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身体の感覚が、ゆっくりと泥の中に沈んでいくようだった。
ヴァレリウスの腕に抱き上げられた瞬間、私を包み込んだのは、香水のようなシトラスと白檀の香り……そして、その奥から仄見える、腐敗した甘い果実と湿った土の匂いだった。
彼が歩を進めるたび、公爵邸の廊下が微かに軋み、廊下に並ぶ大理石の彫像や肖像画たちが、まるで彼の通過を恐れるようにわずかに角度を変えたような気がした。
「重くはないかい、アウレリア? 君は少し痩せたね。もっと私に甘えて、たくさん食べてくれないと困るよ」
私の耳元で囁かれる言葉は、どこまでも過保護で、どこまでも優しい。
私を抱く腕の力加減は寸分の狂いもなく完璧で、まるでガラスの細工物を扱うかのような丁寧さだ。
だが、私には分かっていた。私の腰を支える彼の指先から、黒い触手のような影が服の布地を透過し、私の皮膚に直接吸い付いていることを。冷たく、湿った粘膜のような感触が、ドレスの下で私の太ももや脇腹を這い回っている。
「……離して……お願いだから、離して……」
蚊の泣くような掠れた声で拒絶を口にしても、彼はただ愛おしそうに目を細めるだけだった。
「何を言っているんだい。君は病気なんだ。こんなに震えているじゃないか。大丈夫、私がずっとそばにいてあげるからね」
廊下をすれ違うメイドや従僕たちは、皆一様に深く頭を下げ、私たちの進行を邪魔しないように壁際へ退いた。
彼らの顔には「体調を崩された公爵令嬢を、心から案じてかいがいしく世話をする理想的な婚約者」に対する、感嘆と敬意の笑みが浮かんでいる。
誰も見えていない。
ヴァレリウスの背後からぞろぞろと溢れ出し、廊下の天井や壁を真っ黒く染め上げている無数の影の触手も、その表面でぎょろぎょろと回転する無数の肉感的な瞳も。
従僕の一人が、ヴァレリウスの影の触手に足を踏みつけられていたが、痛がる素振りすら見せず、ただ空虚な笑みを浮かべて頭を下げ続けていた。
この屋敷全体が、いや、この街が、この王国全体が、すでに「彼」の認知の網に囚われているのだ。
私だけが余計な記憶を持って生まれてしまったせいで、その狂気網の隙間から「本当の姿」を覗き込んでしまっている。
自室の扉が開かれ、私は天蓋付きのベッドの上へとそっと降ろされた。
部屋に入ると同時に、ヴァレリウスはパタンと扉を閉め、鍵をかけた。カチャリ、という静かな金属音が、私の死刑宣告のように部屋に響きわたる。
「さて……少し静かに話そうか」
ヴァレリウスはジャケットのボタンを一つ外し、ベッドの脇に置かれた革張りの椅子を引き寄せて座った。
彼は脚を組み、顎の上に手を乗せて、どこまでも美しく、そしてどこまでも不気味な笑みを私に向けた。
「アウレリア。ジュリアンには『病気だ』と言っておいたけれど……君はもう、気付いているんだろう?」
――ゾク、と背筋に電流が走った。
「な……何を……」
「とぼけなくていいんだよ、私の愛しい人」
ヴァレリウスは嬉しそうにアメジストの瞳を輝かせ、ゆっくりと身を乗り出してきた。彼の顔が接近するにつれ、彼の背後に広がる影が膨れ上がり、部屋の天井を覆い尽くしていく。
蝋燭の光が遮られ、部屋の中が不自然な群青色の闇へと落ちていく。
「君だけが、私を見ている。……ああ、なんて素晴らしいことだろう! この世界の誰もが私を『クラウディウス侯爵家の優秀な跡取り』としてしか認識できない中で、君だけが私の真の姿に気づき、私に恐怖し、私だけに心を奪われている!」
彼は心底幸せそうに溜息をつき、私の頬にそっと手を添えた。
その指先は氷のように冷たく、けれど接触した部分から焼けるような熱が皮膚の奥へと伝わっていく。
「き、気付いていたの……? 私が、あなたのその……化け物のような姿を……見ていることに……」
「化け物?」
ヴァレリウスは首を傾げた。その動作に合わせて、彼の首筋の皮膚がびちびちと不気味な音を立てて波打ち、皮膚の下から一瞬だけ無数の青い目玉が浮かび上がっては消えた。
「失礼だなあ。これが私の本質なのだから仕方がないだろう? 私はこの世界の理そのものであり、君という存在を定義するための器なのだから」
「世界……の、理……?」
「君は不思議に思わなかったかい? なぜ自分が前世の記憶を持ったまま、こんなに都合よく公爵家の令嬢として生まれ変わったのか。なぜ幼少期から何不自由なく育てられ、私という完璧な婚約者を与えられたのか」
ヴァレリウスの言葉が、私の頭の中に固まっていた疑惑の氷を、少しずつ溶かしていく。
そうだ。ずっと違和感があった。
前世の私は、至って普通の平凡な魔導学生だった。特別な事故に遭った記憶もなく、ただ眠るように意識を失い、気付けばこのラウレンティウス公爵家の赤ん坊になっていた。
親の愛情、豊かな財産、天与の美貌、そして完璧な婚約者。
あまりにも出来過ぎた「物語」のような人生。
「君がこの世界に生まれてきたのではないんだよ、アウレリア」
ヴァレリウスの細い指が、私の下唇を優しくなぞる。
「君という魂を招き寄せるために、私がこの世界を『作った』んだ。君の前世の記憶、君の好む人生、君が望む恋、君が恐怖する怪異……そのすべてを混ぜ合わせ、君のためだけに用意した箱庭。それがこのルキフェリア王国なんだよ」
「……っ!? な、何を言っているの……! そんなの、あり得ない……!」
「嘘だと思うかい? なら、試してみるといい」
ヴァレリウスがパチンと指を鳴らした。
直後、部屋の扉がノックされ、返事も待たずに扉が開いた。
入ってきたのは、私の父であるラウレンティウス公爵だった。威厳ある黄金の髭を蓄え、いつも私を温かく見守ってくれる優しい父親。
「アウレリア! 体の調子はどうだね!?」
公爵は心配そうにベッドへ駆け寄ってきた。
私はすがるような思いで、父の腕に抱きついた。
「お父様! 助けて! ヴァレリウス様が……ヴァレリウス様が恐ろしい化け物なの! 私を閉じ込めようとしているの! お父様、お願いだから私を助けて!」
必死の叫び。血を吐くような訴え。
しかし、公爵の顔に浮かんだのは、深い同情と悲しみ、そして……完全に固定された「笑顔」だった。
「ああ、可哀想に……相当うなされているのだな、アウレリア。ヴァレリウス殿、娘がいつも迷惑をかけて申し訳ない。こんなにも親身になって看病してくださるとは、ラウレンティウス家として感謝の言葉もない」
「滅相もございません、公爵閣下。アウレリアは私の命よりも大切な存在です。彼女が健やかな笑顔を取り戻すまで、私が責任を持って寄り添いますよ」




