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「おお、なんという素晴らしい婚約者だろう! アウレリア、ヴァレリウス殿の愛に応え、早く元気になるのだぞ」
「お父様!? 聞いて! 私の話を聞いてよ! ヴァレリウスの背後を見て! 目玉が、影が……!」
私が叫びながら父の顔を見上げると――私は息を呑んだ。
公爵の目の中に、光がなかった。
精巧に作られた蝋人形のように、瞳孔が収縮せず、焦点の合わないガラス玉のような目が私を見つめている。
そして、彼の首の後ろから、ヴァレリウスの影から伸びた黒い糸が何本も頭蓋骨へと突き刺さり、彼の表情や言葉を「操り人形」のように制御しているのが見えた。
「では、私は仕事に戻るよ。ヴァレリウス殿、娘を頼んだよ」
公爵は機械的な動作で旋回し、ぎこちない足取りで部屋を出て行った。
重い扉が再び閉まる。
「ね? 言っただろう」
ヴァレリウスがクスリと笑った。
「彼らはただの背景だ。君を彩り、君を楽しませ、君を私のもとへ導くためだけに配置された人形に過ぎない。心も、自由意思も、最初から存在しないんだよ。この世界で本当の意味で『存在』しているのは、君と、私の二人だけだ」
絶望という言葉すら、生ぬるかった。
私が18年間愛してきた両親も、温かい思い出も、親しいメイドのカミラも、幼馴染のジュリアンも……すべては私を騙すために誂えられた、精巧な作り物に過ぎなかったのだ。
私が「幸福な人生」を満喫している影で、世界そのものが私を捕らえるための檻として機能していた。
「どうして……」
涙が溢れ出し、私の頬を伝って落ちた。
「どうして私なの……? 私は、ただの普通の人間だった……なぜ私にこんな恐ろしいことをするの……!」
「普通? ふふ、君は自分がどれほど魅力的か分かっていないんだね」
ヴァレリウスはベッドに浅く腰掛け、私の体を引き寄せて強く抱きしめた。
彼の体温は氷のように冷たく、私の体温を急速に奪っていく。
首元のアメジストの指輪とサファイアのネックレスが接触し、カチリと不気味な高音を奏でた。
「君のその魂。この退屈な地上の中で、唯一『異物』として輝いていた特別な輝き。私はそれを遠い次元の隙間から見つけ出し、恋に落ちたんだ。君を手に入れるためなら、世界を一つ創造することなんて、息をするよりも簡単なことだった」
彼の言葉に従うように、部屋の様子が変貌し始めた。
壁紙の淡いブルーのシルクが、まるで腐敗するように黒く変色し、メリメリと音を立てて剥がれ落ちていく。
床のペルシャ絨毯は湿った黒い土へと姿を変え、そこから見たこともないような細長い、不気味な菌類のような植物がニョキニョキと生えてきた。
天井の豪奢なシャンデリアは落とされ、代わりに天井一面に無数の肉厚な「瞳」がびっしりと生まれ、私を見下ろして瞬きを繰り返している。
部屋が、世界が、彼の「巣」へと作り変えられていく。
「いや……嫌……!寄らないで……触らないで……!」
私は必死に腕を伸ばし、彼を押し返そうとした。
しかし、私の細い腕の力など、彼にとっては赤ん坊の抵抗にすらならなかった。
彼の手が私の背中に回り、藤色のドレスの紐を優しく、だが確実にほどいていく。
「恐怖しているだね、アウレリア。その瞳に私だけを映し、私のためだけに怯え、私のためだけに涙を流している。……ああ、美しい。これが私の望んでいた『愛』だよ」
「狂ってる……あなた、狂ってるわ……!」
「狂っているのは世界の方さ。君を私から遠ざけようとするすべての理が狂っているんだ」
ヴァレリウスの顔が近づく。
彼のアメジストの瞳が裂け、その奥から無数の小さな目玉が蠢いているのが見えた。
彼が私に口付けをしようと顔を寄せた、その瞬間。
『——アウレリア——』
脳裏に、ヴァレリウスの声ではない、全く別の「声」がひそやかに響いた。
それは無機質で、けれどどこか懐かしい……前世の記憶の奥底に眠っていた「何か」の音だった。
私は思わず目を見開いた。
視界の端に、ヴァレリウスの異形の世界とは全く異なる、緑色の別世界が一瞬だけ走ったのだ。
「アウレリア?」
ヴァレリウスが不快そうに眉をひそめた。彼もまた、今の一瞬の不協和音を感じ取ったようだった。彼の背後の影が一斉に逆立ち、部屋の空気が威嚇するように張りつめる。
「今……何かが……」
「気にすることはないよ。ただの小さな障害だ。すぐに消去する」
ヴァレリウスは冷酷な声で吐き捨てると、私の首元のサファイアを強く握りしめた。
その瞬間、激しい激痛が私の全身を駆け巡った!
「ああっ……! あぁぁぁぁぁっ!?」
熱い。体が内側から燃えるように熱い。
サファイアから黒い液体の模様が噴き出し、私の皮膚を伝って、首筋から胸元、そして腕へと血管のように広がり始めた。
刺青のように肌に刻まれる黒い脈動。
それが広がるたびに、私の「前世の記憶」や「私自身」という感覚が、ぬるま湯の中に溶けていくような不気味な感覚が私を襲った。
「大丈夫だよ、アウレリア。苦しいのは最初だけだ」
ヴァレリウスは狂気的なまでの慈愛を湛えた瞳で、痛みに悶絶する私を見つめている。
「この黒い痕が君の全身を覆い尽くした時、君は二度と余計な『前世』の記憶に惑わされることはなくなる。私の作った美しい世界で、ただ私だけを愛する、完璧な私のお姫様になれるんだ」
「嫌……嫌よ……私は……私はアウレリアで……私、は……!」
自分の名前すら、記憶すら、この不気味な黒い脈動に塗りつぶされていく。
思考がまとまらない。前世の自然の風景、石造りの街並み、本当の家族の顔、それらが無理やり削り取られるように消えていく。
消えてしまう。私が、私でなくなってしまう。
ヴァレリウスの望む「完璧な人形」に書き換えられてしまう!
「さあ、私を受け入れて。私の愛しい、アウレリア」
ヴァレリウスの指が、私の黒く染まりかけた鎖骨をやさしく撫でる。
天井の無数の瞳が、壁の影が、足元の湿った土が、一斉に歓喜の叫びを上げた。
見られている。見られている。見られている。
世界中のすべての視線が私を押し潰し、私という存在を彼の形へと作り変えていく。
(嫌……誰か……誰か助けて……!)
声にならない悲鳴が、闇の中に消えていく。
私は薄れゆく意識の中で、必死に自分の手を伸ばした。
だが、その手に触れたのは、温かな人間の手ではなく、冷たく湿ったヴァレリウスの黒い影だけだった。
(……あ………………)
意識が、完全な黒へと落ちていく。
じわじわと、けれど確実に、私は彼という名の狂気に呑み込ま滅んでいく。




