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第13話:忘れ道

# 第13話:忘れ道


「あのー、すいません……ここ、境界探偵……さんでしょうか?」


ガラン、ガラン、と真鍮のドア鈴が寂しげな音を立てた。雑居ビル二階の薄暗い事務所に足を踏み入れたのは、白い汗拭きタオルを首に巻いた、太った中年男だった。


レムはソファに深々と身を預け、煙草の紫煙の向こうから、硝子玉のような無機質な瞳で見つめている。


「……何か用?」


「あ、あの、ご相談なんですけど、いいでしょうか……?」


「いいよ。一回5000円ね」

男は革張りの椅子へ恐る恐る腰を下ろし、十年前のあの日――会社をクビになり、実家裏の旧道で出遭った奇妙な体験を短く語り始めた。


十年前、失意の中で実家裏の山道に入り込んだ男は、

気づけば昼なのに夕闇のように暗い、深い森の旧道へ迷い込んでいた。

壊れた暗闇のトンネルを這い進み、足首を捻る丸石の河原に体力をすり潰され、

同じような景色を何度も巡らされるような逃げ場のない閉塞感に苛まれた。


半狂乱になって崖を這い上がり、

側道のトンネル前にある古びた道祖神の横へ脱出した時には、すでに夕刻。命がけで丸一日歩き回ったはずなのに、そこは実家から車で十五分もかからない目と鼻の先だった。


そしてその夜、迎えに来てくれた車の中で、今は亡き両親から「いい歳こいたオッサンが、山で何やってんだ!」とひどく怒られたのだという。


語り終えた男に、レムは冷ややかに告げた。


「で?」


「……あれは夢だったのか、現実だったのか。あの時、山に置き忘れてきたものが何だったのか……それが最近、妙に気になって夜も眠れないんですよ」


男は首に巻いたタオルを強く握りしめ、縋るような視線を向けた。

だが、レムは紫煙を細く吐き出すだけで、感情の読めない目を向け返す。


「なんで?」


「いや、その……ふと、この前急に夢で思い出したんです。

それに、もう一つ変な夢を見ましてね。……あの暗い旧道を、杖を突きながら必死に登っている人がいるんです。

登山っていうんでしょうか、なんだろう、

泥だらけで歩いている誰かの姿を、俺がバイパスの上から車を走らせて眺めているんです。

『ああ、あそこを徒歩で行こうとしてる奴が、俺以外にもいるんだな』って……」


男は記憶をなぞるように視線を宙に泳がせ、喉を鳴らした。


「そんな夢か、あるいは、あの出口のない森を延々と彷徨う夢か……近頃は、そのどちらかばかり見るんです」


「ふーん」


レムは興味のなさそうな相槌を一つ打つと、灰皿へ静かに灰を落とした。



「お前、あの日タダでその『境界』から帰ってこられたと思っているのか? 山ってのは時に現世に嫌気がさした人間を引きずり込む場所だ。

お前があの日、無事に外へ出られたのは、山へ何か『代償』を差し出したからだろ。

最近になって夢を見るのは、

十年経ってその代償の期限が切れ、山の神がお前の残りの命を取り立てに来てんだよ」


「はっ??ひっ……! 」


顔色は蒼白になり、何かを思い出したように震えて恐怖している。


「助けてください、探偵さん……!」


「境界に差し出した代償を、後からキャンセルすることはでないよ。

山の神ってのは古来から残酷なもので、

彼らは自分たちの境界を侵す者は許さない。

約束を破る者も許さない。

そして俺にはどうにもでき、ない。」


レムの冷酷な宣告に、男は顔を土気色に変え、恐怖のあまり悲鳴を上げながら事務所を飛び出していった。


―—―――――――――――――――


◇


その夜、ボロボロの安アパートに逃げ帰った男は、恐怖を紛らわせるように安酒を胃に煽り、無理やり目を閉じた。


……そして、またあの夢を見た。


またしてもあの暗い山を彷徨い、側道の道祖神の前まで辿り着いた男は、

泥の中に膝をつき、「お願いだ、ここから出してくれ―――!!」と号泣しながら泣き叫んでいた。



ふと顔を上げると、周囲は自分の背丈を超える深い草木に完全に覆い尽くされ、道などどこにもなくなっていた。


絶望に押し潰されそうになったその時、ザクッ、ザクッ、と草木を力強く刈り分ける音が近づいてきた。


現れたのは、生前のおばあちゃんだった。口数は少なく、昔と同じ厳しい表情で男を見下ろすと、短く言った。


「付いといで」


ばあちゃんは小さな身体で鎌を振るい、背丈を超える草を刈り分けながら、少しずつ前へ進んでいく。その背中を追いかけながら

男は必死に声をかけた。


「ばあちゃんが若い頃はね、まだ道っていう道は整備されてなかったんだ。だからね、

自分の道は自分でこうやって整備するしかなかったんだよ。

あんたも同じさ、時代は変わってもね」


やがて草むらを抜けると見覚えのある国道へ出た。

そこには車が停まっており、フロントガラス越しに亡くなった母と父の姿があった。


運転席の母が窓を開けて叫ぶ。

「このバカっ!!」

助手席の父も怒鳴りつける。

「いい歳こいたおっさんが何やってんだ! 行くぞ!」


「あ、うん、ありがとう、迎えに来てくれて……」


男は涙を拭いながら車へ駆け寄り、ふと振り返った。

「あ、ばあちゃんは? ばあちゃんも帰ろう、家に」


だが、さっきまで後ろにいたはずのおばあちゃんの姿は、

どこにもなかった。



―—―――――――――――――――


◇


ハッと目が覚めた時、男の頬は溢れ出る涙で濡れていた。


親の無償の愛。


そして、ばあちゃんはずっと自分を見守ってくれていたのだ。


あの日、出口のない恐ろしい森から自分を帰してくれたのは、

山の神の代償などではなく、ばあちゃんと両親の深い愛だったのだと

男は魂で悟った。


翌日、男はもう一度レムの事務所のドアを叩いた。


「驚いたね、昨日あんたが出て行った時、今夜が山だって思ってたよ。」


珍しく少し驚いたレムに対し、男は夕べ見た夢のすべてを包み隠さず話した。


「探偵さん……もし、俺のせいでばあちゃんが、

まだあの恐ろしい森に留まっているんだとしたら、俺、ばあちゃんを解放したいんです。どうすればいいですか」


レムは煙草の煙を吐き出すと、淡々と言った。

「あの道祖神に行って、直接伝えろ」


男はお供え物の御神酒代わりの酒瓶と菓子を買い込み、十年前のあの側道へと向かった。


草に埋もれていた小さな道祖神は風雨でボロボロになり、

赤い前掛けも外れかけていた。

男は優しく前掛けを直し、持ってきたお供え物を綺麗に並べた。


そして、道祖神に向かって固く手を合わせた。


「あの時、助けていただいてありがとうございました。それと…

…もし自分のせいで、ばあちゃんがまだあの山を

彷徨っているのだとしたら、どうかばあちゃんを解放してください」


一心不乱に祈りを捧げていると、後ろでそっと車のエンジン音と車が停まる音がした。

振り返ると、煙草をくわえたレムが車から降りてくるところだった。


「道祖神ってのは、元々この国中の街道にあって、

人々が道に迷わないように導き、人里へ魔物や怪異が

来ないように守ってくれている存在だ。

……お前のばあさんが元々、道なき道を戦後から切り開いて

生きてきたのなら、導きさえあればとっくに出られてるさ」


「え……じゃあ、ばあちゃんは……」


「ああ。だがな、ばあさんを安心させたいなら、

お前がもう二度と道に迷わないことだ。

自分の道を自分で切り開き、整備していけ」


レムはそう言い残すと、車に乗り込み、エンジン音を響かせて去っていった。



―—―――――――――――――――


◇


その夜、男はまた夢を見た。

国道沿いのバイパスを、太った男は自らハンドルを握り、車で走っていた。


ふと対向車線に目をやると、すれ違う一台の車が見えた。


その車の前列には両親が乗り、後部座席には

笑顔のおばあちゃんが乗っていた。

すれ違いざま、家族は温かく男を見守るように頷いて去っていった。


翌日。青空が広がる墓地で、

男は家族が眠る墓標の前で深く手を合わせていた。


「大丈夫だよ。もう、俺、迷わないよ。迷っても、ちゃんと自分で前に進んでいくからね」

爽やかな風が吹き抜け、男の頬を優しく撫でていった。


(第13話:-忘れ道-完)

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