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数十秒の沈黙の後。
ジュリアンは単眼鏡を外し、不可解そうに首をひねった。
「……おかしいな」
「何が……何が分かったのですか、ジュリアン様!?」
「いや、アウレリア。驚かないで聞いてほしい」
彼の手が、私の震える手にそっと重ねられた。その温もりに一瞬救われそうになったが、続く彼の言葉が、私をさらなる絶望の深淵へと突き落とした。
「このネックレスには、何の魔力も込められていない。……ただの、極めて上質なサファイアだ」
「え……?」
「留め具も正常だし、魔法的な呪印や仕掛けの類は一切存在しない。それに、君の首筋の皮膚も……とても綺麗なものだよ。傷一つないし、鎖が一体化しているような跡も一切見られない」
「そんな……! 嘘です! カミラも見たのです! 皮膚が引き伸ばされて、赤紫色の斑点が……!」
「カミラが? ……アウレリア、落ち着くんだ。カミラは今朝、君がひどくうなされて倒れたと言って、泣きながら私のところへ助けを求めに来たんだよ。彼女は『お嬢様が急に誰もいない鏡に向かって叫び出し、ご自身で首を掻きむしり始めた』と言っていた」
「……な……に……?」
頭の中が、真っ白になった。
カミラが? 私が自分で首を掻きむしっていた?
じゃあ、あの鏡の前でのやり取りは? カミラが鎖を引っ張った感触は? あの赤紫色の内出血は?
「君は、ひどく疲れているんだ、アウレリア」
ジュリアンの声が、まるで遠くの水底から聞こえてくるように響く。
「前世の記憶……というのかな。君が幼い頃に私に教えてくれた、あの異界の記憶。現実とあちらの世界の境界が、君の精神的ストレスによって記憶が曖昧になっているのかもしれない。存在しない『視線』を作り出し、自分で自分を傷つけてしまっているんだ」
「違う……違うわ、ジュリアン様! 私は狂ってなんていない! 本当に見られているの! 今だって……今だって、この図書室の闇の中から、無数の目が私を……!」
「アウレリア!」
ジュリアンが私の両肩を強い力で掴んだ。
「私を見なさい。ここには私と君しかいない。魔法の反応もない。私の目を信じられないのかい?」
ジュリアンの真摯な翡翠色の瞳が、まっすぐに私を捉えていた。
その瞳には、私への深い憂慮と、幼馴染としての確かな情愛が宿っていた。
彼が嘘をついているようには見えない。彼は本気で私の身を案じ、医学的・魔導学的な事実を述べているのだ。
ならば――狂っているのは、私なのか?
あの恐ろしい視線も、首の痛みも、肌にへばりつく粘着質な気配も、すべて私が作り出した幻覚なのか?
「……私……は……」
言葉が続かない。
自分が正気であると証明する術を、私は持っていなかった。
もし、私以外の人間全員に「それ」が見えず、聞こえず、感じられないのだとしたら。この世界において「狂っている」のは、間違いなく私の方なのだから。
「さあ、部屋へ戻って休もう。ヴァレリウスにも私から伝えておく。しばらくは静養が必要だと……」
ジュリアンが優しく私を立たせようとした、その時だった。
――ズズ……ズズズ…………。
耳障りな、不快な音が図書室の奥から響いた。
それは、重い湿った肉塊が、古い床板を擦りながら這いずり回るような音だった。
「……ッ!?」
私は息を飲んで音のする方を振り返った。
高い本棚と本棚の間の、濃密な陰影。
そこに、「何か」がいた。
それは人間ではなかった。
影そのものが立体的な質量を持ったかのように蠢き、その蠢く黒体の中に、無数の――何百、何千という「人間の人間の瞳」が、ランダムに開いては瞬きを繰り返していた。
青、茶、緑、赤、濁った灰色。あらゆる色の目玉が、ぎょろぎょろと不規則に回転し、そのすべてがまっすぐに私だけを射抜いている。
『ア……ウ……レ……リ……ア……』
声にならない声が、直接脳内に響いた。
脳みそを泥水で洗われるような、強烈な悪感。
「ジュ、ジュリアン様……! あそこ! 本棚の影に何か……! 目玉が、目玉がたくさん……!」
私はジュリアンの腕にしがみつき、必死に指をさした。
「何もないよ……ただの本棚の影だ」
ジュリアンは戸惑ったようにそこを見つめたが、その表情には何の恐怖も浮かんでいなかった。
見えていない。
彼の目には、あの蠢く無数の目玉も、黒い肉塊も、まったく映っていないのだ!
「ああ……ああああ……っ!」
その時、衝撃的なことが起きた。
影の中から、すっと一本の「手」が伸びてきたのだ。
影でできたような黒い手。だが、その手首には――見覚えのある、王立騎士団の深い藍色の袖口と、ゴールドのボタンがついていた。
そして、影の中からぬっと姿を現したのは。
「……やあ、アウレリア。ジュリアン。こんなところで何をしているんだい?」
眩いばかりの白銀の髪。透き通ったアメジストの瞳。
完璧な美貌を誇る私の婚約者、ヴァレリウス・クラウディウスだった。
彼は爽やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
だが、私の目には見えていた。
彼の背後に伸びる長い影の中に、びっしりと敷き詰められた無数の目玉が、ヴァレリウスの動きに合わせてぎょろぎょろと蠢いているのが。
ヴァレリウスが歩くたび、その足元から黒い影の触手が伸び、図書室の壁を、本棚を、そして私を取り囲むように広がり、世界全体を塗りつぶしていくのが。
「ヴァレリウス……君か。アウレリアの体調が心配で来たのだが、少々錯乱しているようだ。早く自室で休ませた方がいい」
ジュリアンが静かに言った。彼はヴァレリウスの背後の異変に、まったく気づいていない。
「そうか……アウレリア、可哀想に。怖かったろう?」
ヴァレリウスは私のもとへ歩み寄ると、ジュリアンから私を奪い取るように抱き寄せた。
彼の温かい腕が、私の背中に回る。
その瞬間、私の耳元で、彼のアメジストの瞳が怪しく光り――彼自身の声と、脳内に響くあの異形の声が、完全に重なった。
「大丈夫だよ、私の愛しいアウレリア。誰も君を害しはしない。……私が、ずっと君を見守っているのだから」
(ああ……)
私は悟った。
狂っていたのは、私の頭ではなかった。
この世界そのものが、最初から狂っていたのだ。
ヴァレリウスの愛情。彼が私に向ける、完璧で、完璧すぎて隙のない、歪んだ執着。
それが物理的な「質量」を持ち、怪異となって私を蝕んでいたのではない。
ヴァレリウスという存在そのものが、この異形そのものなのだ。
そして恐ろしいことに、この世界の住民たちは――ジュリアンも、カミラも、両親も――その「異常」を異常として認識できないように、世界そのものに不可視の呪いをかけられている。
私だけが。
異界の記憶を持ち、異物としてこの世界に混入してしまった私だけが、彼の「本当の姿」と「本性の視線」を見ることができてしまうのだ。
「さあ、部屋へ戻ろう。私と一緒に……永遠にね」
ヴァレリウスは優しく私を抱き上げ、光の届かない闇の奥へと足を踏み出した。
ジュリアンはそれに気づかず、「頼んだよ、ヴァレリウス」と爽やかに手を振っている。
彼の背後の影の中で、何千もの目玉が、歓喜に震えながら一斉に瞬きをした。
私はもう、叫ぶことすらできなかった。
逃げ場など、最初からどこにも存在しなかったのだから。




