第12話 単話怪談:忘れ道
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第12話 単話怪談:忘れ道
あれはもう、十パーセントも真実だったのか怪しい、あやふやな記憶だ。
あるいは、あの頃の過酷な現実が見せた、出口のない悪夢だったのかもしれない。
今から十年ほど前。
勤めていた会社を事実上のクビになり、再就職の道も途絶え
自分が社会から完全に弾き出されたような絶望の中にいた頃のことだ。
三十を超え、居場所のない実家で息をひそめる毎日に耐えかね、俺は逃げるように家を飛び出した。
実家の裏手には、山へと続く小さな登り口があった。
かつて生前のおばあちゃんが小さな体で鎌を振り、手作業で雑草を刈り取って細々と整えていた、あの見慣れた道だ。
現実の重圧から逃げるように足を踏み入れた俺は、そのまま何かに手招きされるように、森の深部へと沈んでいく「旧道」へと迷い込んでいった。
◇
あらかじめ結末を言うなら、俺は街へ続く街道の脇にある自然公園の側道、トンネルの前へと辿り着いた。
道祖神、いわゆる地蔵があったのが特徴的だった。
だが、そこに至るまでの体験は
まともな舗装路を歩けば一時間もかからないはずの距離に、
引き伸ばされたゴムのような膨大な時間が費やされるという、
正気ではいられないものだった。
山というのは、最初からひとつの巨大な『異界』だったのだと、俺はその時身体で理解した。
時刻はまだ昼過ぎのはずだった。
だが、足を進めるにつれて頭上を埋め尽くす巨木が
太陽の光を完全に遮り、周囲はまるで逢魔が時のように深く、
不気味な夕闇に包まれていく。
――昼なのに、夕闇のように暗い。
その異常な暗がりの中に立っていると、自分が今いる場所がもう
人間の立ち入っていい世界ではないという恐怖がじわじわと皮膚を刺した。
引き返そうと後ろを振り返ったが、つい数十秒前まで歩いてきたはずの踏み痕は、生い茂る藪と巨木の影に呑み込まれ、
どこが帰り道だったのかすら判別できなくなっていた。
進むしかなかった。
腹を崩した巨大な獣の胎内のような、真っ暗に壊れたトンネルが行くてに現れた。
ここを進む事を脳が拒絶している。
内部は湿った冷気とカビの匂いに満ち、闇の奥からは「ポツン、ポツン」と不気味な水滴の音が響いていた。
足元は崩れたコンクリートの破片と硬い地面、そして伸びた草が身体に纏わりつく感触が不愉快だった。
手探りでざらついた壁を辿り、腰を屈めながら進む強烈な閉塞感。
いつ天井が崩れ落ちてくるかも分からない恐怖と、暗闇の中を進む恐怖に、喉の奥が引きつった。
そこを這うように抜け出たかと思えば、次に現れたのは、滑らかな礫と、岩肌が剥き出しの河原だった。
一見、平坦に見える丸石の群れは、足を乗せた瞬間にガラガラと音を立てて不規則に崩れた。
踏ん張りが一切効かない。一歩進むたびに足首がグニャリと捻れ、膝と腰に強烈な疲労感が走る。
丸石に足を取られて何度も体勢を崩し、鋭い石の角に両膝と手のひらを強く打ち付けた。
破れたズボンの隙間から血が滲み、草の汁と泥が混じり合う。
額から噴き出す油汗が目に入り、強い痛みに視界が滲む。
二歩進んでは一歩滑り落ちるような気の遠くなる徒労感。
まるで、俺の体力をすり潰して動けなくさせるためだけに用意された、悪意の底なし沼だった。
◇
恐怖がピークに達したのは、それらの不気味な地形を幾つも越えた後のことだった。
不思議なことに、どれほど深い山奥であっても、足元には誰かが歩き踏み固めたかのような「一筋の獣道」が不自然にずっと続いていた。
俺はその一本道を信じて必死に歩き続けた。
だが、歩いても、歩いても、景色が終わらない。
――さっき通り過ぎたはずの木と同じ形じゃないのか?
確かに真っ直ぐ歩いているはずなのに、
まるで空間が円を描いて歪んでいるかのように、寸分違わぬ不気味な光景を巡らされているような恐ろしい錯覚に襲われた。
『ループしているんじゃないのか……?』
『俺は、最初から出口の無い道に迷い込んでしまったんじゃないのか……?』
そう思い至った瞬間、全身の毛穴が逆立った。
鳥のさえずり一つ聞こえない死の静寂。
自分の荒い息遣いだけが響く森の中で、外へ出られる保証などどこにもないという逃げ場のない閉塞感が、喉元を締め上げてくる。
そして――俺は確かに、あの薄暗い森の奥で、何か**息の止まるような恐ろしいもの**に遭遇したのだ。
だが、脳が自衛のために記憶の回路を焼き切ってしまったのか、どうしても思い出せない。
ただ、「あの場所から二度と出られないかもしれない」という底なしの恐怖の感触だけが、今も皮膚の奥にへばりついている。
◇
どれほど彷徨っただろうか。
半狂乱になり、爪が剥がれるのも構わず崖のような斜面を這い上がり、ガードレールをくぐってアスファルトの側道へ転がり出た時、周囲はすでに茜色に染まっていた。
刺さるような西日に目を細めながら、自分の姿を見下ろした。
服は擦り切れ、泥と草の汁に塗れ、顔や腕は無数の虫に刺されて真っ赤に腫れ上がっていた。
だが、側道の標識を目にした瞬間、俺は脱出の安堵ではなく、底なしの絶望に突き落とされた。
(……え?)
そこは、街へ続く街道脇の自然公園の近く。
午前中から命を削るような思いで歩き続け、
あの死の迷宮を突破した結果が
――現実の距離に直せば、実家からそれほど離れた場所ではなかったのだ。
丸一日がかりで死に物狂いに歩いた結果が、これっぽっちという不条理。
空間と時間が不条理に狂わされ、
その時の自分には何が原因かまったくわからなかったが、とにかく激しいショックで、頭が真っ白になっていた。
がたがた震える手で携帯電話を取り出し、親に電話をかけた。
情けない声で助けを求め、迎えに来てもらった車に乗った。
車だと、十五分もかからずに実家へと着いてしまった。
後部座席で小さくなっている俺に対し、運転席の母から、そして助手席に座っていた――今はもう亡くなってしまった親父から、ひどく怒られた。
「いい歳こいたオッサンが、山で何やってんだ!」
青年と呼ぶにはあまりに遅く、世間的には「いい歳したオッサン」と呼ばれる年齢になってもなお、無職のまま泥だらけになって山で迷い、
親を呼びつける自分の情けなさと惨めさ。
その痛烈な情けなさが、冷たい刃のように心に突き刺さった。
◇
あの体験は、現実だったのか。
それとも、行き場のない失意が見せた幻想だったのか。
今でも答えは出ない。
ただ、あの山で味わった狂おしいほどの恐怖と不安の深さに比べれば、
その後の人生で趣味の登山などに赴き、
どんな険しい山に出会おうと、「あの時に比べたらまだ平気だ」と思えてしまうのだ。
あの日、あの出口のない森の奥で何があったのかは、今も思い出せない。
そしてきっと――**思い出さない方がいいのだと、俺の本能が今も固く鍵をかけている。**
(完)




