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新しい始まり

週明けの朝は、不思議なくらい穏やかだった。


 病院で目を覚まして以来、初めてだった。


 失くした記憶のことを考えずに朝を迎えたのは。


 その代わり――


 気づけば、星野さんはもう教室に来ているだろうか、なんて考えている。


「……何考えてるんだ、僕」


 自分で自分に苦笑しながら教室の扉を開ける。


 予想通り。


 星野さんはもう席に座っていた。


 朝日が窓から差し込み、本を読んでいた彼女の机を優しく照らしている。


 ふと顔を上げた彼女と目が合った。


 そして、柔らかく微笑む。


「おはよう、蓮くん」


「……おはよう」


 その挨拶はあまりにも自然で。


 返事をしたあとになって気づく。


 それがもう――


 当たり前になり始めていることに。


 ◇


 チャイムが鳴り、ホームルームが始まった。


 担任の先生はプリントの束を持って教壇へ立つ。


「先週話した進路学習の課題についてですが――」


 その一言で、教室のあちこちからため息が漏れた。


「今日は詳しい内容を説明します」


 先生はプリントを配りながら続ける。


「この課題は、将来の夢を考えるだけではありません」


「相手を知ることも目的です」


「これから二週間、ペアでお互いにインタビューをし、相手のことを知ったうえで、クラスのみんなに紹介してもらいます」


 途端に教室がざわつき始める。


「えー、発表あるの?」


「また人前で話すのか……」


「緊張するなぁ」


 先生は苦笑した。


「時間は十分あります。焦らなくて大丈夫ですよ」


 僕は配られたプリントへ目を落とした。


 好きな教科。


 趣味。


 長所。


 短所。


 将来の目標。


 夢。


 ……


 そこで。


 僕の手が止まった。


 気づけば、その文字をじっと見つめていた。


 ◇


「……蓮くん?」


「……蓮くん」


「……蓮くん?」


 はっとして顔を上げる。


 星野さんが心配そうにこちらを見ていた。


「……大丈夫?」


「うん」


 僕は慌てて笑顔を作る。


「ちょっと読んでただけ」


 星野さんはプリントへ視線を落とす。


 それ以上は何も聞かなかった。


 ただ、小さく微笑んで言う。


「……一緒に頑張ろうね」


「……うん」


 ◇


 午前中の授業は穏やかに過ぎていった。


 先生が課題の話をするたびに、教室は少しだけ賑やかになる。


 もう隣同士で相談を始めているペアもいた。


 それでも。


 僕たちはまだ、課題についてほとんど話さなかった。


 不思議と――


 急ぐ必要なんてない気がしていた。


 ◇


 昼休み。


 いつものように、星野さんがお弁当を持って僕の席までやって来る。


「行こっか?」


「……もちろん」


 二人でいつもの窓際へ向かった。


 話題は学校の給食のことから始まり。


 好きな食べ物。


 コンビニのスイーツ。


 手作りのお菓子とどっちが好きか。


 そんな、どうでもいいような話ばかり。


 その時だった。


 星野さんが、小さく笑った。


 声を上げるほどじゃない。


 でも。


 心から楽しそうな笑顔だった。


 その笑顔を見ていると。


 なぜか僕まで笑ってしまう。


 ◇


 放課後。


 帰る生徒たちで校舎は少しずつ静かになっていく。


 課題について話し始めるペアもあれば、そのまま帰る人もいた。


 星野さんはプリントを見つめながら言った。


「……図書室、寄っていかない?」


「今日?」


「インタビューはまだ始めなくてもいいから」


「まずは、どう進めるか考えようと思って」


「……いいね」


 僕は頷いた。


 ◇


 図書室は今日も静かだった。


 窓際の席に向かい合って座る。


 インタビューを始めることはせず。


 どうやってまとめるか。


 どんな発表にするか。


 そんなことをゆっくり話し合った。


 気づけば、一時間近く経っていた。


「……もうこんな時間だね」


「うん」


 荷物をまとめながら、星野さんはプリントを丁寧に折りたたむ。


 そして、小さく微笑んだ。


「……インタビューは、明日から始めよう」


「……明日か」


 僕は頷く。


「少し楽しみかも」


 一瞬だけ。


 星野さんは驚いたような顔をした。


 だけど、すぐに優しく笑う。


「……私も」


 ◇


 その夜。


 机の上には折りたたまれたプリントが置かれていた。


 もう一度だけ開いてみる。


 視線が止まったのは、一つの項目だった。


 『将来の夢』


 ……


 静かにプリントを閉じる。


「……僕は」


「……どんな人になりたかったんだろう」


 答えは返ってこない。


 窓の外では、夏の夜風がカーテンを静かに揺らしていた。

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