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黒い脈動が私の鎖骨を焼き、皮膚を這い回り、脳の奥深くまで侵食していく。
前世の記憶――青い空、石畳の匂い、母の笑顔、私という人間が生きてきた証のすべてが、まるで水に溶けた絵の具のように薄れ、消えかかっていた。
「私」という輪郭が消えれば、あとに残るのはヴァレリウスの愛するためだけに存在する、言葉を喋る精巧な人形だけだ。
私の記憶が、身体を支配しかけていた黒い呪縛にほんのわずかな亀裂を生み出した。
(嫌だ……! 私は……私は!!)
死に瀕した本能が、最後に残された力を爆発させた。
私は残された全神経を右腕に集中させると、私の鎖骨を撫でていたヴァレリウスの手首を、爪が食い込むほどの力で力任せに掴んだ。そして、彼の顔面に向け、がむしゃらに頭突きを叩きつけた。
ゴツン、と鈍い音が響く。
「なっ……!?」
思いもよらぬ抵抗に、ヴァレリウスが息を飲んで僅かに態勢を崩した。彼の掴みが緩んだその一瞬の隙を逃さず、私は彼の胸を力任せに押し飛ばし、ベッドから転がり落ちた。
「アウレリア……! 何をするんだい」
「近づかないで!!」
狂乱した私は、床に落ちていた重厚な銀の燭台を拾い上げ、ヴァレリウスの顔面に向かって全力で投げつけた。
燭台は彼の美しい頬を掠め、背後の壁に激突して甲高い音を立てた。ヴァレリウスの頬から一筋の黒い液体が滴り落ち、彼の瞳の中の無数の目玉が一斉に激怒の狂動を始めた。
「逃がさないと言ったはずだ……!」
部屋中の壁から、天井から、黒い影の触手が解き放たれ、ウジャウジャと私に向かって伸びてくる。
私は身を翻し、鍵がかかっていたはずの部屋の扉に身体ごとぶつかった。
ドシン!という衝撃とともに、歪んだ扉が蝶番ごと吹き飛ぶ。世界が崩壊しかけているせいか、物質の強度が曖昧になっていたのだ。
私は廊下へ飛び出した。
「誰か! 誰か助けて!!」
声の限り叫びながら、私は乱れたドレスの裾を破り捨て、裸足で廊下を疾走した。
だが、かつて美しかった公爵邸は、すでに完全な地獄へと変貌を遂げていた。
壁は蠢く赤黒い肉壁と化し、無数の人間の目玉が壁一面にびっしりと生まれ、走る私を凝視して嘲笑うように瞬きを繰り返している。床からは濡れた手足のような影が幾つも生えてきて、私の足首を掴もうとひたひたと追いかけてくる。
「ひっ……! 嫌……嫌ぁっ!」
足を止めたら終わる。掴まったら、二度と自分に戻れない。
私は冷たい影の手を振り払い、迫りくる黒い濁流のような気配から無我夢中で逃げ続けた。
屋敷の玄関ホールへ辿り着くと、そこには父やカミラ、そして邸内の従僕たちが立っていた。
だが、彼らは私を助けようとはしなかった。彼らは人形のように固まった笑顔を浮かべ、首を奇妙な角度に折り曲げながら、合唱するように同じ言葉を繰り返していた。
『ヴァレリウス様を受け入れなさい、アウレリア』
『完璧な世界へ行きなさい、アウレリア』
『愛されなさい、逃げられないのだから』
「退いて!!」
私は自分を阻もうとする父親の身体を突き飛ばした。父の身体はまるで軽石のように軽く、ガラガラと乾いた音を立てて壁際に転がった。血も流れない。中身すら存在しない、ただの「ハリボテ」だったのだ。
私は豪奢な観音開きの玄関扉を力任せに押し開き、外の世界へと飛び出した。
しかし、外の景色もまた絶望に満ちていた。
かつて花々が咲き乱れていた広大な庭園は消え去り、空はどす黒い紫色の雲で覆い尽くされていた。地面はぬかるんだ黒い泥の海と化し、異質な巨大な目玉が天からいくつも降ってきては、泥の中でぎょろりと私を見上げている。
「ハぁっ、ハぁっ、ハぁ……っ!」
足が泥に取られ、何度も転びそうになりながら、私はひたすら走り続けた。
背後からは、地鳴りのような音が追いかけてくる。
振り返ると、屋敷全体が巨大な黒い影の怪物へと姿を変え、無数の触手を伸ばしながら、私の後を追ってきていた。その巨大な影の中心には、白銀の髪をなびかせ、絶望的なまでに美しい笑みを浮かべたヴァレリウスが立っていた。
『無駄だよ、アウレリア! この世界の果てまで逃げても、世界そのものが私なのだから!』
地響きのようなヴァレリウスの声が、空間全体を揺らす。
私は夢中で森の方角へ向かって走った。
だが、目の前の森の木々はすべて黒く枯れ果て、葉を失った枝が骨のように尖って空を突いていた。
道など存在しない。ぬかるむ泥と、素足を切り裂く枯れ枝の痛みに耐えながら、死に物狂いで突き進む。
どこへ行けばいいのかも分からない。どこへ逃げても彼の掌の上なのだ。
それでも、彼の人形になることだけは、絶対に嫌だった。
走って、走って、走り続けて――不意に、視界が開けた。
「……あ……」
足が空を切った。
慌てて踏み止まった私の目の前に広がっていたのは、底も見えないほどの漆黒の狂気に満ちた、断崖絶壁だった。
行き止まり。
前は果てしない虚無の崖。
背後からは、森の枯れ木をなぎ倒しながら、ヴァレリウスという名の世界そのものである黒い影の濁流が迫ってくる。
『追い詰めたよ、アウレリア』
枯れ木の隙間から、ヴァレリウスが姿を現した。
彼の身体からは無数の影が伸び、周囲の空間を完全に塞いでいく。逃げ道はどこにもない。彼の影がゆっくりと私を取り囲み、逃げ場を失わせる。
「さあ、手を取って。私と一緒に、永遠の愛へ戻ろう。もう痛い思いも、苦しい思いもさせないから……」
ヴァレリウスが優しく、甘く、手を差し伸べてくる。
彼のアメジストの瞳には、狂おしいほどの愛着と、決して私を逃がさないという絶対的な支配の意思が宿っていた。
彼の影の触手が、私の足元にまで這い寄ってきた。冷たい感触が素足に触れる。
この手を取れば、楽になれるのかもしれない。絶望的な恐怖も、侵食される痛みも消え、ただ彼を愛するだけの幸せな人形になれるのかもしれない。
けれど。
私は自分の胸元を強く握りしめた。
そこには、私という人間が誇りを持って生きてきた証がある。
誰かのシナリオ通りに生かされ、誰かの狂気のために自分を殺すなんて、そんなものは「生きている」とは言わない。
「いや……!」
私はヴァレリウスを睨みつけた。
「私はあなたの飾りじゃない! あなたの思い通りには……絶対にならない!!」
ヴァレリウスの顔から笑みが消え、驚愕と狼狽が浮かんだ。
彼が影の腕を全力で伸ばして伸ばして私を掴もうとした、まさにその瞬間。
私は背後の虚無に向かって、自ら身体を傾けた。
彼の伸びた影の指先が、私のドレスの端をかすめる。
しかし、届かなかった。
私の身体はふわリと浮き上がり、重力に従って、漆黒の崖下へと落ちていった。
風を切る凄まじい音が耳を刺す。上を見上げると、私を見下ろすヴァレリウスの顔と、何千という狂った瞳が、だんだんと小さくなっていくのが見えた。
落ちていく。
暗闇へ。
私という人間を守り抜いた、確かな満足感とともに。
視界が完全な黒に染まり、私の意識は途切れた。
◈◈◈
……ゴボ……ゴボボっ……!
鼻と口から、強烈な不快感を伴う異物が侵入してきた。
(……ゲホッ! ガハッ……!?)
猛烈な窒息感と吐き気で、私は意識を引き戻された。
暗闇だ。目が開かない。全身が、重く、ドロドロとした粘着質な「何か」の中に埋もれていた。
冷たくて、生温くて、腐敗臭と油の混ざったような得体の知れない「へどろ」。
それが私の上身に圧し掛かり、肺の中にまで入り込もうとしていた。
(息が……できない……! 出なきゃ……息を……!)
死にたくない。ここまで逃げ延びておいて、こんな場所で溺れ死ぬなんて嫌だ。
私は泥水の中で必死に手足をバタつかせた。重いへどろを掻き分け、上へ、上へと這いあがろうと指を突き立てる。
ズル……ズズ……。
爪に、硬くてざらざらした感触が触れた。
木の皮……?
私はその感触を頼りに、必死で全身の力を振り絞った。足をへどろの底に踏みつけ、身体を押し上げる。
へどろの膜を破り、顔が外の空気に躍り出た。
「ガハッ……! ハっ、ヒューっ……! ゲホッ、ゴホッ!」
私は激しく咳き込み、口の中の泥を吐き出した。
まだ狭く、暗い空間だった。私は湿った壁のようなものを必死に拳で殴り、足で蹴りつけた。
バリッ! バリバリバキッ!!
脆くなっていた木肌が悲鳴を上げ、亀裂が入る。そこから一筋の光が差し込んできた。
私は傷だらけの手でその亀裂を広げ、力任せに破壊して外へと這い出た。




