を聞いて持論を語られただけだったのだ。
「えっ!? それだけ!? あの、解決策は!? お祓いとか、なんかやってくれるんじゃないんですか!? 五千円って、俺にとっちゃ結構な痛手なんですよ!」
「ないよ。現象みたいなモノだから。あとはあんたがどうしたいのか、それだけだよ」
「えっ……! じ、じゃあ、このままじゃ耳を千切られちゃうじゃないか!!」
「自業自得じゃね?これまでずっと卑劣に媚びへつらう事を選んで来た。今更生き方を変えようってんだから、痛みくらい伴うだろ?」
納得のいかない男は、冷めた『おーい粗茶』を一気に飲み干すと、顔をしかめた。そして反射的に、身体に染みついた愛想笑いを浮かべて叫んだ。
「美味い!! お茶ありがとう!!」
本心とは真逆の言葉を叫んでおきながら、男は憤慨した様子でテーブルに五千円札を叩きつけ、乱暴に事務所を飛び出していった。
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