彼女が知っていること
翌朝、僕は昨夜と同じような、妙な感覚を抱えたまま目を覚ました。
しばらくの間、天井を見つめていた。
そして、何気なく思い出してしまう。
「……蓮」
あの声。
かすかな声だった。
まるで、ずっと遠くから誰かに呼ばれたような。
本当に聞こえたのか。
それとも、僕の頭の中が作り出したものなのか。
今でも分からない。
僕は机の上に置いてあったペンダントに手を伸ばした。
何も起こらなかった。
声もない。
記憶もない。
何も。
一度だけペンダントを裏返してから、写真の隣に戻した。
もしかしたら、僕が考えすぎているだけなのかもしれない。
たぶん、それだけだ。
僕は学校へ行く準備をした。
そして、もうあまり考えないようにした。
⸻
学校に着くと、教室はすでに少し騒がしくなっていた。
自分の席へ向かう途中、窓際に立っている星野さんが目に入った。
彼女が僕に気づく。
「おはよう、蓮くん」
「おはよう」
いつものように、彼女は笑った。
だけど――
ほんの一瞬だけ。
彼女の表情が変わった気がした。
あまりにも一瞬だったから、見間違いかもしれない。
彼女の視線が、いつもより少し長く僕に留まる。
そして、また笑った。
僕は席に座った。
……気のせいかもしれない。
最近、僕は星野さんの些細な行動を気にしすぎている。
例えば、僕が人の多い場所をあまり好きじゃないことを覚えていたり。
僕が居心地の悪さを感じていると、何も言う前に気づいたり。
昨日だって、僕が何かを抱えていることを、僕自身が口にするより先に気づいていた。
ただ、彼女がよく人を見ているだけなのだろう。
きっと、それだけだ。
それ以上の意味なんてない。
少なくとも、僕はそう思おうとした。
⸻
休み時間。
先生が何枚かのプリントを持って教室に入ってきた。
「授業の前に、一つ連絡があります」
教室が少しずつ静かになる。
「来月、文化祭を開催します」
その瞬間、教室が一気に騒がしくなった。
「文化祭?」
「もうそんな時期なんだ!」
「うちのクラス、何やるんだろう?」
先生はため息をついた。
「詳しいことは後で決めます。今のうちに、何をやりたいか考えておいてください」
再び教室が騒がしくなる。
僕は周りを見渡した。
みんな、楽しそうだった。
文化祭か。
僕は今まで、学校行事についてあまり考えたことがなかった。
この学校に来て、まだそれほど時間が経っていないからかもしれない。
そんなことを考えていると、星野さんが僕の方を向いた。
「蓮くん、文化祭楽しみ?」
「まだ分からないかな」
彼女は小さく笑った。
「きっと楽しいよ」
「ずいぶん自信あるね」
「あるよ」
そう言って、彼女は笑った。
その笑顔が――
なぜか、ひどく懐かしく感じた。
どうしてなのかは、分からなかった。
⸻
昼休み。
僕たちはいつものように一緒に昼食を取っていた。
星野さんがお弁当を開ける。
僕は窓の外を眺めていた。
しばらくして、彼女が尋ねてきた。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「うん」
少し間を置いてから、
「……まあ、ほとんど」
と答えた。
彼女が僕を見る。
「ちょっと疲れてるね」
「そう?」
「うん。少しだけ」
僕は少し迷った。
そして、昨夜の声を思い出した。
「変な夢を見たんだ」
その瞬間。
彼女の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
でも、僕には分かった。
「どんな夢?」
「よく覚えてない」
完全な嘘ではなかった。
あの声のことは覚えている。
だけど、それが本当に夢の中で聞いたものなのかは、僕自身にも分からない。
星野さんは視線を落とした。
「……そう」
その声には、どこか違和感があった。
僕は彼女を見る。
「星野さん」
「ん?」
「何かあった?」
彼女が顔を上げる。
そして、笑った。
「ううん。何もないよ」
僕は少しだけ彼女を見つめた。
……あまり説得力のある答えには聞こえなかった。
だけど、僕はそれ以上聞かなかった。
⸻
放課後。
僕と星野さんは、発表の準備をするために教室に残っていた。
何度かスライドを確認する。
しばらくして、星野さんが自分のパートを練習し始めた。
僕たちの発表について話したあと。
いつの間にか、話題は僕自身のことになっていた。
「蓮くんは静かだけど、よく周りを見てるよね」
僕は顔を上げた。
彼女は続ける。
「あまり自分のことを話さないし」
それは確かにそうだった。
「静かな場所の方が好きだし」
これも当たっている。
「それに、分からないことがあっても、ちゃんと最後まで頑張る」
僕は少し驚いた。
「……本当に、僕ってそんな感じ?」
彼女は笑った。
「うん。私はそう思うよ」
僕は視線を逸らした。
誰かに自分のことを、こんなふうに言われるのは不思議な感じがした。
自分自身ですら、まだ自分がどんな人間なのか分からないのに。
星野さんが、しばらく僕を見つめる。
そして、小さな声で言った。
「……前と、変わってない」
そこで彼女は言葉を止めた。
僕は彼女を見る。
「何?」
彼女の表情が変わった。
「ううん。何でもない」
彼女はすぐにノートへ視線を戻した。
「次のところ、もう一回練習しよう」
僕は何も言わなかった。
だけど、その言葉だけは頭から離れなかった。
――前と、変わってない。
どういう意味だったんだろう。
⸻
発表の練習が終わり、僕たちは荷物をまとめた。
僕が帰ろうとしたとき、ふと足を止めた。
「星野さん」
「ん?」
自分でも、なぜそんなことを聞こうと思ったのか分からなかった。
ただ、言葉が自然に口から出てきた。
「……人ってさ」
少しだけ間を置く。
「その人に忘れられていても、その人のことを知っていられると思う?」
星野さんの動きが止まった。
完全に。
しばらく、彼女は何も言わなかった。
やがて、僕を見る。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「なんとなく」
彼女は黙ったまま僕を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「私は……できると思う」
「忘れられていても?」
「うん」
彼女は笑ったままだった。
だけど、その笑顔の奥には悲しさがあった。
「時々ね。思い出すことだけが、その人を知る方法じゃないから」
僕は何も言えなかった。
その言葉が、妙に心に残った。
――思い出すことだけが、その人を知る方法じゃない。
「……変な答えだね」
「そうかも」
彼女はバッグを持ち上げる。
「でも、私はそう思うよ」
僕たちは一緒に教室を出た。
それ以上、僕たちは何も話さなかった。
⸻
その夜。
僕は机の前に座っていた。
部屋は静かだった。
僕はペンダントに手を伸ばした。
そして、その隣に置いてある写真を見る。
写真の中の少女は、カメラに向かって笑っていた。
僕は、今でも彼女が誰なのか知らない。
それなのに。
その少女を見ると、なぜか胸の奥が重くなる。
僕は、星野さんの言葉を思い出した。
――思い出すことだけが、その人を知る方法じゃない。
僕は写真を見つめた。
どうしてだろう。
あのときの彼女は、誰か別の人の話をしているようには見えなかった。
まるで――
僕自身のことを話しているような気がした。
どうして、そんなふうに感じたのか。
僕には分からない。
答えは、まだ何も見つかっていない。
だけど。
初めて、僕は別のことを考えていた。
写真のことでもない。
ペンダントのことでもない。
失われた記憶のことですらない。
彼女のこと。
――星野さんは、僕について何を知っているんだろう。




