文化祭が始まる前に
翌朝、僕はいつもより少し早く学校に着いた。
特に何か楽しみなことがあったわけじゃない。ただ、たまたま早く目が覚めてしまって、家にいてもすることがなかったから、そのまま家を出ただけだ。
けれど、教室に入った瞬間、僕は自分以外にも早く来ている人がいることに気づいた。
「蓮!」
振り返る。
そこには、腕を組んで座りながら、妙に満足そうな顔をしている海斗がいた。
「来たな」
「いつも来てるけど」
「そういう意味じゃない」
海斗は僕を指差した。
「今日は俺より早い」
時計を見る。
確かに、ほんの少しだけだった。
「大げさじゃない?」
「これは進歩だ」
返事をする前に、海斗の後ろから太一が顔を出した。
「調子に乗るなよ。昨日のカラオケで恥ずかしい思いをしたせいで、眠れなかっただけかもしれないだろ」
「別に恥ずかしくなかったけど」
「いや、絶対恥ずかしかっただろ」
すると、机に突っ伏していた空が顔も上げずに片手を上げた。
「昨日のカラオケについては、もう二度と話さないことを提案します……」
思わず笑ってしまう。
「おはよう」
昨日まで、僕はこの三人に半ば強引に学校の外へ連れ出された。
それなのに、今ではこうして話していることが、なんとなく普通になっていた。
たぶん、友達ってこうやって始まるものなのかもしれない。
大げさな約束や特別な出来事じゃなくて、くだらない会話が少しずつ積み重なって、いつの間にか日常の一部になっていく。
◇
一時間目が終わる頃には、学校全体が動き始めていた。
文化祭まであと数日。
どの教室も、まるで一時的な作業場になっていた。廊下では段ボールを運ぶ生徒が行き交い、先生たちは予定を確認し、二階のどこかでは看板をどこに置くかで誰かが大声で言い合っている。
僕たちの教室も、似たようなものだった。
あちこちに箱が置かれ、机の上には紙が散らばり、途中まで作られた飾りが壁に貼られている。
僕が備品を整理していると、クラスメイトの一人に声をかけられた。
「蓮、これちょっと見てくれない?」
「うん」
近づいてみると、二つの机の上に大きな看板が置かれていた。
文字はすでに書かれている。
でも、どこか物足りない。
「どう思う?」
僕は数秒、その看板を眺めた。
「……文字が少しシンプルすぎるかも」
「直せる?」
「僕が?」
「絵、描くんだろ?」
一瞬、言葉に詰まった。
そういえば、前に話したことがあった。
「まあ……うん」
僕は鉛筆を手に取り、看板のデザインを少しだけ修正していった。
難しいことをしたわけじゃない。
文字の間隔を調整して、余白が寂しく見えないように簡単な模様を加えただけだ。
数分後、僕は一歩下がって看板を眺めた。
「……こんな感じでどう?」
みんなが看板を見る。
「おお、結構いいじゃん」
「うん。さっきよりずっといい」
「相沢って、こんなことできたんだな」
僕は後頭部を軽く掻いた。
「別に、大したことじゃないと思ってた」
クラスメイトが笑った。
「いや、十分すごいだろ」
僕はもう一度、看板を見る。
特別嬉しいわけじゃない。
でも、少しだけ感じるものがあった。
自分がここにいるからこそ、できたこと。
記憶じゃない。
昔の自分から持ってきたものでもない。
今日の僕が、自分でやったことだ。
それが、なぜか少しだけ大切に思えた。
◇
その日の午後は、あっという間に過ぎていった。
まだ終わっていない作業は山ほどあって、もう少しで終わると思ったところで、また別の問題が見つかる。
そんなことの繰り返しだった。
そんな中、海斗と太一が一つの飾りを逆さまに取り付けていた。
「これはわざとだ」
太一が言う。
「逆さまになってるけど」
「誰かが気づくかどうか、確認してたんだよ」
空が太一を見る。
「気づいたけど」
「なら、テストは成功だ」
海斗がため息をつく。
「たぶん、それはテストとは言わないと思う」
僕は笑った。
気づけば、僕もそのくだらない言い合いの中に自然と混ざっていた。
数週間前なら、たぶん自分の席に座ったまま、遠くから眺めていたと思う。
今は、その輪の中に立っている。
いつからそうなったのかは分からない。
たぶん、少しずつだったんだろう。
ここで交わした会話。
一緒に食べたもの。
帰り道。
昨日のくだらないカラオケ。
一つ一つは、それほど大きな出来事じゃない。
それでも、そういうものが積み重なって、少しずつ何かになっていく。
一つの生活に。
――僕自身の生活に。
◇
太陽が沈み始める頃には、教室もようやく片付いていた。
僕は最後の箱を倉庫へ運び、教室へ戻る。
何人かの生徒は、すでに帰り始めていた。
「お疲れさま」
「また明日」
「明日は早いから、忘れないでね」
少しずつ教室から人が減っていく。
僕は教室を見渡した。
飾り付けは完璧じゃない。
少し曲がっているものもあるし、明日直さなければならない看板も残っている。
それでも、今はちゃんと文化祭の教室に見えた。
ただ段ボールや紙が置かれた空っぽの教室じゃない。
何かが始まろうとしている。
僕は鞄を持ち上げ、教室を出た。
廊下へ出ると、階段の近くに星野さんが立っているのが見えた。
彼女は教室の方を見ていたが、僕に気づくとこちらへ顔を向けた。
「蓮くん」
「終わった?」
「うん。だいたいね」
彼女はもう一度、教室の中を見る。
「今日、たくさん手伝ってたね」
「みんなもやってたよ」
「それでも」
彼女は笑った。
「楽しそうだった」
少し考える。
「……うん。楽しかった」
その答えが、自分でも思っていたより自然に出てきた。
彼女はまた笑った。
でも、今度は何も言わなかった。
僕たちはそのまま一緒に教室を出た。
ほとんど人のいなくなった廊下を、二人の足音だけが静かに響いている。
しばらく歩いてから、僕は窓の外を見た。
夕方の光に染まった校庭が見える。
その向こうには、今日僕たちが取り付けた飾りも見えていた。
「明日、いよいよ文化祭だね」
「うん」
「なんだか不思議な感じがする」
「何が?」
「数週間前までは、この学校の教室だって半分も分からなかったのに」
彼女が小さく笑う。
「ずいぶん早く慣れたね」
「そうかな」
僕たちはまた歩き続ける。
少しして、彼女が僕を見る。
「緊張してる?」
少し考えてから答える。
「……ちょっとだけ」
「私も」
僕は彼女を見る。
その答えは少し意外だった。
「星野さんが? いつも準備とか完璧なのに」
彼女は微笑む。
「私だって緊張することくらいあるよ」
「知らなかった」
「まだ、蓮くんが知らないことはたくさんあるから」
何気なく言った言葉だった。
けれど、その言葉がなぜか頭に残った。
たしかに、僕は彼女のことをまだほとんど知らない。
そして、それでいいのかもしれない。
全部をすぐに理解する必要なんてない。
僕たちはそのまま、並んで校門へ向かって歩いた。
それからしばらく、どちらもあまり話さなかった。
でも、その沈黙は気まずくなかった。
ただ、自然だった。
校門を出る前に、僕はもう一度だけ学校を振り返った。
文化祭は、まだ始まっていない。
明日もやらなければならないことはたくさんある。
それでも今の僕は、失ったものや、思い出せないことについて考えてはいなかった。
明日、何が起こるのか。
僕は、それを考えていた。
そして、それだけで十分だった。
文化祭は、まだ始まったばかりだった。




