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少しだけ近く

放課後。


 教室に残っている生徒は、もうほとんどいなかった。


 窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。


 僕は机の上に広げたワークシートを見つめていた。


「……これで、ほとんど終わったね」


 向かいに座る星野さんが、最後のページを確認する。


「うん」


「発表用の資料も、これで大丈夫そう」


「じゃあ、あとは発表だけか」


「そうだね」


 彼女は小さく笑った。


 たったそれだけの会話なのに、不思議と心が落ち着く。


 最近、星野さんと一緒にいる時間が増えた。


 昼休み。


 図書室。


 帰り道。


 どれも特別な出来事があるわけじゃない。


 それでも――


 気づけば、僕にとって大切な時間になっていた。


「蓮くん」


「ん?」


「少し休憩しない?」


「いいよ」


 二人で教室を出る。


 廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を作っていた。


「今日、暑いね」


「うん。夏って感じがする」


「夏、好き?」


「……普通かな」


「ふふっ。蓮くんらしい答え」


「どういう意味?」


「好きでも嫌いでもない、って顔してる」


「そんな顔ある?」


「あるよ」


 彼女が笑う。


 僕もつられて笑った。


 こんなくだらない会話をするようになったのは、いつからだろう。


 以前なら、こんなふうに誰かと話すことなんて考えもしなかった。


 でも今は――


 星野さんとなら、何を話してもいい気がした。


 ◇


 自動販売機の前で立ち止まる。


「何飲む?」


「ミルクティー」


「やっぱり?」


「……またそれ?」


「だって、いつも飲んでるから」


「ちゃんと覚えてたんだ」


「それくらいはね」


 星野さんは少し嬉しそうに笑った。


 僕も同じものを買う。


「蓮くんも?」


「うん」


「珍しいね」


「たまには」


 二人で缶を持ったまま、近くのベンチに座った。


 しばらく、何も話さなかった。


 夕方の風が、木の葉を静かに揺らしている。


 その音を聞いていると、なぜか眠くなるくらい穏やかな気持ちになった。


「……ねえ、蓮くん」


「ん?」


「もし……」


 星野さんが言葉を止める。


「もし?」


「……ううん」


 彼女は首を振った。


「何でもない」


「そう?」


「うん」


 いつもの笑顔。


 でも――


 一瞬だけ。


 その笑顔の奥に、何か別のものが見えた気がした。


 寂しさ。


 それとも、懐かしさ。


 僕には分からなかった。


 だから、聞かなかった。


 ◇


「そろそろ帰ろうか」


「うん」


 ベンチから立ち上がる。


 駅までの道を、いつものように並んで歩いた。


「発表、緊張する?」


「少しだけ」


「意外」


「星野さんは?」


「私は……慣れてるから」


「さすが生徒会副会長」


「それは関係ないよ」


 彼女が笑う。


「でも、蓮くんが隣にいるなら大丈夫かも」


「……僕?」


「うん」


 あまりにも自然に言われて、返事に困った。


「……僕も、星野さんがいるなら大丈夫だと思う」


「……本当?」


「うん」


 彼女は少しだけ目を細めた。


「そっか」


 それだけだった。


 でも、その声は嬉しそうだった。


 ◇


 駅に着く。


 いつもの場所。


 いつもの別れ。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日、蓮くん」


 星野さんが人混みの中へ歩いていく。


 僕は、その後ろ姿を見送った。


 最近。


 この瞬間が少しだけ寂しい。


 前までは、そんなことを考えたこともなかったのに。


 彼女が見えなくなってから、僕は駅へ向かって歩き出した。


 ふと、思う。


 明日も学校へ行く。


 そして――


 星野さんに会う。


 ただ、それだけのことなのに。


 少しだけ楽しみだった。


 ◇


 その夜。


 机の上には、完成したワークシートが置かれていた。


 僕は最後のページを開く。


『相手について分かったこと』


 そこには、星野さんについて書いた言葉が並んでいる。


 好きな食べ物。


 好きな季節。


 笑顔になるもの。


 苦手なこと。


 そして――


 僕が知らない、まだたくさんのこと。


 紙の上に書けることは、これだけだった。


 それでも。


 僕は少しだけ笑った。


「……まだ、知らないことばかりだな」


 でも。


 それでいい気がした。


 全部を知る必要なんてない。


 少しずつ。


 時間をかけて。


 いつか知っていけばいい。


 僕はワークシートを閉じた。


 窓の外では、夏の夜風が静かに吹いている。


 明日も、きっと同じ一日になる。


 特別なことなんて、何も起こらない。


 それでも――


 僕は明日が来るのを、少しだけ楽しみにしていた。


 その理由を。


 この時の僕は、まだ知らなかった。

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