↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/25

最初の一歩

翌朝は、なぜかいつもと少し違って感じた。


何かが変わったわけじゃない。


教室はいつもと同じ。


聞こえてくる声も同じ。


窓から差し込む朝の光さえ、いつもと変わらない。


それなのに、少しだけ気持ちが軽かった。


たぶん、発表が終わったからだろう。


僕は鞄を机の横に置き、自分の席に座った。


そのとき、ふと思い出した。


――今日は、いい一日だった。


昨夜、ノートに書いた言葉。


どうしてかは分からない。


でも、その言葉を思い出すと、自然と笑みがこぼれた。


「何を笑ってるの?」


顔を上げる。


僕の机の横に、星野さんが立っていた。


「……何でもない」


「何でもない?」


「うん」


彼女は少し怪しそうに僕を見る。


それから、ふっと笑った。


「そっか」


そう言って、自分の席へ戻っていった。


僕はその後ろ姿を少しだけ目で追ってから、視線を戻した。


どうしてだろう。


彼女と出会ってから、朝の時間が少し違って感じるようになった。


良くなったわけでもない。


悪くなったわけでもない。


ただ……以前より、少しだけ寂しくなくなった。


⸻


数分後、先生が教室に入ってきた。


「さて、発表も終わったことだし、今日から文化祭の準備を始めるぞ」


その瞬間、教室が一気に騒がしくなった。


そういえば、文化祭だった。


昨日はみんながいろいろな案を出していたけれど、結局何をするのかまでは決まっていなかった。


今日は、ちゃんと決めるらしい。


先生が黒板にいくつか案を書いていく。


カフェ。


お化け屋敷。


ゲームコーナー。


展示。


次々と候補が増えていく。


「どれがいいと思う?」


「私はカフェ!」


「それ、準備大変じゃない?」


「じゃあ、お化け屋敷!」


「人数足りなくない?」


意見は飛び交うものの、なかなか決まらない。


僕はほとんど黙って聞いていた。


特にやりたいことがあるわけでもなかった。


そのとき、教室の反対側から声が飛んできた。


「相沢はどう思う?」


顔を上げる。


「……僕?」


「そう。ずっと静かにしてるから」


何人かの視線が僕に集まった。


僕は少し考えた。


「クラスでやるなら……」


黒板を見る。


「……あまり複雑じゃない方がいいんじゃないかな」


「どういうこと?」


「準備に時間がかかりすぎないもの。残りの時間も限られてるし」


一瞬、教室が静かになった。


そして、誰かが頷いた。


「それ、確かにそうかも」


別の誰かも続ける。


「うん。直前になって慌てるのは嫌だし」


再び話し合いが始まる。


今度は、さっきよりもずっと具体的だった。


僕は椅子の背もたれに体を預けた。


まさか、自分の意見がちゃんと聞いてもらえるとは思っていなかった。


隣を見る。


星野さんが、静かに微笑んでいた。


⸻


話し合いが終わる頃には、ようやくクラスで何をするかが決まった。


それほど複雑なものではない。


でも、みんな納得しているようだった。


先生が役割を決めていく。


装飾。


企画。


備品。


食べ物。


宣伝。


思っていたより、やることが多い。


僕は黒板に書かれた一覧を見る。


「結構忙しくなりそうだね」


星野さんが僕を見る。


「たぶんね」


彼女はもう一度、一覧に目を向ける。


そして、僕を見る。


「今日、いつもよりたくさん話したね」


僕は瞬きをした。


「そう?」


「うん。少しだけ」


「自分では気づかなかった」


「私は気づいたよ」


あまりにも普通の調子で言われたので、どう返せばいいのか分からなかった。


僕は黒板へ視線を戻した。


「……少しは、みんなに慣れてきたのかも」


「そうかもね」


それだけだった。


なのに、なぜかまた笑ってしまった。


⸻


放課後。


僕と星野さんは、文化祭の準備に使う物を整理するため、教室に残っていた。


教室の隅には、いくつもの箱が積まれている。


紙。


段ボール。


古い装飾品。


それから、過去の文化祭で使われたらしいポスター。


僕は紙の束を一つ持ち上げた。


「これ、何?」


「昔の文化祭の資料じゃないかな」


ページをめくっていく。


ほとんどは特に変わったものではなかった。


クラスの予定表。


備品の一覧。


過去の文化祭の写真。


そして――


僕の手が止まった。


一枚の写真が目に入った。


桜を模した大きな装飾の下に、何人かの生徒が並んでいる。


僕は、その写真をじっと見つめた。


何かが、妙に引っかかる。


写っている人たちじゃない。


教室でもない。


ただ……


この感覚。


ほんの一瞬、頭の中に何かが浮かんだ。


小さな手。


僕の手を握る、細い指。


そして、誰かの笑い声。


その瞬間――


何もなくなった。


掴もうとした記憶は、指の間からこぼれるように消えてしまった。


僕は瞬きをする。


「……あれ?」


「蓮くん?」


顔を上げる。


星野さんが僕を見ていた。


「大丈夫?」


「うん」


もう一度、写真を見る。


「……ただ、少し懐かしい感じがした」


彼女の表情が変わった。


ほんのわずかに。


彼女の視線が写真へ向かう。


そして、再び僕へ。


「……そう」


その声には、何かが混じっていた。


まただ。


あの感覚。


まるで、僕が知らない何かを彼女だけが知っているような――


聞きたかった。


でも、聞かなかった。


僕は写真を箱の中へ戻した。


「……続きをやろう」


「うん」


彼女は微笑んだ。


けれど、その笑顔はさっきまでとは少し違って見えた。


⸻


作業が終わる頃には、太陽が沈み始めていた。


僕たちは一緒に学校を出た。


廊下は、いつもより静かだった。


文化祭の準備は、今日から本格的に始まった。


まだやることはたくさんある。


でも、不思議と嫌ではなかった。


「星野さん」


「ん?」


「そんなに文化祭、楽しみ?」


「うん」


即答だった。


僕は笑う。


「どうして?」


彼女は少し考えた。


それから窓の外を見る。


夕方の光が、その瞳に映っていた。


「みんなが楽しみにできることって、最近あまりなかったから」


僕は頷いた。


「……なるほど」


僕たちはそのまま歩き続ける。


数歩進んだところで、彼女が口を開いた。


「蓮くんは?」


「僕?」


「楽しみ?」


少し考える。


昨日の僕なら、たぶん「分からない」と答えていた。


でも、今は――


「うん」


前を向いたまま答える。


「……ちょっと楽しみかも」


彼女が笑った。


「よかった」


それだけだった。


大きな会話もない。


特別な出来事もない。


ただ、放課後の道を二人で歩いているだけ。


それなのに――


なぜか、それで十分だった。


⸻


その夜。


僕は机の前に座っていた。


昼間に見た古い写真が、何度も頭に浮かんでくる。


小さな手。


笑い声。


そして、あの奇妙な懐かしさ。


あれが本当に記憶だったのか。


それとも、ただの思い込みだったのか。


僕には分からない。


ノートを開く。


昨日書いた一文が、まだそこに残っていた。


――今日は、いい一日だった。


しばらく、その文字を眺める。


それから、新しいページを開いた。


僕はペンを走らせる。


――文化祭が始まった。


少し考えてから、もう一行を書き加えた。


――少し、楽しみかもしれない。


ペンを置く。


しばらく、その言葉を眺めていた。


もしかすると、これが「思い出」というものなのかもしれない。


頭の奥に隠れているものでもない。


無理に思い出そうとするものでもない。


ただの、何気ない瞬間。


会話。


帰り道。


学校で過ごした一日。


自分がそこにいたからこそ生まれた出来事。


僕はノートを閉じた。


けれど、電気を消そうとした瞬間――


一つの考えが、また頭に浮かんだ。


あの写真。


あの手。


そして、あの一瞬だけ感じた懐かしさ。


もし、あれが本当に記憶だったのなら――


どうして、あんなにも早く消えたんだろう。


そして――


どうして星野さんは、僕が見たものを知っているような顔をしていたんだろう。


答えは、まだ分からない。


でも――


いつか分かるのかもしれない。


窓の外は、静かな夜だった。


そして遠くには、僕の新しい日々が待っている。


文化祭は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。