少しずつ知っていく
翌日の昼休み。
教室はいつものように賑わっていた。
笑い声。
机を動かす音。
購買へ走っていく足音。
そんな中。
「……蓮くん。」
聞き慣れた声が聞こえた。
顔を上げると、星野さんがお弁当を抱えて立っていた。
「今日も、一緒に食べよう?」
「もちろん。」
それだけ言って、二人で窓際のいつもの場所へ向かう。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
約束したわけじゃない。
それでも自然と隣にいる。
そんな関係だった。
◇
「昨日はありがとう。」
星野さんが静かに言った。
「インタビュー、楽しかった。」
「僕も。」
「思ってたより普通の話ばかりだったけど。」
そう言うと、彼女は小さく笑う。
「普通だからいいんだよ。」
「え?」
「少しずつ知っていくほうが、私は好き。」
その言葉に、思わず納得してしまう。
確かに。
一日で誰かを知るなんて、できるはずがない。
少しずつ。
本当に少しずつ。
だからこそ、その人が見えてくるのかもしれない。
◇
「そういえば。」
星野さんがお箸を止めた。
「昨日、好きな本は聞いたけど。」
「最近読んだ本って覚えてる?」
「うーん……。」
少し考える。
「題名は忘れたけど。」
「短編集だった気がする。」
「最後だけ覚えてる。」
「最後だけ?」
「主人公が笑って終わる話。」
「それだけ。」
自分で言っていて苦笑する。
「内容は覚えてないの?」
「全然。」
「不思議だね。」
「……うん。」
本当に、不思議だった。
覚えているものと。
思い出せないもの。
その境界が、自分でも分からない。
◇
「私はね。」
星野さんが静かに話し始めた。
「昔から、本を読むのが好きだった。」
「小さい頃から?」
「うん。」
「悲しい話も。」
「嬉しい話も。」
「全部好き。」
「どうして?」
そう聞くと。
彼女は窓の外を見つめながら微笑んだ。
「誰かの人生を、少しだけ歩ける気がするから。」
その言葉が、妙に心に残った。
誰かの人生。
その一言が。
胸の奥に、小さな波紋を広げていく。
◇
昼休みが終わるまで。
僕たちは本の話ばかりしていた。
好きな作家。
読み返したくなる物語。
映画化された小説。
気づけば、チャイムが鳴っていた。
「あっ。」
「もう時間。」
「本当だ。」
二人で笑いながら席へ戻る。
そんな何気ない時間が。
少しだけ特別に感じられた。
◇
放課後。
帰る支度をしていると。
「蓮。」
後ろから名前を呼ばれた。
振り向くと、担任の先生だった。
「進路課題、順調か?」
「はい。」
「少しずつ進めています。」
「そうか。」
先生は満足そうに頷く。
「発表まで、まだ時間はある。」
「焦らなくていい。」
「相手のことをちゃんと知ること。」
「それが一番大事だからな。」
「はい。」
先生は笑って教室を出ていった。
その言葉が、少しだけ心に残った。
相手を知ること。
それは案外、簡単じゃない。
◇
昇降口で靴を履き替えていると。
「蓮くん。」
星野さんが待っていた。
「一緒に帰ろう。」
「うん。」
二人で校門を出る。
夕暮れの道を並んで歩く。
風が少しだけ冷たかった。
会話は途切れ途切れ。
それでも、不思議と沈黙は苦にならない。
「ねえ。」
星野さんが前を向いたまま言う。
「昨日、聞けなかった質問。」
「……うん?」
「いつか答えてくれる?」
一瞬だけ考える。
「もし答えられるようになったら。」
「ちゃんと話すよ。」
そう答えると。
彼女は嬉しそうに笑った。
「約束?」
「……約束。」
小さく指を差し出される。
思わず苦笑しながら。
僕も小指を伸ばした。
ほんの一瞬だけ。
二人の小指が触れる。
「ありがとう。」
その声は。
夕暮れの風よりも優しかった。
◇
駅で別れたあと。
帰りの電車の窓に映る自分をぼんやり眺める。
僕はまだ。
星野さんのことを何も知らない。
好きな本。
好きな季節。
好きな食べ物。
そんなことしか知らない。
それなのに。
もっと知りたいと思っている自分がいた。
きっと。
この課題が終わる頃には。
今より少しくらいは。
彼女のことを理解できているのだろうか。
そんなことを考えながら。
電車は静かに、夕焼け色の街を走っていた。




