小さな寄り道
放課後。
特に行く当てもなく、気づけば校舎の端にある自動販売機の前まで来ていた。
ガラス越しに並ぶ飲み物をぼんやり眺める。
コーヒー。
お茶。
ジュース。
スポーツドリンク。
……たった一本選ぶだけなのに、種類が多すぎる。
「……」
別に喉が渇いていたわけじゃない。
なんとなく、まだ帰る気になれなかっただけだ。
教室はもうほとんど空になっていた。
昼間まで響いていた話し声も、今ではすっかり遠くなっている。
東京へ転校してきてから、初めてだった。
誰のことも気にせず、
思い出せない記憶のことも考えず、
ただ静かな時間を過ごせていることが。
ゆっくりとボタンを押す。
ガコン。
缶が落ちる音がした。
取り出そうと手を伸ばした、その時だった。
「相沢くん?」
聞き覚えのある声に振り向く。
そこには、書類を抱えた星野さんが立っていた。
「あ……星野さん。」
彼女は僕の手にある缶へ目を向ける。
「誰か待ってたの?」
「いや。」
「じゃあ、どうしてここに?」
少しだけ自販機へ視線を戻す。
「……自販機の前で時間を潰してただけ。」
一瞬だけ、星野さんはきょとんとした表情を浮かべた。
「自販機の前で……?」
「うん。」
「……変わってるね。」
そう言った次の瞬間。
彼女は思わず吹き出した。
「ふふっ……そんな言い方、初めて聞いた。」
肩を震わせながら笑う星野さんを見て、僕は少しだけ目を逸らす。
「よく言われる。」
「自覚あるんだ。」
「たぶん。」
星野さんはまた小さく笑った。
教室で見る優等生らしい笑顔とは違う。
どこか自然で、
肩の力が抜けたような笑顔だった。
その笑顔を見たのは、これが初めてだった。
星野さんは腕の中の書類へ視線を落とした。
「実は……」
「ん?」
少し言いにくそうに口を開く。
「さっき、時間を潰してるって言ってたよね。」
「うん。」
「もしよかったら……少しだけ手伝ってもらえないかな?」
「手伝う?」
彼女は抱えていた書類を少し持ち上げる。
「図書室の本を整理しないといけなくて。」
「生徒会の仕事?」
「うん。でも他のみんなは先に帰っちゃって。」
少し困ったように笑う。
「もちろん予定があるなら大丈夫だから。」
予定。
そう言われても、思い浮かぶものは何もなかった。
帰っても、一人。
静かな部屋が待っているだけだ。
「……いいよ。」
星野さんが少し目を丸くする。
「本当に?」
「うん。」
軽く肩をすくめる。
「どうせ時間を潰してただけだし。」
彼女は安心したように微笑んだ。
「ありがとう、相沢くん。」
「どういたしまして。」
そうして僕たちは並んで図書室へ向かった。
図書室は、放課後とは思えないほど静かだった。
窓から差し込む夕日が、本棚を柔らかなオレンジ色に染めている。
ページをめくる音だけが、静かな空間に小さく響いていた。
「返却された本は、種類ごとに分けて棚に戻せば大丈夫だよ。」
星野さんは慣れた様子で説明する。
「分かった。」
僕は近くに積まれた本を手に取った。
最初はほとんど会話もなかった。
星野さんは本の分類を確認する。
僕は本を運ぶ。
ただ、それだけ。
でも、不思議と気まずさはなかった。
静かな場所は嫌いじゃない。
むしろ、こういう時間のほうが落ち着く。
誰にも邪魔されず、自分のペースで過ごせるからだ。
しばらくして、星野さんが僕を見る。
「相沢くんって、意外とこういうの得意なんだね。」
「こういうの?」
「本を整理すること。」
僕は棚を見る。
「ただ並べてるだけだよ。」
「でも、丁寧。」
星野さんは少し笑った。
「物を大切にする人なんだね。」
「……そうかな。」
自分ではよく分からなかった。
ただ、乱れているものを見ると直したくなる。
それだけだった。
「相沢くんって、いつも何か考えてるよね。」
「……そう見える?」
「うん。少しだけ。」
その言葉に、少しだけ手が止まる。
自分でも気づいていなかった部分を、簡単に言い当てられた気がした。
「そうなんだ。」
それ以上、何と言えばいいのか分からず、僕はまた本を棚へ戻した。
本を戻している途中だった。
同じ一冊へ、二人同時に手を伸ばす。
指先が、ほんの少し触れた。
「あ……」
お互いに動きを止める。
「ご、ごめん。」
「いや……大丈夫。」
すぐに手を引く。
本当に一瞬の出来事だった。
ただの偶然。
それなのに――
なぜか、その短い時間だけが妙に印象に残った。
それからも、僕たちは本の整理を続けた。
気づけば、図書室に残っている生徒も少なくなっていた。
夕日の色は、少しずつ濃くなっていく。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
静かな場所は、昔から落ち着く。
一人で過ごす時間も嫌いじゃない。
でも――
今日は少し違った。
同じ静けさを、誰かと共有している。
それが、不思議と悪くなかった。
最後の一冊を棚へ戻す。
「終わったね。」
星野さんが周りを見渡す。
「うん。」
僕は机の上を整える。
その時、図書室の奥から司書の先生が歩いてきた。
「二人とも、お疲れ様。」
綺麗に整理された棚を見て、優しく微笑む。
「ありがとう、星野さん。」
そして、視線が僕へ向いた。
「それから……」
少し間を置いて。
「ありがとう、相沢くん。」
その瞬間。
なぜか、返事が遅れた。
相沢。
僕の名前。
たったそれだけの言葉なのに。
胸の奥に、小さな何かが残った。
東京へ来てから。
周りの人は僕を「転校生」として見ていた。
まだ何も知らない人。
ただの新しい生徒。
でも今――
誰かが、僕の名前を呼んでくれた。
ただのお礼じゃない。
僕自身に向けられた言葉だった。
「……どういたしまして。」
思ったよりも、小さな声になった。
司書の先生は微笑んで、仕事へ戻っていった。
すると、星野さんが僕を見る。
「相沢くん。」
「ん?」
「今、嬉しそうだった。」
「え?」
「笑ってたよ。」
思わず自分の顔に触れる。
「……本当に?」
「うん。」
僕は少しだけ目を逸らした。
「……そうなんだ。」
なぜ、こんな小さなことで嬉しくなるのか。
自分でも分からなかった。
でも――
悪い気はしなかった。
図書室を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
校舎の窓には夕日が映り、昼間とは少し違う雰囲気を作っている。
昇降口を出て、しばらく歩いたところで星野さんが口を開いた。
「相沢くん。」
「ん?」
「帰る方向って、こっち?」
「うん。」
僕が答えると、星野さんは少しだけ前を見つめた。
そして、少し迷うように口を開く。
「……よかったら、一緒に帰らない?」
その言葉に、少しだけ驚いた。
星野さんは、学校中の誰もが知っている存在だ。
生徒会副会長。
成績も良くて、誰からも頼られる優等生。
正直、最初は近寄りがたい人だと思っていた。
でも――
今日、一緒に過ごして分かった。
目の前にいる彼女は、肩書きだけの人じゃない。
困った時には誰かに頼って、
変な返事をすれば笑って、
静かな図書室で一緒に本を並べる。
そんな、ごく普通の女の子だった。
「……うん。」
少し間を置いて答える。
「じゃあ、一緒に帰ろう。」
星野さんは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。」
その笑顔を見て、なぜか少しだけ照れくさくなった。
僕は前を向いて歩き出す。
しばらく歩くと、一軒のコンビニが見えてきた。
その前で星野さんが足を止める。
「ちょっと寄ってもいい?」
「コンビニ?」
「アイス食べたくなっちゃって。」
「急だね。」
「そう?」
首をかしげる星野さんを見て、思わず少し笑う。
自動ドアが開く。
店内の冷たい空気が、疲れた体に心地よかった。
星野さんは迷うことなくアイスコーナーへ向かう。
数秒後には、もう一本選び終えていた。
「早いね。」
「いつも決まってるから。」
一方で、僕は冷凍ケースの前で立ち止まった。
バニラ。
チョコ。
いちご。
抹茶。
期間限定。
種類が多すぎる。
「……」
どれにするか決められない。
そんな僕を見て、星野さんが近づいてくる。
「まだ選んでるの?」
「意外と難しい。」
「アイスなのに?」
「大事な選択だから。」
星野さんは小さく笑った。
「相沢くんって、本当に何でも真剣に考えるんだね。」
「……そうかも。」
星野さんは冷凍ケースへ視線を戻す。
そして一本のアイスを手に取った。
「これ。」
差し出されたアイスを見る。
その瞬間。
胸の奥が、わずかに揺れた。
なぜか分からない。
ただ――
懐かしい。
そんな感覚だけが残った。
「どうしてこれ?」
尋ねると、星野さんは少し考える。
「分からない。」
少し首を傾げた。
「なんとなく……相沢くんが好きそうな気がしたから。」
不思議な答えだった。
理由なんてない。
なのに、なぜか嫌な感じはしなかった。
「……ありがとう。」
「どういたしまして。」
コンビニを出ると、夕方の風が頬を撫でた。
歩きながらアイスを一口食べる。
甘い。
その味が、胸の奥に何かを残した。
どこかで食べたことがある。
そんな気がする。
「相沢くん?」
「……ん?」
「どうかした?」
「いや……」
もう一口食べる。
「この味……なんだか懐かしい気がして。」
「そうなんだ。」
星野さんは、それ以上聞かなかった。
僕も、それ以上思い出せなかった。
駅に着く頃には、辺りはすっかり暗くなり始めていた。
「ここでお別れだね。」
「うん。」
少しだけ沈黙が流れる。
「今日はありがとう、相沢くん。」
「え?」
「図書室、手伝ってくれて。」
「大したことじゃないよ。」
「それでも。」
星野さんは優しく笑った。
「一緒に帰ってくれて、ありがとう。」
すぐには返事ができなかった。
「……また明日、星野さん。」
「うん。また明日。」
星野さんは小さく手を振り、人混みの中へ消えていった。
僕はしばらく、その背中を見ていた。
学校で見る、生徒会副会長としての姿。
みんなが憧れる完璧な姿。
でも今日、僕が見たのは――
ただの星野さんだった。
その夜。
机の上には、食べ終えたアイスの包み紙が置かれていた。
なぜか、それを眺めてしまう。
ただのアイス。
それだけのはずなのに。
胸の奥に残る違和感。
目を閉じる。
その瞬間――
大きな木。
夕焼けの空。
楽しそうな笑い声。
「っ……!」
突然、頭に鋭い痛みが走った。
思わず額を押さえる。
あと少しだった。
もう少しで思い出せそうだった。
なのに――
その顔だけが、どうしても見えない。
「……誰だったんだ。」
静かな部屋に、僕の声だけが響く。
そして心の奥で、まだ見つからない記憶が眠っていた。




