最初の一歩
翌朝は、なぜかいつもと少し違って感じた。
何かが変わったわけじゃない。
教室はいつもと同じ。
聞こえてくる声も同じ。
窓から差し込む朝の光さえ、いつもと変わらない。
それなのに、少しだけ気持ちが軽かった。
たぶん、発表が終わったからだろう。
僕は鞄を机の横に置き、自分の席に座った。
そのとき、ふと思い出した。
――今日は、いい一日だった。
昨夜、ノートに書いた言葉。
どうしてかは分からない。
でも、その言葉を思い出すと、自然と笑みがこぼれた。
「何を笑ってるの?」
顔を上げる。
僕の机の横に、星野さんが立っていた。
「……何でもない」
「何でもない?」
「うん」
彼女は少し怪しそうに僕を見る。
それから、ふっと笑った。
「そっか」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
僕はその後ろ姿を少しだけ目で追ってから、視線を戻した。
どうしてだろう。
彼女と出会ってから、朝の時間が少し違って感じるようになった。
良くなったわけでもない。
悪くなったわけでもない。
ただ……以前より、少しだけ寂しくなくなった。
⸻
数分後、先生が教室に入ってきた。
「さて、発表も終わったことだし、今日から文化祭の準備を始めるぞ」
その瞬間、教室が一気に騒がしくなった。
そういえば、文化祭だった。
昨日はみんながいろいろな案を出していたけれど、結局何をするのかまでは決まっていなかった。
今日は、ちゃんと決めるらしい。
先生が黒板にいくつか案を書いていく。
カフェ。
お化け屋敷。
ゲームコーナー。
展示。
次々と候補が増えていく。
「どれがいいと思う?」
「私はカフェ!」
「それ、準備大変じゃない?」
「じゃあ、お化け屋敷!」
「人数足りなくない?」
意見は飛び交うものの、なかなか決まらない。
僕はほとんど黙って聞いていた。
特にやりたいことがあるわけでもなかった。
そのとき、教室の反対側から声が飛んできた。
「相沢はどう思う?」
顔を上げる。
「……僕?」
「そう。ずっと静かにしてるから」
何人かの視線が僕に集まった。
僕は少し考えた。
「クラスでやるなら……」
黒板を見る。
「……あまり複雑じゃない方がいいんじゃないかな」
「どういうこと?」
「準備に時間がかかりすぎないもの。残りの時間も限られてるし」
一瞬、教室が静かになった。
そして、誰かが頷いた。
「それ、確かにそうかも」
別の誰かも続ける。
「うん。直前になって慌てるのは嫌だし」
再び話し合いが始まる。
今度は、さっきよりもずっと具体的だった。
僕は椅子の背もたれに体を預けた。
まさか、自分の意見がちゃんと聞いてもらえるとは思っていなかった。
隣を見る。
星野さんが、静かに微笑んでいた。
⸻
話し合いが終わる頃には、ようやくクラスで何をするかが決まった。
それほど複雑なものではない。
でも、みんな納得しているようだった。
先生が役割を決めていく。
装飾。
企画。
備品。
食べ物。
宣伝。
思っていたより、やることが多い。
僕は黒板に書かれた一覧を見る。
「結構忙しくなりそうだね」
星野さんが僕を見る。
「たぶんね」
彼女はもう一度、一覧に目を向ける。
そして、僕を見る。
「今日、いつもよりたくさん話したね」
僕は瞬きをした。
「そう?」
「うん。少しだけ」
「自分では気づかなかった」
「私は気づいたよ」
あまりにも普通の調子で言われたので、どう返せばいいのか分からなかった。
僕は黒板へ視線を戻した。
「……少しは、みんなに慣れてきたのかも」
「そうかもね」
それだけだった。
なのに、なぜかまた笑ってしまった。
⸻
放課後。
僕と星野さんは、文化祭の準備に使う物を整理するため、教室に残っていた。
教室の隅には、いくつもの箱が積まれている。
紙。
段ボール。
古い装飾品。
それから、過去の文化祭で使われたらしいポスター。
僕は紙の束を一つ持ち上げた。
「これ、何?」
「昔の文化祭の資料じゃないかな」
ページをめくっていく。
ほとんどは特に変わったものではなかった。
クラスの予定表。
備品の一覧。
過去の文化祭の写真。
そして――
僕の手が止まった。
一枚の写真が目に入った。
桜を模した大きな装飾の下に、何人かの生徒が並んでいる。
僕は、その写真をじっと見つめた。
何かが、妙に引っかかる。
写っている人たちじゃない。
教室でもない。
ただ……
この感覚。
ほんの一瞬、頭の中に何かが浮かんだ。
小さな手。
僕の手を握る、細い指。
そして、誰かの笑い声。
その瞬間――
何もなくなった。
掴もうとした記憶は、指の間からこぼれるように消えてしまった。
僕は瞬きをする。
「……あれ?」
「蓮くん?」
顔を上げる。
星野さんが僕を見ていた。
「大丈夫?」
「うん」
もう一度、写真を見る。
「……ただ、少し懐かしい感じがした」
彼女の表情が変わった。
ほんのわずかに。
彼女の視線が写真へ向かう。
そして、再び僕へ。
「……そう」
その声には、何かが混じっていた。
まただ。
あの感覚。
まるで、僕が知らない何かを彼女だけが知っているような――
聞きたかった。
でも、聞かなかった。
僕は写真を箱の中へ戻した。
「……続きをやろう」
「うん」
彼女は微笑んだ。
けれど、その笑顔はさっきまでとは少し違って見えた。
⸻
作業が終わる頃には、太陽が沈み始めていた。
僕たちは一緒に学校を出た。
廊下は、いつもより静かだった。
文化祭の準備は、今日から本格的に始まった。
まだやることはたくさんある。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「星野さん」
「ん?」
「そんなに文化祭、楽しみ?」
「うん」
即答だった。
僕は笑う。
「どうして?」
彼女は少し考えた。
それから窓の外を見る。
夕方の光が、その瞳に映っていた。
「みんなが楽しみにできることって、最近あまりなかったから」
僕は頷いた。
「……なるほど」
僕たちはそのまま歩き続ける。
数歩進んだところで、彼女が口を開いた。
「蓮くんは?」
「僕?」
「楽しみ?」
少し考える。
昨日の僕なら、たぶん「分からない」と答えていた。
でも、今は――
「うん」
前を向いたまま答える。
「……ちょっと楽しみかも」
彼女が笑った。
「よかった」
それだけだった。
大きな会話もない。
特別な出来事もない。
ただ、放課後の道を二人で歩いているだけ。
それなのに――
なぜか、それで十分だった。
⸻
その夜。
僕は机の前に座っていた。
昼間に見た古い写真が、何度も頭に浮かんでくる。
小さな手。
笑い声。
そして、あの奇妙な懐かしさ。
あれが本当に記憶だったのか。
それとも、ただの思い込みだったのか。
僕には分からない。
ノートを開く。
昨日書いた一文が、まだそこに残っていた。
――今日は、いい一日だった。
しばらく、その文字を眺める。
それから、新しいページを開いた。
僕はペンを走らせる。
――文化祭が始まった。
少し考えてから、もう一行を書き加えた。
――少し、楽しみかもしれない。
ペンを置く。
しばらく、その言葉を眺めていた。
もしかすると、これが「思い出」というものなのかもしれない。
頭の奥に隠れているものでもない。
無理に思い出そうとするものでもない。
ただの、何気ない瞬間。
会話。
帰り道。
学校で過ごした一日。
自分がそこにいたからこそ生まれた出来事。
僕はノートを閉じた。
けれど、電気を消そうとした瞬間――
一つの考えが、また頭に浮かんだ。
あの写真。
あの手。
そして、あの一瞬だけ感じた懐かしさ。
もし、あれが本当に記憶だったのなら――
どうして、あんなにも早く消えたんだろう。
そして――
どうして星野さんは、僕が見たものを知っているような顔をしていたんだろう。
答えは、まだ分からない。
でも――
いつか分かるのかもしれない。
窓の外は、静かな夜だった。
そして遠くには、僕の新しい日々が待っている。
文化祭は、まだ始まったばかりだった。




