届かなかった記憶
翌朝、僕はいつもより早く目を覚ました。
数秒間、布団の中で天井を見つめたまま動かなかった。
昨日のことが、何度も頭の中に浮かんでは消えていく。
あの会話。
星野さんに話したこと。
僕の記憶喪失。
そして、僕の過去。
あんなふうに自分のことを話したのは、初めてだった。
だからこそ、どうして彼女に話そうと思ったのかが、ずっと気になっていた。
たぶん、彼女を信頼していたから。
単純に、一緒にいて安心できたから。
それとも……ずっと一人で抱え込んでいたことに、疲れていたのかもしれない。
今の僕には、まだ分からなかった。
僕は支度をして、学校へ向かった。
⸻
教室に着くと、星野さんはもう来ていた。
僕に気づくと、すぐにこちらを見て微笑む。
「おはよう、蓮くん」
「おはよう」
それだけだった。
昨日のことを聞いてこない。
僕を見る目も変わっていない。
突然、壊れ物でも扱うような態度になることもない。
何もかも、いつも通りだった。
なぜか、それが少し嬉しかった。
記憶を失っていることを話したせいで、彼女との距離が変わってしまうんじゃないかと思っていた。
でも、そんなことはなかった。
少なくとも、今のところは。
⸻
授業中、僕は何度か星野さんのほうを見ていた。
彼女はいつも通り、先生の話を聞きながらノートを取っている。
特に変わった様子はない。
そして、休み時間。
ふと彼女がこちらを見た。
目が合う。
星野さんは、いつものように微笑んだ。
僕はすぐに目を逸らした。
あの笑顔には、何かを感じる。
懐かしい……というのとは少し違う。
覚えているわけじゃない。
なのに、ずっと前から知っているような気がした。
どうしてそう感じるのか、自分でも分からない。
僕は小さく頭を振って、ノートへ視線を戻した。
きっと、考えすぎだ。
そう思うことにした。
⸻
昼休み。
僕たちはいつも通り、一緒に昼食を食べていた。
最初は普通の話をしていた。
発表のこと。
残っている作業のこと。
そんな話ばかりだった。
しばらくして、昨日のことを思い出した。
「昨日、僕が話したことなんだけど……」
星野さんが僕を見る。
「無理に話さなくてもいいよ」
僕は少し黙った。
「……でも、知りたくないの?」
星野さんは、優しく微笑んだ。
「蓮くんが話したいなら、聞くよ」
そして、少し間を置いてから言った。
「今日、全部思い出さなくてもいいから」
僕は視線を落とした。
その言葉が、頭の中に残った。
僕はずっと、失った記憶をできるだけ早く取り戻さなければいけないと思っていた。
欠けてしまった、自分自身の一部。
それを見つけなければならないと思っていた。
でも、星野さんは違った。
急かしてこない。
何もかも説明しろとも言わない。
ただ、時間をくれている。
「……ありがとう」
星野さんが首を傾げた。
「何が?」
「……自分でも、よく分からない」
彼女は小さく笑った。
「じゃあ、分かったときにありがとうって言って」
思わず、僕も笑ってしまった。
⸻
昼休みが終わると、僕たちは発表の準備に戻った。
星野さんはノートに何かを書いている。
僕はその横で資料を整理していた。
ふと、彼女が書いていたページを見ようとすると、星野さんはすぐに手で隠した。
「何書いてるの?」
彼女はノートを閉じた。
「発表に使うこと」
「隠してるじゃん」
「隠してないよ」
「いや、絶対隠してる」
星野さんは笑った。
「……たぶん」
僕はため息をついた。
「怪しいな」
「蓮くんが気にしすぎなんだよ」
「僕、そんなに気にしてないけど」
「じゃあ、どうして聞いたの?」
「それは……」
答えが出てこなかった。
星野さんが小さく笑う。
その瞬間、すべてが単純に感じられた。
記憶のことも。
過去のことも。
分からないことも。
ただ、二人で発表の準備をしている。
そんな何気ない時間。
僕は、こういう時間が好きだった。
何も思い出せなくても、何も考えなくていいから。
⸻
放課後。
僕たちは一緒に帰っていた。
夕方の光が少しずつ薄くなり、街もいつもより静かだった。
発表のこと。
クラスメイトのこと。
明日の予定。
そんな何気ない話をしながら歩いた。
大した話ではなかった。
けれど、しばらくすると、また過去のことを考えていた。
僕は少しだけ歩く速度を落とした。
「星野さん」
彼女が振り返る。
「ん?」
僕は少し迷った。
ずっと聞いてみたかったことだった。
「僕って……昔、どんな人だった?」
星野さんの足が止まった。
僕も立ち止まる。
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、静かに僕を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
「……今と同じだよ」
僕は瞬きをした。
「それじゃ、答えになってないよ」
「うん」
彼女は小さく笑った。
「ごめんね」
僕も笑った。
「……別にいいけど」
それ以上、僕は聞かなかった。
彼女の答えには、何か別の意味があるような気がした。
けれど、それが何なのかは分からない。
だから、今はそれ以上考えないことにした。
⸻
しばらく歩くと、いつも別れる交差点に着いた。
僕は足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「待って」
振り返る。
星野さんがスマートフォンを手にしていた。
少しだけ迷っているように見える。
「……連絡先、交換しない?」
僕は瞬きをした。
「連絡先?」
星野さんが頷く。
「うん」
「いいよ」
僕もスマートフォンを取り出した。
数秒後、僕の画面に彼女の連絡先が表示された。
星野結菜
僕は少しだけ眺めてから、名前を保存した。
星野さん
それを見た彼女が、僕の画面を覗き込む。
「星野さん、なんだ」
「何か問題ある?」
「ううん」
彼女は笑った。
「別にいいよ」
その言い方が、なぜか少し気になった。
まるで、何か言いたいことがあったような。
でも、彼女はそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ、おやすみ。蓮くん」
「うん。おやすみ」
彼女が歩き出す。
僕はしばらく、その背中を見送っていた。
それから僕も家へ向かった。
歩きながら、もう一度スマートフォンを見る。
ただの名前。
ただの連絡先。
それだけなのに、なぜか少しだけ嬉しかった。
理由は、自分でも分からない。
⸻
その夜。
僕は机に向かっていた。
部屋の中は静かだった。
ノートを開き、白紙のページを一枚めくる。
少し考えてから、ペンを走らせた。
自分について覚えていること。
・静かな場所が好き。
・絵を描くのが好き。
・電車が好き。
・冬が好き。
僕はそのリストをじっと見つめた。
そして、もう一行付け加えた。
・どうして好きなのかは分からない。
ペンを置く。
これらは確かに、自分の中にある。
でも、それがどこから来たものなのかは分からない。
もしかしたら、失った記憶のどこかに答えがあるのかもしれない。
まだ、僕には届かない場所に。
僕はページを少し下へずらした。
そして、書いた。
僕がどんな人間だったのか、分からない。
その言葉を、しばらく見つめた。
長い間。
それから、ゆっくりとその下に続けた。
でも、これからどんな人間になれるのかは、分かるかもしれない。
ペンを置く。
今までの僕は、失った過去を取り戻さなければいけないと思っていた。
でも、今は少し違う。
ただ、知りたい。
自分が何を失ったのか。
そして、それが自分にとって何だったのか。
一つずつ。
ゆっくりでいい。
⸻
眠る前。
僕はもう一度スマートフォンを手に取った。
連絡先の画面を開く。
星野さん。
その名前を、数秒間眺めた。
それから画面を閉じる。
明日も、きっと普通の一日になる。
何も起こらないかもしれない。
それでも――
なぜか、何かが少し変わった気がした。
記憶が戻ったわけじゃない。
まだ何も思い出していない。
それでも。
僕の中で、何かが変わり始めている。
そして今は――
それだけで十分なのかもしれない。




