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思い出せなかったもの

 翌朝。


 目を覚ました僕は、奇妙な感覚を抱えていた。


 うまく説明できない。


 何かが起きたわけでもない。


 夢を見たわけでもない。


 突然、記憶が蘇ったわけでもない。


 それなのに――


 昨日から、頭の中に何度も浮かんでくるものがあった。


 星野さんの鞄についていた、小さな桜の形をしたチャーム。


 ただのチャームだ。


 誰が持っていてもおかしくない。


 それなのに、あれを見た瞬間。


 僕の中の何かが反応した。


 その理由は、分からなかった。


 学校へ行く準備をしている間も、その感覚は消えなかった。


 ◇


 教室へ入ると、星野さんはいつもの窓際の席に座っていた。


 本を読んでいる。


 僕に気づくと、いつものように顔を上げた。


「おはよう、蓮くん」


「……おはよう」


 何も変わらない。


 いつもの教室。


 いつもの朝の光。


 いつもの声。


 なのに――


 僕の視線は、無意識に彼女の鞄へ向かっていた。


 そこには、昨日と同じ桜のチャームが揺れている。


 しばらく見ていたせいか、星野さんが気づいた。


「……どうしたの?」


「え?」


「鞄、見てるけど」


「あ……」


 慌てて視線を逸らす。


「ごめん」


 彼女は自分の鞄へ視線を落とした。


「これ?」


 指先でチャームに触れる。


 一瞬だけ。


 彼女の表情が変わったように見えた。


 けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻る。


「昔から持ってるの」


「そうなんだ」


「うん」


「どうして持ってるの?」


 彼女は小さなチャームを見つめた。


「……なんとなく、好きだから」


 答えは簡単だった。


 でも――


 なぜか僕の頭から離れなかった。


「……そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 ◇


 その日の授業は、いつも通りに過ぎていった。


 授業。


 昼休み。


 いつもの会話。


 特別なことは何も起こらなかった。


 それでも、時々あのチャームを思い出した。


 どうしてなのか、自分でも分からない。


 別に、以前どこかで見たわけじゃない。


 少なくとも――


 そう思っている。


 それなのに。


 あの桜の形を見ていると、手の届かない記憶の一部に触れているような気がした。


 ◇


 放課後。


 僕たちは今日も図書室へ向かった。


 いつもの席に座り、残っていた課題を進める。


 しばらくして、星野さんがノートを閉じた。


「もうすぐ終わりだね」


「うん」


「残るのは発表だけ」


「そうだね」


 僕は頷いた。


 その瞬間。


 胸の奥に、ほんの少しだけ寂しさが生まれた。


 この課題があったから、僕たちはほとんど毎日のように一緒に過ごしていた。


 これが終わったら――


 また前みたいになるんだろうか。


 そのことを考えたくなかった。


「蓮くん?」


「ん?」


「……心配そうな顔してる」


「そう?」


「うん。少しだけ」


 僕は笑った。


「なんでもないよ」


 彼女は少しだけ僕を見つめた。


 でも、それ以上は何も聞かなかった。


 いつものように、静かに笑うだけだった。


 ◇


 その夜。


 家へ帰った僕は、机の前に座った。


 部屋は静かだった。


 窓の外には、夏の夜が広がっている。


 僕は机の横にある引き出しを開けた。


 中には、事故の後からずっと持っているものが入っている。


 一つずつ取り出す。


 まず――


 ペンダント。


 机の上へ置く。


 どうして持っているのか、自分でも分からないペンダント。


 そして――


 写真。


 僕は、その写真をじっと見つめた。


 二人の子供。


 一人は、幼い頃の僕。


 そして、その隣にいる女の子。


 今でも、彼女が誰なのか分からない。


 何度もこの写真を見た。


 顔を覚えようとした。


 声を想像した。


 名前を思い出そうとした。


 でも――


 何も出てこない。


 記憶があるはずの場所だけが、ぽっかりと空いている。


 僕は写真を手に取った。


「……君は、誰なの?」


 気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。


 写真の中の女の子を見る。


 何かが引っかかる。


 胸の奥が、少しだけ重くなる。


「……本当に、僕にとって大切な人だったの?」


 分からない。


 それが一番苦しかった。


 自分がどんな人間だったのか。


 どんな生活をしていたのか。


 誰を大切にしていたのか。


 何を望んでいたのか。


 僕には、何も分からない。


 そして今。


 もう一つ、分からないものが増えていた。


 あの桜のチャーム。


 星野さんの鞄についていた、あれ。


 僕はスマートフォンを写真の横へ置いた。


 そして、ペンダントを見る。


 写真を見る。


 頭の中に浮かぶ、あの桜のチャームを思い出す。


 三つのもの。


 どれも、今の僕には意味が分からない。


 なのに――


 なぜか、繋がっているような気がした。


 僕はペンダントを手に取った。


 冷たい金属が指先に触れる。


 目を閉じる。


 何も起こらない。


 そう思った。


 その瞬間――


 淡い光景が、頭の中をよぎった。


 桜の花びら。


 春の空。


 僕の隣に誰かが立っている。


 顔は見えない。


 声も、はっきりとは聞こえない。


 それでも――


 誰かが僕の名前を呼んでいた。


「……蓮」


 目を開ける。


 光景は消えていた。


 僕は手の中のペンダントを見つめる。


「……今のは、何だったんだ?」


 もう一度、目を閉じる。


 何も起こらない。


 どれだけ集中しても、あの記憶は戻ってこなかった。


 まるで、最初から存在しなかったかのように消えてしまった。


 僕は再び写真を見る。


 幼い僕の隣にいる女の子。


 そして――


 星野さんのことを考えた。


 彼女の声。


 笑顔。


 時々見せる、どこか寂しそうな表情。


 僕には分からないことまで知っているような態度。


 そして、あの桜のチャーム。


「……星野さん」


 なぜ彼女の名前を口にしたのか、自分でも分からなかった。


 ただ――


 彼女と一緒にいると、昔から知っていたような感覚になる。


 初めて会ったはずなのに。


 どこか懐かしい。


 まるで、僕たちの間に何かがあったような。


 でも、それが何なのかは思い出せない。


「……何なんだ?」


 写真を見つめる。


「君は、誰?」


 今度は、写真の中の女の子に問いかけた。


 けれど――


 答えは返ってこない。


 僕は写真を机の上へ戻した。


 その隣に、ペンダントを置く。


 しばらく、二つをただ見つめていた。


 僕はずっと、記憶を取り戻すことが「昔の自分」を知ることだと思っていた。


 でも――


 もしかしたら。


 僕が忘れてしまった過去は、思っているほど遠くにはないのかもしれない。


 もしかすると。


 その一部は、もう僕のすぐそばにある。


 僕は、気づかないまま答えを見ているのかもしれない。


 まだ分からない。


 何も確信できない。


 それでも――


 初めて、知りたいと思った。


 僕はもう一度、写真を手に取る。


 女の子の顔を見る。


「……君は、僕にとって何だったの?」


 答えはない。


 静かな部屋に、夏の夜風が流れ込む。


 カーテンが、ゆっくり揺れた。


 僕は目を閉じる。


 今度は、無理に思い出そうとはしなかった。


 ただ、待つ。


 いつか。


 僕の中に残っている記憶が――


 自分から戻ってくるのを。

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