文化祭が始まった日
学校は、いつもとはまるで違う場所になっていた。
その朝、学校に着くと、正門の周りはすでに生徒や保護者、先生たちでいっぱいだった。
校舎の壁には色とりどりの飾り付けが施され、手作りの看板が手すりに並んでいる。
あちこちから声が聞こえてくる。
どこか遠くでは音楽も流れていた。
生徒たちは来校者に声をかけ、自分たちの教室へと呼び込んでいる。
僕はしばらく立ち止まって、その光景を眺めていた。
数週間前、僕はこの同じ門を、自分とは関係のない誰かの人生に入り込んでしまったような気持ちで通った。
でも、今日は違う。
僕はこの場所を知っている。
ここにいる人たちを知っている。
そして、どういうわけか――
僕はここにいていいんだと思えた。
「蓮!」
振り返る。
正門の近くから、海斗が手を振っていた。
「やっと来たか!」
「遅刻してないだろ」
「そういう問題じゃないって」
その隣に太一が現れる。
「今日は俺たちの人生で最も重要な一日だ」
空が太一を見る。
「それ、発表会のときも言ってたよね」
「あれはあれで重要だったんだよ」
思わず笑ってしまう。
三人が言い合いをしながら、僕たちは校舎へ向かった。
文化祭が始まった。
◇
午前中は、思っていたよりも早く過ぎていった。
どこを見ても人がいる。
普段なら何の変哲もない教室が、完全に別の場所へと変わっていた。
壁には手作りの飾りが並び、中庭には出店が出ている。
ゲームや出し物もあれば、生徒たちがあちこちを走り回っている。
海斗は僕をあちこちへ連れ回した。
太一は、ほとんどすべてのものを試そうとした。
空は、僕たち二人がくだらないことをするたびに、それを眺めていた。
今日は、失った記憶のことを考えなかった。
ただ、この一日を楽しんだ。
食べ物。
騒がしさ。
笑い声。
先生たちまで楽しそうにしている、少し不思議な光景。
その全部を。
これは今の僕が作っている記憶だった。
失ってしまった記憶とは違う。
これは、僕のものだ。
探し出す必要なんてない。
今、この瞬間に作っているんだから。
◇
午後になると、学校はさらに人で溢れていた。
廊下を歩いていると、彼女が目に入った。
星野さんが、教室の入り口でクラスの女子たちと話していた。
彼女が僕に気づく。
目が合った。
彼女が微笑む。
僕も笑い返した。
なぜか、彼女と話したいと思った。
でも、僕が近づく前に、後ろから名前を呼ばれた。
「蓮!」
振り返る。
海斗だった。
「ほら、ゲームコーナー行くぞ」
「また?」
「前に負けただろ」
「だから、もう一回やるんだよ」
僕はため息をついて、海斗の後を追った。
そのときの僕は知らなかった。
その日の後半、自分が知らないはずの名前を口にすることを。
そして、その名前がすべてを変えることを。
◇
夕方になるにつれて、陽の光が少しずつ柔らかくなっていった。
文化祭はまだ続いている。
学校中には笑い声や音楽が響いていたが、静かな廊下には人がほとんどいなくなっていた。
一人で歩いていると、窓の近くに星野さんがいるのが見えた。
彼女は外を眺めていた。
「星野さん?」
彼女が振り返る。
「蓮」
彼女は微笑んだ。
でも、どこかいつもと違う表情をしていた。
僕には、その理由が分からなかった。
「文化祭、楽しんでる?」
「うん」
僕も窓の外を見る。
「楽しいよ」
彼女がもう一度微笑む。
「よかった」
しばらく、僕たちは何も言わなかった。
そして、僕は彼女を見た。
そのとき――
なぜか、その言葉が自然に口から出た。
「……ユニ」
彼女が固まった。
僕も固まった。
二人とも動かなかった。
「……え?」
僕は彼女を見つめた。
どうしてそんな名前を呼んだのか、自分でも分からない。
そもそも、どこでその名前を知ったのかさえ分からなかった。
「ユニ……?」
彼女の表情が変わる。
困惑でもない。
驚きでもない。
別の何か。
まるで、悲しそうな表情だった。
「蓮くん……」
彼女が僕の名前を小さく呟く。
僕は眉を寄せた。
「どうして僕、そんなふうに呼んだんだ?」
彼女は答えなかった。
僕は頭の中を探った。
何もない。
記憶も。
映像も。
理由も。
それなのに、その名前だけは自然だった。
あまりにも自然すぎた。
まるで――
何年も前から、ずっと彼女をそう呼んでいたみたいに。
◇
そのことが頭から離れなかった。
文化祭が続いている間も、僕の頭の中にはずっとその言葉が残っていた。
ユニ。
ユニって誰なんだ?
どうして僕は、星野さんをそう呼んだんだ?
思い出そうとする。
でも、何も浮かばない。
考えれば考えるほど、何かが遠ざかっていくようだった。
やがて、僕は彼女に聞くしかないと思った。
生徒のほとんどがメイン会場のほうへ移動した頃、僕は彼女を見つけた。
「星野さん」
彼女が振り返る。
「うん?」
「少し、話せる?」
彼女はしばらく僕を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「もちろん」
僕たちは、人の少ない校舎の奥へ向かった。
文化祭の音が少しずつ遠ざかっていく。
外から音楽が聞こえる。
人々の笑い声も聞こえる。
それでも、ここだけはほとんど人がいなかった。
僕は窓の近くで立ち止まった。
「星野さん」
「うん?」
僕は息を吸った。
「さっき……」
彼女の表情が少し変わる。
「僕、星野さんのことを別の名前で呼んだよね」
彼女は答えなかった。
「ユニ」
彼女の指が、鞄の持ち手を強く握る。
「どうして僕がそんな名前で呼んだのか、自分でも分からないんだ」
僕は彼女を見る。
「ユニって……誰?」
数秒間、彼女は何も言わなかった。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……今、聞くんだね」
「あれからずっと考えてた」
彼女は小さく笑った。
「そっか」
「その名前、聞いたことある?」
彼女が僕を見る。
「あるよ」
心臓が一度、大きく跳ねた。
「……僕から?」
彼女は頷いた。
「うん」
何を言えばいいのか分からなかった。
答えは簡単だった。
それなのに、胸の奥が重くなる。
「いつ?」
「ずっと昔」
僕は彼女を見つめる。
「どれくらい昔?」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
「私たちが……子供だった頃」
空気が急に冷たくなったような気がした。
子供の頃。
僕はいくつもの答えを予想していた。
誰かが使っていたあだ名なのかもしれない。
最近どこかで聞いた名前なのかもしれない。
ただ偶然、口から出てしまった言葉なのかもしれない。
でも――
こんな答えは、予想していなかった。
「星野さん……」
僕は唾を飲み込んだ。
「僕たち……知り合いだったの?」
彼女は僕を見返した。
「うん」
その言葉は小さかった。
それでも、僕の中にある何かを大きく揺らした。
彼女は僕を知っていた。
僕がこの学校に来る前から。
僕の名前を知っていた。
僕には覚えていないことまで知っていた。
そして突然、今までの不思議な出来事が一つずつ繋がっていく。
最初から僕のことを「蓮」と呼んでいたこと。
僕が彼女を知らなかったときの、あの表情。
時々、僕が何かを思い出すのを待っているように見えたこと。
全部。
「……僕のこと、知ってたんだ」
彼女は頷いた。
「知ってたよ」
「僕がこの学校に来る前から?」
「うん」
僕は視線を落とした。
手が少し震えていた。
「じゃあ……どうして教えてくれなかったの?」
彼女はしばらく黙っていた。
「だって、蓮くんは私のことを覚えてなかったから」
「……うん」
「無理に思い出させたくなかったの」
彼女の声が小さくなる。
「初めて蓮くんを見たとき、本当はすぐに駆け寄って、全部話したかった。どうして私のことを忘れたのか聞きたかった。ずっと待ってたって伝えたかった」
彼女はそこで言葉を止めた。
「でも……蓮くんが私を見たときの顔を見て、やめたの」
僕は最初の日のことを思い出した。
僕にとって彼女は、ただの星野さんだった。
綺麗で。
人気があって。
頭が良くて。
そして、なぜか僕の名前を知っている女の子。
「蓮くんにとって、私は知らない人だったから」
僕は何も言えなかった。
彼女は自分の手元を見つめた。
「もし私が全部教えたら……蓮くんは、思い出さなきゃいけないって思うかもしれないと思ったの」
彼女の声は、ほとんど囁きだった。
「誰かに教えられて私を思い出すんじゃなくて……蓮くん自身が思い出してほしかった」
僕は彼女を見た。
「だから……待ってたの?」
彼女は小さく頷いた。
「うん」
胸の奥に、奇妙な感情が広がった。
痛いわけじゃない。
でも、別の意味で苦しかった。
罪悪感に近いものだった。
「ずっと……僕のことを知ってたんだ」
「うん」
「なのに、僕は星野さんのことを知らなかった」
彼女の目が、少しだけ優しくなる。
「蓮くんには……どうすることもできなかったから」
その言葉は、責められるよりずっと苦しかった。
◇
僕は窓際のベンチに腰を下ろした。
彼女も少し離れた場所に座る。
しばらく、僕たちは何も話さなかった。
そして、僕はようやく口を開いた。
「……僕って、どんな子だった?」
彼女が僕を見る。
「蓮くん?」
「うん」
彼女は少し考えた。
「……うるさかった」
「え?」
思わず彼女を見る。
彼女は小さく笑った。
「たまにだけどね」
「それ、全然安心できないんだけど」
「蓮くんが聞いたんでしょ?」
僕も思わず笑った。
それから、彼女の表情が柔らかくなる。
「でも……優しかったよ」
彼女は窓の外を見る。
「小さなことによく気づいてた。誰かが一人でいたら話しかけてたし、困っている人がいたら、頼まれてなくても助けてた」
僕は黙って聞いていた。
それは、不思議なくらい自分らしく感じた。
記憶として思い出しているわけじゃない。
ただ――
今の自分の中にも、同じものがあるような気がした。
「絵を描くのも好きだったよ」
僕は自分の手を見る。
今でも、僕は絵を描くのが好きだ。
「いつもスケッチブックを持ってた」
彼女は続ける。
「それから……電車も好きだった」
「電車?」
僕は思わず顔を上げた。
彼女は頷く。
「よく電車の絵を描いてたよ」
僕は覚えていない。
でも、その話を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「それと……」
彼女が言葉を止める。
「何?」
彼女は僕を見る。
「私に、あだ名をつけた」
僕には、もう答えが分かっていた。
「……ユニ」
彼女が頷く。
「うん」
「どうして僕がそんな名前をつけたの?」
「私も覚えてないよ」
彼女は小さく笑った。
「小さい頃の私の名前は長すぎるって、蓮くんが言ったの」
僕は小さく笑った。
「……それ、いかにも僕が言いそう」
「実際に言ったからね」
僕たちは二人で少しだけ笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えた。
「その呼び方をしてたのは……蓮くんだけだった」
僕は彼女を見る。
「僕だけ?」
「うん」
彼女の声には、何か特別なものが含まれていた。
僕には、まだそれが何なのか分からなかった。
◇
彼女が鞄の中に手を入れた。
そして、スマートフォンを取り出す。
「……もう一つ、見せたいものがあるの」
画面に一枚の写真が表示された。
最初は、それが何なのか分からなかった。
淡い春の空の下に、二人の子供が立っている。
男の子。
そして、女の子。
二人とも笑っていた。
男の子は幼い。
それでも、どこか見覚えがあった。
女の子は長い髪をしている。
そして、その小さな手は男の子の手を握っていた。
僕は写真を見つめた。
息が止まった。
胸の奥に、熱が広がる。
そして――
声がした。
女の子の声。
「……蓮」
その声は、すぐに消えた。
僕は目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、桜の花びらが風に舞っているのが見えた。
小さな手。
僕の手を握っている。
笑い声。
隣に誰かがいる。
そして――
それも消えた。
僕は目を開けた。
星野さんが心配そうに僕を見ている。
「蓮くん……?」
僕はもう一度、写真を見る。
「この女の子……」
声が震えた。
「星野さんだ」
彼女は頷いた。
「うん」
僕は彼女を見る。
胸の奥で、何かがゆっくりと開いていく。
全部じゃない。
ほんの少しだけ。
そして――
一つの記憶が浮かんだ。
幼い僕。
隣に座っている小さな女の子。
彼女の声。
「私のこと、覚えててくれる?」
そして、幼い僕の声。
「もちろん」
その記憶は、また消えた。
でも今度は分かった。
本当にあったことだ。
目の奥が熱くなった。
涙が落ちるまで、自分が泣いていることにも気づかなかった。
星野さんは何も言わなかった。
ただ、僕の隣にいてくれた。
僕は彼女を見る。
もう、彼女は星野さんではなかった。
生徒会副会長でもない。
みんなから憧れられている女の子でもない。
初めて、写真の中にいた少女が見えた。
ずっと僕が忘れていた少女。
僕が忘れてしまったあとも、僕を待っていた少女。
「……ごめん」
彼女は首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「僕……君のこと、忘れてた」
彼女の目が少し潤む。
「うん」
僕は涙を拭った。
「じゃあ……」
彼女を見る。
「これからも、そう呼んでいい?」
彼女はすぐには答えなかった。
やがて、小さく笑った。
震えるような笑顔だった。
「うん」
僕は一度、息を吸った。
そして今度は、その名前がどこから来たのか分からないまま口にしたわけじゃなかった。
僕は、誰に向けてその名前を呼ぶのかを知っていた。
「……ユニ」
彼女は目を閉じた。
そして、もう一度目を開けたとき、その頬には涙が流れていた。
「おかえり、蓮くん」
窓の外では、まだ文化祭が続いていた。
音楽が聞こえる。
笑い声が聞こえる。
来場者を呼び込む声も聞こえる。
学校全体が、まだ賑やかな音に包まれていた。
でも、その瞬間だけは――
そのすべてが遠く感じられた。
僕は、まだ全部を思い出したわけじゃない。
失われた何年もの時間も残っている。
僕の中には、まだ数え切れないほどの記憶が眠っている。
それでも――
記憶を失ってから初めて、僕は一つのことを理解した。
僕が忘れていたのは、ただ一人の女の子じゃなかった。
僕が忘れていたのは――
ずっと僕を待っていてくれた人だった。
そして今度は――
僕のほうから、彼女を思い出したいと思った。




