最初の質問
翌日の放課後は、思っていたよりも早くやって来た。
課題のプリントは、朝からずっと鞄の中に入ったままだった。
それを見るたびに思い出す。
昨日、星野さんが言った言葉。
『明日から始めよう』
それだけなのに。
なぜだか少しだけ緊張している自分がいた。
◇
終業のチャイムが鳴る。
教室では、生徒たちがそれぞれのペアと話し始めていた。
すぐに課題へ取り掛かる人。
一緒に帰る約束をする人。
そんな賑やかな空気の中で。
僕たちは特に何も言わなかった。
ただ。
視線が合う。
星野さんはいつものように優しく笑った。
「……行こっか」
「……うん」
それだけで十分だった。
二人並んで図書室へ向かう。
最初は少しだけ気まずかった沈黙も、今では不思議なくらい心地いい。
言葉がなくても。
一緒に歩いているだけで安心できた。
◇
図書室は今日も静かだった。
高い窓から差し込む午後の日差しが、木製の机を柔らかく照らしている。
向かい合って席に座ると、星野さんはプリントを机の真ん中へ置いた。
ペンを手に取り、小さく微笑む。
「……どっちから始める?」
僕は肩をすくめた。
「僕はどっちでもいいよ」
「じゃあ……」
彼女は少しだけ照れくさそうに笑う。
「最初は私から質問するね」
「うん」
◇
星野さんはプリントへ目を落とした。
「最初の質問」
「好きな教科は?」
「……英語かな」
「そうなんだ」
「物語を読むのが好きだから」
彼女はメモを取りながら微笑んだ。
「なんだか、蓮くんらしいね」
「そうかな?」
「うん」
「本を読んでる時、すごく落ち着いて見えるから」
そんなことを言われたのは初めてだった。
「……考えたこともなかったな」
彼女は嬉しそうに頷き、静かに書き込んでいく。
◇
「次は……趣味」
少し考えてから答える。
「……スケッチかな」
彼女は少し驚いたように目を丸くした。
「絵を描くの?」
「そんなに上手じゃないけどね」
「ただ、描くのは好きなんだ」
「何を描くことが多いの?」
「風景とか……」
少し迷ってから続ける。
「あと、電車かな」
「……電車?」
「うん」
「でも、どうして好きなのかは分からない」
口にした瞬間、自分でも少し不思議に思った。
どうして電車なんだろう。
理由は思い出せない。
それでも。
どこか懐かしい気がする。
星野さんは静かに視線を落とした。
「……そうなんだ」
その笑顔が。
一瞬だけ、少し寂しそうに見えた。
◇
彼女は気持ちを切り替えるように次の質問へ進む。
「好きな季節は?」
「……冬」
今度は迷わなかった。
答えた瞬間、星野さんが少し驚いたように瞬きをする。
「即答だったね」
「……そうだった?」
「どうして冬なの?」
僕は困ったように笑う。
「分からない」
「ただ……好きなんだ」
「理由はないけど」
自分で言っていても変な答えだった。
星野さんは少しだけ僕を見つめてから、小さく微笑んだ。
「……私も冬が好き」
「本当に?」
彼女は頷く。
「静かだから」
「空気も澄んでいて」
「なんだか、心まで落ち着く気がするの」
「……分かる気がする」
気づけば。
僕も自然と笑っていた。
穏やかな空気が、二人の間をゆっくりと流れていく。
星野さんはメモを取り終えると、小さく笑った。
「……じゃあ、今度は私ね」
「うん」
僕はプリントに目を落とす。
「えっと……好きな食べ物は?」
その質問を聞いた彼女は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「それなら簡単」
「甘い卵焼き」
「へぇ」
少し意外だった。
「お母さんが作ってくれる卵焼きが、一番好きなの」
どこか誇らしそうな笑顔だった。
「それは気になるな」
僕がそう言うと、彼女はくすっと笑う。
「……いつか食べてもらえるといいね」
一瞬だけ。
二人とも、その言葉の意味を深く考えなかった。
――いつか。
その何気ない一言だけが、静かな空気の中へ溶けていく。
◇
インタビューは、そのまま続いた。
好きな本。
好きな場所。
好きな動物。
一つひとつは、どれも他愛ない質問ばかりだった。
それでも。
一つ答えるたびに新しい話が生まれ。
気づけば、自然と笑い合っていた。
いつの間にか。
これは課題ではなくなっていた。
ただ。
お互いのことを少しずつ知っていく時間になっていた。
◇
しばらくして。
僕の視線が、一つの質問で止まる。
『あなたが憧れている人は?』
僕は顔を上げた。
「……星野さん」
「ん?」
「憧れている人って、いる?」
その瞬間だった。
彼女の笑顔が、静かに消えた。
「……」
返事がない。
ペンを持つ指先が、ほんの少しだけ力を込める。
沈黙。
ほんの数秒のはずなのに。
とても長く感じられた。
やがて。
彼女は優しく笑う。
だけど、その笑顔は少しだけ寂しかった。
「……その質問だけ」
「今は、まだ答えないでもいい?」
僕は小さく頷く。
「もちろん」
「無理に答えなくていいよ」
その言葉を聞いて。
彼女は少しだけ安心したように微笑んだ。
「……ありがとう」
理由は聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたから。
答えには。
きっと、答えられる時がある。
今じゃないだけなんだ。
そう思った。
◇
気づけば。
窓の外は夕焼け色に染まり始めていた。
「……そろそろ帰ろっか」
「え?」
時計を見る。
「もう二時間近く経ってる」
「そんなに?」
二人とも思わず笑ってしまう。
夢中で話しているうちに、時間なんて忘れていた。
荷物をまとめながら、星野さんはプリントを丁寧に折りたたむ。
そこには、一つだけ空白のまま残された質問があった。
『あなたが憧れている人は?』
なぜだろう。
その質問だけが、頭から離れなかった。
◇
駅までの帰り道。
夏の風が街路樹を静かに揺らしていた。
今日も、二人で並んで歩く。
会話は少なかった。
それでも。
今日の沈黙は、昨日までとは少し違う気がした。
何かを考えているような。
そんな静けさだった。
駅へ着くと、星野さんが立ち止まる。
「……今日はありがとう」
「こちらこそ」
「僕も楽しかった」
そう言うと。
彼女は嬉しそうに笑った。
「……また明日、蓮くん」
「うん」
「また明日」
人混みの中へ消えていく彼女の背中を見送りながら。
僕は鞄の中のプリントへ視線を落とす。
まだ答えを知らない質問が、たくさん残っている。
プリントの上にも。
そして――
僕たちの間にも。
――第9話・終――




