最後の発表
ついに、発表の日がやってきた。
その朝、教室に入った瞬間、いつもとは少し違う空気を感じた。
みんな、いつもより落ち着かない。
ノートを見返している人もいれば、発表の練習をしている人もいる。
中には、発表が終わった後のことを話している人までいた。
僕は鞄を机の横に置き、自分の席に座った。
今日で最後だ。
この発表も、今日で終わる。
目の前に置いたノートを見る。
もう何度も読んだ。
たぶん、これ以上確認する必要なんてない。
それでも、僕はまた最初から目を通していた。
「そのうち全部暗記しちゃうんじゃない?」
顔を上げる。
星野さんが僕の机の横に立っていた。
「忘れたら困るから」
僕がそう答えると、彼女は笑った。
「大丈夫だよ」
「ずいぶん自信あるね」
「あるよ」
あまりにも自然に言うものだから、僕は思わず笑いそうになった。
「昨日も同じこと言ってたよね」
「だって、本当のことだもん」
そう言って、彼女は僕の隣の席に座った。
不思議と、少しだけ緊張が和らいだ。
⸻
そして、僕たちの番が来た。
教室の前に立つ。
目の前には、クラスメイトたち。
一斉に向けられる視線。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
たくさんの目。
自分の心臓の音まで聞こえてくる気がする。
僕は隣を見る。
星野さんが立っていた。
彼女も僕が見ていることに気づいた。
そして、小さく笑った。
「大丈夫だよ、蓮くん」
その声は、僕にしか聞こえないくらい小さかった。
「私がいるから」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と落ち着いた。
僕はゆっくり息を吸う。
そして、クラスの方へ向き直った。
「……始めます」
⸻
発表は、思っていたより順調に進んだ。
最初は星野さんが話す。
その後、僕が自分の担当する部分を続けた。
一緒に何度も確認した内容を、一つずつ説明していく。
できるだけ声が震えないように意識した。
そして――
次に話す場所が、分からなくなった。
ほんの一瞬だった。
手元のノートを見る。
けれど、次に何を言えばいいのか思い出せない。
静かな時間が流れる。
そのとき、星野さんが自然に言葉を続けた。
まるで、僕が止まったことなんて最初からなかったみたいに。
僕が立て直すための時間を作ってくれた。
すぐに自分の場所を見つける。
「……そうだ」
続きを話す。
今度は、さっきよりも落ち着いていた。
気がつけば、最後のスライドまで来ていた。
「以上で、僕たちの発表を終わります」
一瞬だけ、教室が静かになる。
そして――
拍手が起こった。
僕は、いつの間にか止めていた息をゆっくり吐き出した。
……終わった。
僕たちは、やり切った。
⸻
全員の発表が終わった後、先生から簡単な講評があった。
「いくつか改善できるところはあるが、全体的によくできていたぞ」
「ありがとうございます」
そう答えて席へ戻る。
何人かのクラスメイトが声をかけてくれた。
「お疲れ!」
「二人とも、結構よかったじゃん」
「思ったよりちゃんとしてたな」
最後の言葉が褒め言葉なのかは、少し分からなかった。
それでも、僕は笑った。
席に座ると、星野さんがこちらを見る。
「終わったね」
「うん」
前を見る。
あれだけ時間をかけて準備した発表が、ついに終わった。
なのに、思っていたほど解放された感じはなかった。
安心した、というわけでもない。
ただ――
なんとなく、満たされていた。
数週間前まで、この教室にいる人たちのことをほとんど知らなかった。
それなのに今は。
こうして、信頼できる人と一緒にみんなの前に立っている。
僕は星野さんを見る。
「ありがとう」
「何が?」
「手伝ってくれて」
星野さんは少し首を傾げた。
「お礼なんていいのに」
「それでも言いたかったから」
彼女は微笑んだ。
「じゃあ、どういたしまして」
僕は小さく笑った。
本当に、何気ない瞬間だった。
だけど――
なぜか、この瞬間は覚えていたいと思った。
⸻
次の休み時間。
先生が再び教室に入ってきた。
「さて、発表も終わったことだし、これからは文化祭の準備に集中してもらうぞ」
その瞬間、教室が一気に騒がしくなる。
「やっとだ!」
「何やる?」
「カフェがいい!」
「いや、お化け屋敷だろ!」
「ゲームとかの方がよくない?」
みんなが次々と意見を出していく。
僕は席から、その騒がしさを眺めていた。
……ちょっと圧倒される。
すると、星野さんが僕の方へ少し身を寄せた。
「蓮くんは何がいい?」
「正直に言うと?」
「うん」
「全然分からない」
星野さんが笑った。
「やっぱり」
「それ、馬鹿にしてる?」
「してないよ」
彼女は笑いながら言った。
「じゃあ、一緒に考えよう」
一緒に。
その言葉が、なぜか心地よかった。
⸻
放課後。
僕たちは並んで廊下を歩いていた。
後ろの教室からは、まだみんなの声が聞こえてくる。
文化祭について、まだ盛り上がっているらしい。
発表は、もう終わった。
しばらくの間、僕は失った記憶のことを考えていなかった。
写真のことも。
あの夜に聞こえた声のことも。
ただ――
隣を歩く彼女のことだけを考えていた。
「星野さん」
「ん?」
「そんなに文化祭、楽しみ?」
「うん」
即答だった。
僕は笑った。
「どうして?」
彼女は少し考える。
「だって、楽しそうだから」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
彼女は前を向いた。
そして、少し間を置いてから言った。
「それに……」
彼女が微笑む。
「きっと、いい思い出が作れるから」
僕の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
思い出。
その言葉には、今でも少しだけ重さがある。
僕には、手の届かない思い出がたくさんある。
僕の過去のどこかに存在しているのに、もう僕のものではないような記憶。
だけど今回は――
不思議と、嫌な感じはしなかった。
僕は星野さんを見る。
「……うん」
僕も笑った。
「そうかもね」
彼女も笑った。
そして、僕たちは再び歩き始めた。
⸻
その夜。
僕は机の前に座っていた。
目の前には、今日まで使っていた発表のノートが置かれている。
しばらく眺めてから、それを片付けた。
これで終わりだ。
また一つ、新しい学校生活の出来事が終わった。
僕はペンを手に取る。
そして、深く考えることもなく、ノートに一文だけ書いた。
今日は、いい一日だった。
僕は、その文字をしばらく眺めた。
そして、小さく笑った。
もしかしたら――
僕は、新しい思い出を作っていけるのかもしれない。
昔のことを思い出せなくても。
僕はノートを閉じた。
そして、立ち上がる。
部屋を出ようとした、そのとき――
僕は足を止めた。
……あれ?
なぜ、立ち上がったんだ?
僕は周りを見渡した。
机。
ベッド。
窓。
何も変わっていない。
なのに、ほんの一瞬だけ――
自分が何をしようとしていたのか、完全に分からなくなった。
その場に立ったまま、考える。
一秒。
二秒。
そして――
「あ……」
思い出した。
水を飲みに行こうとしていたんだ。
僕はそのまま部屋を出た。
けれど、廊下まで来たところで、もう一度足を止める。
……変だ。
ほんの数秒だった。
たぶん、今日は疲れていたんだろう。
何しろ、長い一日だった。
僕は小さく首を振った。
「……考えすぎか」
そのまま階下へ向かった。
もう、そのことについて考えるのはやめた。
少なくとも――
そうしようとはした。
だけど。
心のどこかに、小さな疑問だけが残っていた。
……あれは、本当にただの物忘れだったのだろうか。
第二章はここまでです。
第三章は9月9日より投稿予定です。
お楽しみに!




