紙には書けないこと
翌朝。
目を覚まして最初に目に入ったのは、机の上に置いたままのワークシートだった。
昨日、結局最後の欄は埋められなかった。
『相手について分かったこと』
ペンを持っても、何を書けばいいのか分からなかった。
好きな食べ物。
好きな季節。
苦手なこと。
笑顔になれるもの。
星野さんについて、前よりたくさん知ることができた。
それなのに。
一番大切な何かだけは、まだ見えてこない。
「……答えは、紙の上にはない。」
昨夜、自分で呟いた言葉を思い出す。
今も、その考えは変わらなかった。
ワークシートだけじゃ、人は分からない。
たぶん。
誰かを知るって、もっと時間がかかるものなんだ。
静かにワークシートを鞄へしまい、部屋を出る。
◇
いつもの電車に乗る。
窓際の席へ腰を下ろすと、流れていく景色が目に映った。
住宅街を抜け、小さな公園を過ぎ、朝日に照らされた川がゆっくりと流れている。
毎日同じ景色のはずなのに、不思議と飽きることはなかった。
ぼんやりと外を眺めながら、ふと昨日のことを思い出す。
図書室。
夕焼け。
駅まで歩いた帰り道。
星野さんの穏やかな笑顔。
思い返せば、特別なことは何もなかった。
それでも、心には静かに残っている。
そんな一日だった。
電車がゆっくりと駅へ滑り込む。
僕は小さく息を吐き、立ち上がった。
◇
教室へ入ると、いつもの窓際に星野さんの姿があった。
本を読んでいた彼女は、僕に気付くとそっと顔を上げる。
「おはよう、蓮くん。」
「……おはよう。」
自然に言葉を返す。
それだけなのに、不思議と少しだけ安心する。
星野さんは本を閉じ、小さく微笑んだ。
「昨日、よく眠れた?」
「うん。」
「星野さんは?」
「私も。」
短い会話。
それだけで十分だった。
以前の僕なら、きっと何を話せばいいのか分からなかっただろう。
でも今は違う。
何も話さない時間も、少しずつ心地よく感じられるようになっていた。
ホームルームまで、まだ少し時間がある。
教室には静かな朝の空気が流れていた。
窓から吹き込む風が、白いカーテンをゆっくり揺らしている。
星野さんは再び本を開き、静かにページをめくり始めた。
その姿を眺めていると、僕も鞄から文庫本を取り出す。
文字を追い始めても、内容はほとんど頭に入らなかった。
気付けば、本ではなく窓の外を見ている。
青く澄んだ空。
朝日に照らされた校庭。
運動部の掛け声が、遠くから微かに聞こえてくる。
何気ない朝。
何気ない景色。
だけど以前より、少しだけ違って見えた。
学校という場所が、少しずつ知らない場所ではなくなってきたからだろうか。
それとも――。
毎朝ここで「おはよう」と言ってくれる人がいるからだろうか。
自分でも、その答えは分からない。
◇
少しずつ教室に生徒たちが集まり始める。
椅子を引く音。
友達同士の笑い声。
廊下から聞こえる足音。
静かだった教室は、いつもの賑やかさを取り戻していく。
「昨日テレビ見た?」
「数学の宿題終わった?」
「今日、小テストあるらしいよ。」
そんな何気ない会話が飛び交う。
少し前までの僕なら、その輪を遠くから眺めているだけだった。
でも今は、その賑やかさをうるさいとは思わない。
教室という空間にも、少しずつ慣れてきている。
その変化は、とても小さい。
だけど確かに、昨日の僕とは違っていた。
◇
ホームルームが終わると、午前中の授業は静かに進んでいった。
休み時間になるたび、教室のあちこちでは進路学習の話が聞こえてくる。
「発表、緊張するな。」
「まだ全然まとめてない。」
「うちのペア、放課後また残る?」
僕も鞄の中のワークシートを思い出す。
残っている質問は、あと少し。
それなのに、不思議と焦る気持ちはなかった。
早く終わらせたいというより。
この時間がもう少し続けばいい。
そんなことを、ほんの少しだけ思ってしまった。
その理由を考えようとして――
「……蓮くん。」
静かな声に顔を上げる。
星野さんがこちらを見て、小さく微笑んでいた。
「今日も放課後、一緒に続きをしよう?」
僕は少しだけ笑って頷く。
「うん。」
「もちろん。」
その約束だけで。
今日という一日が、少しだけ楽しみになっていた。




