どうしてなんだろう
翌朝。
目を覚ますと、昨夜見た夢がまだ頭の片隅に残っていた。
大きな木。
夏の青空。
誰かの笑い声。
そして――
小さな手が、僕の手をぎゅっと握っていた。
「……」
思い出そうとしても、その先は真っ白だった。
顔も。
名前も。
場所さえも思い出せない。
「……夢、か。」
小さく息を吐き、ベッドから起き上がる。
制服に着替え、朝食を済ませると、いつものように家を出た。
駅までの道を歩きながら、何度も夢のことを考えようとした。
だけど、そのたびに霧がかかったように記憶はぼやけていく。
結局、考えても仕方がない。
そう自分に言い聞かせながら学校へ向かった。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、いつもの賑やかな声が耳に飛び込んできた。
友達同士で話す生徒。
慌てて宿題を書き写している生徒。
窓際では女子たちが笑い合っている。
昨日と変わらない朝の景色。
「……おはよう、蓮。」
優しい声に顔を上げる。
窓際の席から星野さんが小さく手を振っていた。
「……おはよう。」
自然と言葉が返る。
数日前までは少し緊張していた朝の挨拶も、今ではすっかり当たり前になっていた。
不思議だった。
まだ知り合って一週間も経っていないのに。
彼女と話していると、不思議と肩の力が抜ける。
理由なんて分からない。
ただ……
落ち着く。
「少し眠そう。」
席へ向かう途中、星野さんが僕の顔を見て言った。
「そう見える?」
「うん。」
「昨日、ちゃんと眠れなかった?」
昨夜の夢が頭をよぎる。
一瞬だけ話そうかと思った。
でも、すぐにその考えを打ち消した。
夢の内容すらはっきり覚えていない。
そんな話をしても困らせるだけだろう。
「ちょっと寝不足なだけ。」
「そう。」
星野さんは安心したように微笑む。
「無理しないでね。」
「……ありがとう。」
その何気ない一言が、少しだけ胸に残った。
その時だった。
教室の後ろの扉が開く。
「星野さん!」
他のクラスの女子生徒が、小さな封筒を手に持って教室へ入ってきた。
「これ、預かってたよ。」
そう言って、封筒を差し出す。
その瞬間だった。
「あ、まただ。」
誰かが苦笑する。
「今度は誰?」
「二年生らしいよ。」
「勇気あるなぁ。」
「どうせまた振られるんじゃない?」
教室のあちこちから小さな声が聞こえてくる。
僕は思わず周りを見渡した。
誰一人として驚いていない。
それどころか、
『またか。』
そんな空気さえ流れていた。
星野さんは困ったように笑いながら封筒を受け取る。
「ありがとう。」
それだけ言うと、丁寧に鞄の中へしまった。
嬉しそうでもない。
照れているわけでもない。
ただ……
慣れている。
そんな印象だった。
(……告白、なのかな。)
そんなことを考えていると、始業のチャイムが鳴り響いた。
生徒たちは慌てて自分の席へ戻っていく。
先生が教室へ入り、
いつものように一時間目が始まった。
だけど――
僕の頭の中には、
さっきの封筒がずっと引っかかっていた。
昼休み。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室は一気に賑やかになった。
机を寄せ合うグループ。
急いで食堂へ向かう生徒。
購買へ走る男子たち。
そんな光景を眺めながら、僕も弁当を取り出した。
「隣、いい?」
顔を上げると、星野さんが小さく首を傾げていた。
「もちろん。」
彼女は「ありがとう」と微笑み、僕の向かいに座る。
少し前までなら緊張していたはずなのに、
今ではそれが当たり前になっていた。
「いただきます。」
「いただきます。」
しばらくは静かな昼食だった。
気まずいわけではない。
ただ、お互い無理に話そうとはしない。
そんな空気が心地よかった。
……
ふと、朝の出来事を思い出す。
「そういえば。」
「うん?」
「今朝の手紙。」
「ああ……。」
星野さんは少しだけ困ったように笑った。
「やっぱり気になった?」
「少しだけ。」
正直に答えると、彼女は苦笑する。
「時々あるの。」
「時々?」
「……本当は、時々じゃないかも。」
その言葉に思わず目を瞬かせる。
「そんなに?」
彼女は恥ずかしそうに視線を逸らした。
すると近くで昼食を食べていた女子が笑いながら話しかけてきた。
「星野さん、また告白されたんでしょ?」
「うん……。」
「今月だけでも何人目?」
「覚えてないよ。」
「絶対ウソ。」
周りの女子たちが笑う。
「星野さん、本当に人気だからね。」
「去年なんて文化祭の日、一日に三人だったよ。」
「え、それ本当?」
「本当本当。」
「男子たち可哀想。」
教室中が笑いに包まれる。
当の本人だけが、困ったように笑っていた。
嬉しそうでも、自慢げでもない。
ただ、本当に困っているようだった。
「大変なんだね。」
僕がそう言うと、
星野さんは小さく肩をすくめた。
「期待されるほど、すごい人じゃないのに。」
その言葉は冗談には聞こえなかった。
どこか寂しそうで、
少しだけ切なかった。
……
放課後。
部活へ向かう生徒たちで校舎は賑わっていた。
僕も帰る支度を終え、昇降口へ向かう。
靴を履き替えようとした時だった。
朝、教室で名前を聞いた二年生らしき男子が校門の近くで立っているのが見えた。
(あの人……。)
なんとなく察してしまう。
しばらくすると、
星野さんが昇降口から出てきた。
男子生徒は緊張した様子で頭を下げる。
何かを話している。
距離があったから内容までは聞こえない。
でも、
彼が伝えたいことくらいは分かった。
少しして、
彼は朝の封筒を差し出した。
星野さんは両手で受け取る。
最後まで相手の話を静かに聞いていた。
やがて――
彼女はゆっくりと頭を下げた。
「……ごめんなさい。」
その声だけが、かすかに風に乗って届く。
彼女は封筒を丁寧に返した。
男子生徒は少しだけ寂しそうに笑う。
「……分かりました。」
もう一度だけ頭を下げると、
そのまま静かに歩き去っていった。
怒っている様子もなければ、
泣いているわけでもない。
ただ、
どこか吹っ切れたような背中だった。
星野さんはその場に残ったまま、
しばらく動かなかった。
そして――
「……はぁ。」
小さく息を吐く。
まるで、
張り詰めていた糸が少しだけ緩んだような、
そんな静かなため息だった。
その瞬間、
彼女の視線がこちらへ向く。
目が合う。
一瞬だけ驚いたような表情を見せたあと、
彼女はいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「また明日、蓮。」
「……うん。」
「また明日、星野さん。」
僕は軽く手を振り、そのまま歩き出した。
夕暮れの道を一人で歩きながら、
さっきの光景を思い返す。
彼女は、
あの人を振った。
迷いなんてなかった。
それなのに――
最後に見せた、あの小さなため息。
あれは一体、
何だったんだろう。
告白を断いて安心したから?
それとも……
違う理由があったのだろうか。
分からない。
だけど、
あのため息だけが、
どうしても頭から離れなかった。




