言葉にできないこと
放課後。
最後のチャイムが鳴ると、教室の中にいた生徒たちが一斉に動き始めた。
部活動へ向かう人。
友達と一緒に帰る人。
そして、進路学習の課題を続けるために残る人。
僕は鞄を肩に掛け、窓際へ視線を向けた。
星野さんも、ちょうどワークシートを鞄へしまっているところだった。
目が合う。
「……行く?」
「うん」
それだけで、僕たちは教室を出た。
もう、放課後に図書室へ向かうことに特別な理由を探す必要はなかった。
◇
図書室には、いつもの静けさが広がっていた。
昨日と同じ席に向かい合って座る。
机の中央にワークシートを置く。
残っている項目は、もうほとんどない。
「……あと少しだね」
星野さんが紙を眺めながら言った。
「うん」
僕も頷く。
でも。
なぜか、すぐにペンを持つ気にはなれなかった。
最後の欄。
『相手について分かったことを書きましょう』
昨日からずっと空白のままだ。
「……難しいな」
思わず呟く。
「そう?」
「うん」
僕はワークシートを見つめた。
「星野さんについて、前よりたくさん知ったと思う」
「好きな食べ物も」
「好きな季節も」
「苦手なことも」
「笑顔になる瞬間も」
そこまで言って、僕は少し考える。
「でも……」
「それだけじゃ、星野さんっていう人を説明できない気がする」
星野さんは黙って僕を見ていた。
「……どうして?」
「どうしてって……」
僕は少し困ってしまう。
「ただの感覚かな」
「例えば、好きな食べ物を知ってるからって、その人の全部を知ったことにはならないでしょ?」
「……確かに」
彼女は小さく頷いた。
「じゃあ」
星野さんがペンを置く。
「ワークシートに書かなくていいなら?」
「え?」
「蓮くんは、私のことをどんな人だと思ってる?」
突然の質問だった。
僕は少しだけ考える。
そして、彼女を見る。
「……優しい人」
「それは、前にも言われた気がする」
「じゃあ……」
言葉を探す。
「人のことをよく見てる人」
星野さんが少しだけ目を見開いた。
「小さなことでも気付くし」
「誰かが困ってたら、すぐに気付く」
「……そうかな?」
「うん」
僕は頷いた。
「それに……」
もう一つ、思いついた。
「笑顔が多い人」
星野さんは少しだけ笑った。
「それ、いいこと?」
「たぶん」
「でも……」
僕は彼女の顔を見る。
「無理して笑ってる時もある気がする」
言った瞬間。
彼女の表情がほんの少しだけ止まった。
「……そう見える?」
「うん」
「なんとなく」
それ以上は言わなかった。
星野さんも何も聞かなかった。
ただ、少しだけ視線を落として。
「……よく見てるんだね」
そう呟いた。
◇
「じゃあ、次は私の番」
「え?」
「蓮くんのこと」
彼女は僕を見ながら、少しだけ考える。
「蓮くんは……静かな人」
「それは自覚ある」
「でも、ただ静かなだけじゃない」
「……?」
「時々、遠くを見てるみたいな顔をする」
僕は何も言えなかった。
「それから……」
彼女は少しだけ笑う。
「思ってることが顔に出やすい」
「……そんなに?」
「うん」
「昨日もそうだったよ」
「恥ずかしいな……」
思わず顔を逸らす。
彼女が小さく笑った。
「でも、私は好きだよ」
「……そう?」
「うん」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
◇
しばらくして、僕はワークシートの最後の質問を見つめた。
『将来、どんな人になりたいですか?』
ペン先が止まる。
この質問だけは、何度見ても答えが浮かばない。
「……蓮くん?」
「うん?」
「どうしたの?」
「いや……」
僕は苦笑する。
「これ、まだ分からないんだ」
「将来のこと?」
「うん」
「やりたいこととか」
「なりたいものとか」
「考えたことはあるけど……これって思えるものは、まだない」
星野さんは少し考えてから、静かに笑った。
「それでもいいんじゃないかな」
「いいの?」
「うん」
「今すぐ決めなくても」
「探している途中でもいいと思う」
その言葉は、思ったよりも素直に胸へ入ってきた。
「……そっか」
「うん」
僕はワークシートを閉じた。
答えがないことが、少しだけ恥ずかしかった。
でも。
今は、それほど悪いことでもない気がした。
◇
帰る頃には、窓の外が夕焼け色に染まっていた。
図書室を出て、駅へ向かう。
今日も特別なことは何もなかった。
ただ話して。
笑って。
少しだけ、お互いのことを知った。
それだけだった。
駅に着く。
「また明日」
「うん。また明日、星野さん」
彼女が人混みの中へ消えていく。
僕はその背中を見送りながら、今日の会話を思い返していた。
ワークシートには、たくさんの答えが書かれている。
でも。
本当に大切なことほど、そこには書けないのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕も家へ向かった。
まだ知らないことは、たくさんある。
それでも――
急いで知る必要はない。
少しずつでいい。
そう思えた。




