答えを知らない僕
目を覚まして最初に思い浮かんだのは、夢じゃなかった。
頭の中に残っていたのは――
あの、小さなため息だった。
「……はぁ」
本当に小さな、本当にかすかな吐息。
聞き間違いだったんじゃないかと思うくらい、弱々しい声。
それなのに――
昨日から、ずっと頭から離れない。
どうしてだろう。
自分でも分からない。
ただ一つだけ思うのは。
あれは、告白を断った人のため息には聞こえなかったということだ。
「……考えすぎか」
小さく苦笑しながらベッドを降りる。
そんなことを考えても、答えなんて出るはずがない。
それでも。
胸のどこかが引っかかったままだった。
◇
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。
見ているだけで心まで澄んでいくような朝。
電車の中は、いつもと変わらない通学風景だった。
友達同士で笑い合う生徒。
ぼんやりと窓の外を眺める人。
朝だというのに眠そうに揺られている人もいる。
昨日と同じ。
一昨日と同じ。
どこにでもある、普通の朝。
なのに――
どうして僕は、星野さんのことばかり考えているんだろう。
学校へ着き、教室の扉を開ける。
「おはよう」
聞き慣れ始めた声。
「……おはよう」
気づけば、何も考えずに返事をしていた。
窓際の席に座る星野さんが、ふわりと微笑む。
「今日は早いね」
「星野さんも」
「私はいつもこのくらいかな」
「そうなんだ」
彼女は小さく頷いた。
「静かな朝、好きだから」
「……なんとなく分かる気がする」
まだ教室には人が少ない。
窓から差し込む朝日が床を照らしている。
誰もいない教室は、不思議なくらい穏やかだった。
僕たちは無理に話そうとはしなかった。
それでも気まずくならない。
そんな沈黙だった。
しばらくして、星野さんが僕の顔を覗き込む。
「……また考え事?」
「え?」
「昨日から、ずっとそんな顔してる」
「そんなに分かりやすい?」
「少しだけ」
くすっと笑う。
「それは恥ずかしいな」
「私は嫌いじゃないよ」
「……そう?」
彼女は優しく首を振った。
「蓮くんって、正直だから」
「……」
正直。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
柔らかな笑顔。
その笑顔を見ていると、不思議と心が落ち着く。
やがて教室は、いつもの賑やかさを取り戻していった。
あちこちで椅子を引く音が響き、友達同士の笑い声が教室中に広がる。
そんな中でも――
ふと視線を感じた。
……一度じゃない。
何度も。
男子のグループがこちらを見ながら何かを囁き合っている。
女子たちは意味ありげに微笑みながら、僕たちへ視線を向けていた。
気づかないふりをしようと思った。
けれど――無理だった。
「……また噂されてるみたいだね」
小さく呟くと、星野さんも視線を向けた。
「……そうかも」
「気にならないの?」
彼女は少しだけ考えてから、静かに首を振る。
「ううん」
「人は話すものだから」
「きっと、これからも」
あまりにも自然に言うものだから、思わず苦笑してしまった。
「星野さんって、思ってたより強いんだね」
「そんなことないよ」
「じゃあ、どうして?」
少しだけ寂しそうに笑う。
「……慣れただけ」
その言葉が、不思議と胸に残った。
――慣れた。
昨日の告白みたいなことを、彼女は今まで何度経験してきたんだろう。
そう思うと、少しだけ切なくなった。
◇
ホームルームが始まった。
担任の先生がプリントの束を持って教壇へ立つ。
「今日は一つ連絡があります」
教室が静かになる。
「来週から進路学習の課題を二人一組で進めてもらいます」
途端に教室中からため息が漏れた。
「またペア課題か……」
「発表あるやつ?」
「面倒くさいなぁ」
先生は苦笑しながら続ける。
「今回は好きな相手と組んで構いません」
その一言で教室の空気が一変した。
「一緒にやろう!」
「もう決めてる?」
「あ、先約ある!」
あちこちで声が飛び交う。
僕も誰と組もうか考え始めた、その時だった。
「……蓮くん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
星野さんが、真っすぐ僕を見ていた。
「よかったら……一緒にやらない?」
あまりにも自然な誘いだった。
まるで最初から決まっていたみたいに。
「うん」
「僕でよければ」
そう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう」
その笑顔は派手じゃない。
だけど――
どこか安心したような笑顔だった。
その瞬間。
教室が少しだけ静かになる。
「また一緒なんだ」
「星野さん、自分から誘ったよね?」
「結構仲良いんだな」
そんな囁き声が耳に入る。
今度ばかりは聞こえないふりなんてできなかった。
「……本当に言われてるね」
苦笑すると、星野さんは小さく俯く。
「……ごめんね」
「え?」
「私のせいで」
思わず目を瞬かせた。
「どうして謝るの?」
「蓮くんが変なこと言われたら嫌だから」
思わず彼女を見つめる。
「……僕の心配?」
少しだけ間が空いた。
そして――
聞こえるか聞こえないかくらい小さく。
「……うん」
その返事だけで。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
午前中の授業は、そのまま穏やかに過ぎていった。
だけど。
僕の頭の中には、一つの疑問だけが残り続けていた。
どうして――
星野さんは、そこまで僕のことを気にかけてくれるんだろう。
気づけば昼休みになっていた。
教室はいつものように賑やかな空気に包まれ、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
「……蓮くん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
お弁当を抱えた星野さんが、僕の席の横に立っていた。
「今日も、一緒に食べてもいい?」
思わず笑ってしまう。
「もう毎日一緒なんだから、わざわざ聞かなくてもいいのに」
一瞬だけ目を丸くした彼女は、小さく首を傾げた。
「……嫌だった?」
「違うよ。」
「僕も同じことを考えてた。」
その言葉に、星野さんは安心したように微笑んだ。
「……よかった。」
二人で窓際のいつもの場所へ向かう。
いつからだろう。
一緒に昼食を食べることが当たり前になったのは。
約束したわけでもない。
誰かに言われたわけでもない。
気づけば、それが僕たちの日常になっていた。
◇
「……蓮くん。」
「ん?」
星野さんは少しだけ俯き、お弁当箱を見つめながら口を開いた。
「一つ、聞いてもいい?」
「もちろん。」
「……今、楽しい?」
「え?」
「学校。」
「クラス。」
「……ここにいること。」
思いがけない質問だった。
少し考えてから答える。
「うん。」
「楽しいと思う。」
「みんな優しいし。」
そこで言葉を止める。
そして、彼女の方を見る。
「それに……」
「学校が前より少しだけ、知らない場所じゃなくなった。」
星野さんがゆっくり瞬きをする。
「……それは、お友達?」
思わず笑う。
「うん。」
「君のおかげ。」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
彼女の時間が止まったように見えた。
やがて。
優しい笑顔が浮かぶ。
僕を静かに見つめながら。
「……よかった。」
小さく笑う。
「……本当に、よかった。」
その声には。
隠そうとしても隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
僕はその理由を知らない。
でも――
その笑顔を見ていると、不思議と胸が温かくなった。
放課後。
僕たちは課題を進めるため、図書室へ向かった。
図書室はいつも通り静かだった。
ページをめくる音だけが、静かな空間に小さく響いている。
向かい合って席に座り、それぞれ資料を広げる。
無理に会話を続けることもなく、僕たちは黙々と課題を進めていた。
必要な資料を見つけるたびに、本をそっと相手へ渡す。
そんな時間が、なぜか心地よかった。
「……蓮くん。」
「ん?」
「一ページ飛ばしてるよ。」
星野さんは僕のノートをそっとこちらへ向け、指先で見落としていた箇所を示した。
「あ、本当だ。」
「気づかなかった。」
彼女は小さく笑う。
「今日は少し上の空だから。」
「そんなに分かりやすい?」
「少しだけ。」
思わず苦笑する。
それ以上、言葉は続かなかった。
それでも。
気まずさなんて少しもない。
静かな時間を、同じ空間で過ごすだけで十分だった。
僕は知らなかった。
沈黙が、こんなにも穏やかに感じられることを。
◇
気がつけば、窓の外は夕焼け色に染まっていた。
「そろそろ帰ろうか。」
「うん。」
荷物をまとめ、校舎を出る。
校庭には部活動を続ける生徒が少しだけ残っていた。
夕方の風が、制服の裾を優しく揺らす。
しばらく並んで歩く。
どちらも何も話さない。
その沈黙さえ、もう嫌じゃなかった。
「……蓮くん。」
「ん?」
星野さんは前を向いたまま、小さく呟いた。
「ありがとう。」
「え?」
「今日、一緒にいてくれて。」
「話してくれて。」
少しだけ間を置いて。
「……友達になってくれて。」
思わず照れ笑いを浮かべる。
「そんなことで、お礼なんて。」
「誰でもすると思うよ。」
彼女は静かに首を振った。
「……違う。」
「みんなが、そうじゃないから。」
その声は、とても小さかった。
どこか寂しそうで。
切なさを隠すような声だった。
理由を聞こうとした、その瞬間。
彼女はいつもの笑顔を浮かべる。
「……ううん。」
「今のは忘れて。」
「ただ、お礼を言いたかっただけ。」
僕はそれ以上、何も聞かなかった。
◇
駅に着く。
「ここでお別れだね。」
「うん。」
「また明日。」
「また明日、蓮くん。」
小さく手を振る星野さん。
人混みの中へ消えていく後ろ姿を、僕はしばらく見送っていた。
見えなくなるまで。
ずっと。
◇
その夜。
部屋の窓から街の灯りを眺めながら、一人で考えていた。
ペンダント。
初めての出会い。
彼女が僕を「蓮くん」と呼んでしまったこと。
何度も僕を気遣ってくれたこと。
一緒に食べたアイス。
昨日の告白。
あの小さなため息。
そして今日。
『……よかった。』
『……本当に、よかった。』
『友達になってくれて、ありがとう。』
僕たちは出会って、まだ一週間しか経っていない。
少なくとも――
僕の記憶では。
それなのに。
星野さんは時々、不思議な表情で僕を見つめる。
まるで――
僕自身が忘れてしまった僕を、彼女だけが知っているように。
何度考えても。
答えは見つからない。
それでも。
一つだけ、心から離れない問いがあった。
――僕は、星野さんにとって何者なんだろう。
**――第一章・完――**




