表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

紙には書けないこと

 翌朝。


 目を覚まして最初に目に入ったのは、机の上に置いたままのワークシートだった。


 昨日、結局最後の欄は埋められなかった。


『相手について分かったこと』


 ペンを持っても、何を書けばいいのか分からなかった。


 好きな食べ物。


 好きな季節。


 苦手なこと。


 笑顔になれるもの。


 星野さんについて、前よりたくさん知ることができた。


 それなのに。


 一番大切な何かだけは、まだ見えてこない。


「……答えは、紙の上にはない。」


 昨夜、自分で呟いた言葉を思い出す。


 今も、その考えは変わらなかった。


 ワークシートだけじゃ、人は分からない。


 たぶん。


 誰かを知るって、もっと時間がかかるものなんだ。


 静かにワークシートを鞄へしまい、部屋を出る。


 ◇


 いつもの電車に乗る。


 窓際の席へ腰を下ろすと、流れていく景色が目に映った。


 住宅街を抜け、小さな公園を過ぎ、朝日に照らされた川がゆっくりと流れている。


 毎日同じ景色のはずなのに、不思議と飽きることはなかった。


 ぼんやりと外を眺めながら、ふと昨日のことを思い出す。


 図書室。


 夕焼け。


 駅まで歩いた帰り道。


 星野さんの穏やかな笑顔。


 思い返せば、特別なことは何もなかった。


 それでも、心には静かに残っている。


 そんな一日だった。


 電車がゆっくりと駅へ滑り込む。


 僕は小さく息を吐き、立ち上がった。


 ◇


 教室へ入ると、いつもの窓際に星野さんの姿があった。


 本を読んでいた彼女は、僕に気付くとそっと顔を上げる。


「おはよう、蓮くん。」


「……おはよう。」


 自然に言葉を返す。


 それだけなのに、不思議と少しだけ安心する。


 星野さんは本を閉じ、小さく微笑んだ。


「昨日、よく眠れた?」


「うん。」


「星野さんは?」


「私も。」


 短い会話。


 それだけで十分だった。


 以前の僕なら、きっと何を話せばいいのか分からなかっただろう。


 でも今は違う。


 何も話さない時間も、少しずつ心地よく感じられるようになっていた。


 ホームルームまで、まだ少し時間がある。


 教室には静かな朝の空気が流れていた。


 窓から吹き込む風が、白いカーテンをゆっくり揺らしている。


 星野さんは再び本を開き、静かにページをめくり始めた。


 その姿を眺めていると、僕も鞄から文庫本を取り出す。


 文字を追い始めても、内容はほとんど頭に入らなかった。


 気付けば、本ではなく窓の外を見ている。


 青く澄んだ空。


 朝日に照らされた校庭。


 運動部の掛け声が、遠くから微かに聞こえてくる。


 何気ない朝。


 何気ない景色。


 だけど以前より、少しだけ違って見えた。


 学校という場所が、少しずつ知らない場所ではなくなってきたからだろうか。


 それとも――。


 毎朝ここで「おはよう」と言ってくれる人がいるからだろうか。


 自分でも、その答えは分からない。


 ◇


 少しずつ教室に生徒たちが集まり始める。


 椅子を引く音。


 友達同士の笑い声。


 廊下から聞こえる足音。


 静かだった教室は、いつもの賑やかさを取り戻していく。


「昨日テレビ見た?」


「数学の宿題終わった?」


「今日、小テストあるらしいよ。」


 そんな何気ない会話が飛び交う。


 少し前までの僕なら、その輪を遠くから眺めているだけだった。


 でも今は、その賑やかさをうるさいとは思わない。


 教室という空間にも、少しずつ慣れてきている。


 その変化は、とても小さい。


 だけど確かに、昨日の僕とは違っていた。


 ◇


 ホームルームが終わると、午前中の授業は静かに進んでいった。


 休み時間になるたび、教室のあちこちでは進路学習の話が聞こえてくる。


「発表、緊張するな。」


「まだ全然まとめてない。」


「うちのペア、放課後また残る?」


 僕も鞄の中のワークシートを思い出す。


 残っている質問は、あと少し。


 それなのに、不思議と焦る気持ちはなかった。


 早く終わらせたいというより。


 この時間がもう少し続けばいい。


 そんなことを、ほんの少しだけ思ってしまった。


 その理由を考えようとして――


「……蓮くん。」


 静かな声に顔を上げる。


 星野さんがこちらを見て、小さく微笑んでいた。


「今日も放課後、一緒に続きをしよう?」


 僕は少しだけ笑って頷く。


「うん。」


「もちろん。」


 その約束だけで。


 今日という一日が、少しだけ楽しみになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ