答えられなかった質問
次の朝、僕はいつもより早く目を覚ました。
なぜか、昨日のことが頭から離れなかった。
課題のことでもない。
ワークシートのことでもない。
発表のことですらなかった。
もっと小さなこと。
昨日、別れる前に星野さんが僕を見ていた、その表情だった。
まるで、何かを言いたそうにしていた。
でも――結局、彼女は何も言わなかった。
僕はしばらく天井を見つめていた。
「……また考えすぎてるな」
小さく呟いて、ベッドから起き上がった。
◇
教室へ入ると、星野さんはいつものように窓際の席に座っていた。
本を読んでいる。
僕に気づくと、彼女は本を閉じた。
「おはよう、蓮くん」
「……おはよう」
いつものように返事をする。
それだけなのに。
彼女の笑顔を見ると、胸の奥にあった妙な感覚が少しだけ消えていく気がした。
「進路学習の課題、終わった?」
「もう少し」
「もう少し?」
「最後の部分をどう書こうかなって考えてた」
彼女が首を傾げる。
「相手について分かったこと?」
「うん」
僕はワークシートを見る。
書けることなら、いくらでもあった。
好きな食べ物。
好きな季節。
笑顔になれるもの。
苦手なこと。
それでも――
なぜか、それだけでは足りない気がした。
「……何を書けばいいのか分からない」
「どうして?」
「だって……」
気づけば、言葉が口から出ていた。
「まだ、星野さんのことを知らない気がするから」
言ってから、少しだけ後悔した。
星野さんは瞬きをする。
そして、柔らかく笑った。
「それでいいんじゃないかな」
「人って、ワークシート一枚だけで分かるものじゃないから」
「……そうだね」
なぜか、その言葉が心に残った。
◇
放課後。
僕たちはいつものように図書室へ向かった。
残っていた発表資料を仕上げて、二人で何度も確認する。
特別なことは何もない。
静かで。
穏やかで。
いつもと変わらない時間だった。
けれど――
星野さんが突然、ワークシートの質問の一つに目を向けた。
「蓮くん」
「ん?」
「……一つ、聞きたいことがあるの」
声の雰囲気が少し違った。
緊張しているわけではない。
ただ、慎重な声だった。
「何?」
彼女は少しだけ迷ってから口を開いた。
「この学校に来る前って……」
そこで言葉が止まった。
僕は黙って待った。
「……どんな学校に通ってたの?」
手が止まった。
どうしてなのか、自分でも分からなかった。
ただの質問だ。
普通の質問。
それなのに――
頭の中が、突然静かになった。
思い出そうとする。
教室。
先生。
友達。
誰かが僕の名前を呼ぶ声。
何でもいい。
何か一つでも。
でも――
何も浮かばなかった。
僕は自分の手を見つめる。
「僕……」
言葉が続かなかった。
星野さんがすぐに気づく。
「蓮くん?」
僕は無理に笑った。
「ごめん」
「……何でもない」
「本当に?」
「うん」
僕はワークシートへ視線を戻した。
「ただ……覚えてないんだ」
その瞬間。
空気が変わった。
星野さんは動かなかった。
「……覚えてない?」
かすかな声だった。
僕は頷く。
「何も浮かばない」
自分のこめかみに軽く触れる。
「ここに来る前のことを考えようとすると……」
「壁みたいなものがあるんだ」
星野さんは僕を見つめていた。
その表情を見ていると――
一瞬だけ、怖がっているように見えた。
驚いているんじゃない。
怖がっている。
「いつから?」
「目を覚ましてから」
「目を覚まして……?」
「事故のあと」
言葉にすると、妙な感覚がした。
僕はずっと、そのことについて話すのを避けていた。
隠したかったわけじゃない。
ただ――
自分でもほとんど分かっていないことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
「事故の前に何があったのか、覚えてない」
「知っていた人たちのことも」
「自分がどんな人間だったのかさえ……分からない」
星野さんは視線を落とした。
ペンを握る指に、少しだけ力が入る。
「……そうなんだ」
僕は彼女が何かを聞いてくるのを待った。
でも、何も聞かなかった。
代わりに、彼女は静かに言った。
「……ごめんね」
「どうして謝るの?」
彼女は僕を見る。
その瞳は優しかった。
でも、その奥にはどこか痛そうなものが隠れているように見えた。
「……分からない」
「じゃあ、謝らなくていいよ」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ弱く笑った。
「……うん」
静寂が戻ってきた。
でも、今度の沈黙は――
いつものように心地よいものではなかった。
完全には。
僕たちの間には、何かが残っていた。
まだ、どちらも言葉にできない何かが。
◇
図書室を出る頃には、太陽はすでに傾いていた。
僕たちは駅へ向かって歩いた。
どちらも、あまり話さなかった。
駅の入口まで来たところで、星野さんが突然足を止める。
「蓮くん」
「ん?」




