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16/25

僕がまだ覚えていること

翌朝、僕は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


すぐには起き上がらなかった。


ただ天井を見つめながら、静かな部屋の音に耳を澄ませていた。


キッチンから冷蔵庫の低い音が聞こえる。


どこか遠くで車が走っていく。


そして――


遠くから、聞き慣れた電車の音が聞こえてきた。


僕は目を閉じた。


昨日のことが頭に浮かんだ。


星野さんとの会話。


ずっと自分の中にしまっていた言葉。


そして、ようやく誰かに話したこと。


後悔すると思っていた。


でも、しなかった。


それが不思議だった。


記憶を失っていると知ってから初めて、誰かにそのことを話しても、自分が弱くなったようには感じなかった。


むしろ、胸の奥にあった重さが少しだけ軽くなった気がした。


けれど、ひとつだけ気になることがあった。


どうして、あんなに簡単に彼女に話せたんだろう。


僕が星野さんと知り合ってから、まだそれほど長くない。


少なくとも、僕の記憶では。


それなのに昨日、彼女の隣に座って、事故のことや、記憶の中にある空白について話していたとき――


僕は、彼女と初めて会った人間と話しているようには感じなかった。


自然だった。


あまりにも自然すぎた。


僕は目を開けた。


「……どうしてだろう」


答えのない問いが、誰もいない部屋に消えていった。


僕には、その答えが分からなかった。


だから、ベッドから起き上がった。


⸻


学校に着く頃には、その違和感もほとんど消えていた。


廊下はすでに人で溢れている。


宿題の話。


部活の話。


週末の予定。


そんな普通の会話が、あちこちから聞こえてくる。


事故に遭う前の自分が、どんな人間だったのかを思い出さなくても成立するような、普通の日常。


僕は教室に入り、自分の席の横で足を止めた。


「おはよう、蓮くん」


顔を上げる。


教室の入り口近くに、星野さんが立っていた。


彼女は笑っている。


無理に作った笑顔じゃない。


僕に気を遣っているような、ぎこちない笑顔でもない。


いつもの笑顔だった。


「おはよう、星野さん」


それだけだった。


昨日のことについて何も聞かない。


心配そうな顔もしない。


わざと話題にしようともしない。


そのことに、僕はなぜか安心した。


席に座る。


数分後、先生が教室に入ってきた。


そして、何も変わらない一日が始まった。


⸻


昼休み


昼休みのチャイムが鳴ると、教室は少しずつ静かになっていった。


ほとんどの生徒が食堂へ向かったり、友達と集まったりしている。


僕は自分の席に残っていた。


向かいには星野さんが座っている。


僕たちの課題の資料が机の上に広がっていた。


発表の最後の部分を仕上げることになっている。


でも、どうしても集中できなかった。


「星野さん」


「ん?」


「……もうひとつ、話したいことがあるんだ」


彼女のペンが止まった。


僕を見る。


でも、彼女は「何?」とは聞かなかった。


ただ、静かに言った。


「蓮くんが話したくなったときでいいよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが少しだけ緩んだ。


僕は自分の手を見る。


「最近、少し思い出してるんだ」


「思い出してる?」


「うん。でも、正確には……記憶っていうより」


言葉を探す。


「断片、かな」


彼女は黙って聞いていた。


僕は一度、息を吸った。


「絵を描いていたことを覚えてる」


彼女の表情は変わらない。


「いつから描いてたのかは分からない。何を描いてたのかも、ほとんど覚えてない。でも……鉛筆を持つと、なぜか懐かしい感じがするんだ」


僕は小さく笑った。


「変だよな」


「変じゃないよ」


彼女はすぐに答えた。


僕は彼女を見る。


彼女は微笑んでいた。


「それで?」


僕は続ける。


「電車も覚えてる」


「電車?」


「うん」


窓の外を見る。


「どうしてかは分からない。でも、電車の音を聞くと……変な感じがするんだ」


「どんな感じ?」


少し考える。


「寂しい」


思ったよりも小さな声になった。


「……それか、待ってる感じ」


星野さんの指が、ペンを少し強く握った。


僕は気づかなかった。


「冬も覚えてる」


「冬?」


「雪とか。冷たい空気とか。たぶん……街の外のどこか」


僕は眉を寄せる。


「自信はないけど」


記憶は、はっきりしていない。


まるで、一枚の写真をいくつにも引き裂いて、その欠片だけを見ているようだった。


「それと……一人でいることが多かった気がする」


僕は小さく笑った。


「そこは記憶じゃないかもしれないけど」


星野さんが首を傾げる。


「どういう意味?」


「昔から、人と話すのが苦手だったんだと思う」


「蓮くん、私とは話してるよ」


「星野さんは……違うから」


言葉が口から滑り落ちた。


星野さんが目を瞬かせる。


僕は慌てて視線を逸らした。


「いや、その……」


「分かってる」


彼女は微笑んだ。


僕は首の後ろを掻く。


「……まあ、それはいいとして」


話を続ける。


「他にもあるんだ」


声が少し小さくなる。


「誰かがいる」


星野さんの笑顔が止まった。


「大切な人?」


「……たぶん」


僕は机を見つめた。


「でも、誰なのか思い出せない」


沈黙。


「顔も……覚えてない」


その瞬間だった。


ほんの一瞬だけ、頭の中に何かが浮かんだ。


雪の中に立っている誰か。


長い髪。


聞き覚えのある声。


どこか懐かしい笑顔。


けれど、それが誰なのか分からない。


次の瞬間には消えていた。


僕は額を指で押さえる。


「ときどき……自分が作り出したものなんじゃないかって思う」


「違うよ」


あまりにも小さな声だった。


聞き逃しそうになる。


僕は顔を上げた。


「……え?」


星野さんの目が、わずかに見開かれていた。


そして、彼女は微笑んだ。


「ううん……」


彼女は視線を落とす。


「蓮くんが覚えてるなら……きっと、本当にいた人なんじゃないかなって」


「……そっか」


僕は頷いた。


確かに、それなら納得できる。


でも――


なぜか、その言い方が引っかかった。


不確かじゃない。


まるで、確信しているような。


あまりにも確信に満ちていた。


その理由を、僕には説明できなかった。


僕は話を続ける。


「誰かを待ってたことも覚えてる」


「待ってた?」


「うん」


どこで待っていたのか。


いつのことなのか。


誰を待っていたのか。


何も分からない。


「でも……ずっと待たなきゃいけないって思ってたことだけは覚えてる」


胸が苦しくなる。


「それから……約束も」


星野さんが完全に動きを止めた。


「約束?」


「何の約束だったかは分からない」


僕は首を振る。


「でも、あるんだ」


胸元を軽く叩く。


「言葉は忘れてるのに……約束したっていう感覚だけが残ってる」


星野さんは俯いた。


僕たちが話し始めてから初めて、彼女はすぐには答えなかった。


僕は、何かまずいことを言ったのかと思った。


しばらくして、彼女は微笑んだ。


小さな笑顔だった。


どこか寂しそうな。


「全部を思い出さなくてもいいんだよ」


僕は彼女を見る。


「……そうなの?」


「うん」


彼女はペンを机の上に置いた。


「全部を覚えていなくても、蓮くんは蓮くんだから」


優しい声だった。


「大切なことを忘れてしまったとしても……今の蓮くんまで偽物になるわけじゃないよ」


僕は何も言えなかった。


彼女の言葉が、妙に心に残った。


難しいことを言われたからじゃない。


その言葉が、あまりにも個人的に感じられたからだ。


ただ僕を慰めているだけじゃない。


まるで――


ずっと前から、僕に伝えたかったことを話しているようだった。


「……僕って、変かな?」


彼女は首を横に振った。


「ううん」


「こんな状態でも?」


「こんな状態だからこそ」


僕は小さく笑った。


「変な答えだな」


「そうかも」


彼女も笑う。


「でも、本気でそう思ってるよ」


しばらく、僕たちは何も話さなかった。


やがて僕は机の上の資料を見る。


「……そろそろ、これ終わらせないと」


「そうだね」


空気が少しだけ軽くなった。


でも、彼女の言葉だけは残り続けていた。


全部を覚えていなくても、蓮くんは蓮くんだから。


なぜなのかは分からない。


でも――


その言葉を信じてみたいと思った。


⸻


最後の質問


昼休みが終わったあと、僕たちは再び課題に戻った。


発表はほとんど完成している。


残っているのは、最後の質問だけだった。


僕は紙を見る。


「あなたは、パートナーについて何を知りましたか?」


しばらく、その文章を見つめる。


そして、思わず笑った。


「どうしたの?」


星野さんが顔を上げる。


「いや、なんでもない」


「今、笑ったよね?」


「ちょっと気づいたことがあって」


「何?」


僕は質問を指差す。


「僕、星野さんのこと、結構知ってるなって」


彼女は微笑んだ。


「そうなの?」


「整理するのが得意」


「それは見れば分かるでしょ」


「甘いものが好き」


「そんなに食べないよ」


「食べるだろ」


「食べない」


「昨日ケーキ買ってたじゃん」


「あれは一回だけ」


「人の手伝いをするのが好き」


彼女は黙った。


「それと……疲れてるとき、隠す」


彼女の目がわずかに逸れる。


僕は続けた。


「自分のことをあまり話したがらない」


「そんなことないよ」


「あるよ」


彼女が僕を見る。


「じゃあ、他には?」


僕は少し考える。


「……星野さんって、分かりにくい」


彼女が瞬きをする。


「それ、褒めてる?」


「分からない」


僕は笑った。


不思議だった。


星野さんのことを知れば知るほど――


彼女はもっと謎めいていった。


ひとつ答えを知るたびに、新しい疑問が生まれる。


優しい。


頼りになる。


人気がある。


いつも笑っている。


でも、ときどき。


誰も見ていないと思っているときの彼女の目には、何かがあった。


僕には届かない何か。


そして、どうしてなのか――


それは初めて見るものではない気がした。


ずっと前。


彼女と出会うよりもずっと前に。


僕は、その表情を見たことがあるような気がした。


僕はその考えを振り払った。


「じゃあ、蓮くんは?」


彼女が聞いた。


「ん?」


「私について、何を知ったの?」


僕は彼女を見る。


彼女は笑っていた。


でも、その質問には少しだけ緊張が混じっているように見えた。


僕は少し考える。


「……星野さんって、みんなが思ってるより静かな人だよな」


彼女の笑顔が、一瞬だけ消えた。


「人が気づかないことによく気づく」


彼女は視線を落とす。


「それから……自分で思ってるより、優しい」


僕は笑った。


「僕、そんなに優しくないけど」


「私はそう思うよ」


迷いのない答えだった。


僕は彼女を見る。


彼女はもう一度、微笑んだ。


「それが、私が知ったこと」


僕は頷いた。


「じゃあ……お互い、少しは相手のことを知れたってことだな」


「そうだね」


そのとき、チャイムが鳴った。


僕たちは資料を片付ける。


けれど、課題の紙をしまいながら、僕はふと思った。


星野さんは、僕が覚えていないことを知っている。


僕自身でさえ、自分が忘れたことに気づいていないようなことまで。


そして僕は――


記憶を失う前の彼女について、ほとんど何も知らない。


不公平な関係だった。


彼女は僕の過去を知っている。


僕が知っているのは、彼女の現在だけ。


なぜそれがこんなにも気になるのか。


僕にはまだ分からなかった。


⸻


放課後


学校を出る頃には、太陽が沈み始めていた。


空はオレンジ色に染まっている。


生徒たちが部活や駅や、それぞれの家へ向かって歩いていく。


僕たちは並んで歩いていた。


あまり会話はなかった。


でも、その沈黙は気まずくなかった。


いつの間にか、慣れてしまった沈黙だった。


いつもの別れ道に差し掛かったところで、僕は足を止めた。


「星野さん」


「ん?」


僕は少し迷った。


一日中、頭の片隅にあった質問だった。


「……僕たちって、前に会ったことある?」


星野さんの足が止まった。


一瞬。


すべての音が消えたように感じた。


彼女の表情が変わった。


ほんのわずかだった。


でも、僕には分かった。


笑顔が消えた。


目が少しだけ大きく開く。


まるで――


怯えているようだった。


けれど、それも一瞬だった。


彼女はまた笑った。


「どうしてそう思うの?」


「……分からない」


僕は道路の向こうを見る。


「なんとなく……」


言葉を探す。


「星野さんと一緒にいると、前から知ってたみたいな感じがする」


彼女は答えなかった。


僕は彼女を見る。


彼女は僕を見つめていた。


クラスメイトを見る目でもない。


友達を見る目でもない。


まるで――


失いかけたものを見つめるような目だった。


そして、彼女は笑った。


「きっと……ただ、私たちが気が合うだけだよ」


僕は頷いた。


「……そうかもな」


その答えは単純だった。


そして、不思議と僕はそれを受け入れた。


「じゃあ、また明日。星野さん」


「うん。また明日、蓮くん」


僕は歩き始めた。


数歩進んだところで、振り返る。


彼女はまだそこに立っていた。


僕を見ている。


彼女が手を上げた。


僕も手を振り返す。


そして、僕は再び駅へ向かって歩き始めた。


彼女の笑顔が消えた瞬間を、僕は見なかった。


彼女が手を下ろしたことも。


小さく息を吐いたことも。


そして――


さっき僕が投げかけた質問が、彼女が何年も待ち続けていたものだったことも。


僕は知らなかった。


⸻


蓮の姿が人混みの中へ消えてからも、結菜は長い間、その場に立ち尽くしていた。


僕たちって、前に会ったことある?


その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


結菜は目を閉じた。


すると一瞬だけ――


別の声が聞こえたような気がした。


幼い頃の声。


冬の日に交わした約束。


違う呼び方で呼ばれた自分の名前。


そして――


誰にも呼ばれたことのない、あの呼び名。


結菜はバッグの肩紐を強く握った。


「……もちろん、会ったことあるよ」


ほとんど囁きに近い声だった。


結菜は目を開ける。


街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。


彼女は蓮が去っていった方向を見る。


蓮は、自分を覚えていない。


完全には。


もしかしたら――


これから先も、思い出さないのかもしれない。


それでも今日。


蓮は、初めて何かを思い出した。


自分の顔でもない。


自分の名前でもない。


二人で過ごした記憶でもない。


ただ――


ひとつの感覚。


小さなもの。


それでも、決して消えなかったもの。


すべての記憶が消えてしまっても、残り続けたもの。


結菜は笑った。


痛みを含んだ笑顔だった。


でも、本物の笑顔だった。


「……今は、それで十分」


そう呟いて、結菜は家へ向かって歩き始めた。


消えていく夕日と、灯り始めた街の明かりの間で――


忘れられた約束は、静かに思い出されるその時を待っていた。

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