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一睡もできぬまま迎えた朝は、薄汚れ、濁った灰色をしていた。
幾重ものカーテンを重々しく閉ざした寝室の隅で、私は膝を抱えたまま、ゆっくりと明けていく夜を見つめていた。
肌にへばりつく湿り気は、夜通し流し続けた冷や汗の残滓だ。喉は干からび、唇は割れ、まぶたの裏には熱い砂でも詰め込まれたかのような痛みが走っている。
それでも、目を開けていなければならなかった。目を閉じれば、暗闇の向こうからあの膨大な「視線」が一斉に私に襲いかかり、私の意識の柔らかい部分を食い荒らしてしまうような気がしたからだ。
「……ハぁ……っ、ハぁ……」
浅く荒い呼吸を繰り返しながら、私は自分の胸元へと視線を落とした。
青く、冷ややかに光るサファイアのネックレス。
昨夜、どれほど爪を立てて引きちぎろうとしても外れなかったそれは、今やまるで最初からそこにあったかのように、私の鎖骨の上のくぼみにしっくりと収まっていた。触れると、心臓の鼓動とはわずかに異なる、規則正しく微小な「脈動」が指先に伝わってくるような気がして、吐き気が込み上げる。
『コンコン』
規則正しいノックの音が響いた。
身をすくませる私を置いて、重い扉がゆっくりと開く。
「お嬢様、おはようございます。……まあ、お嬢様!? そのようなところで、一体何をなさっているのですか!」
入ってきたカミラの手にあった銀のトレイが、ガタリと小さな音を立てた。彼女は慌てた様子でトレイを近くのテーブルに置くと、裾を翻して私のもとへと駆け寄ってきた。
「お顔色が真っ白ですわ! それに、そんな冷たい床に直に座り込んでおられるなんて……お体がお冷えになってしまいます!」
「カミラ……?」
「はい、カミラでございます。さあ、お立ちになって。ベッドへお戻りくださいな。すぐにお医者様を……」
「いいえ、お医者様は要らないわ」
私は彼女の手を借りて擦り切れた体を引き起こし、重い足取りでアンティークの姿見の前へと移動した。
鏡の中に映る自分の姿に、私は思わず息を呑む。
鏡の中のラウレンティウス公爵令嬢は、死人のような顔色をしていた。濡れたように肌にへばりつく藤色のネグリジェ、乱れた金糸の髪、そして落ちくぼんだ目元に浮かぶ濃い隈。
しかし、何よりも不気味だったのは、胸元で異様なほどの存在感を放つサファイアだった。
「ねえ、カミラ。このネックレス……外してくれるかしら。留め具がうまく外れないの」
「まあ、ヴァレリウス様からいただいた大切な贈り物ですのに? ……かしこまりました。少々お待ちくださいね」
カミラが私の背後に回り、手慣れた手つきで私の首元に細い指を伸ばした。
鏡越しにその様子を見つめる。
カミラの指先が銀の鎖に触れ、カチリと小さな金属音が鳴った。
「あれ……? おかしいですね」
「……外れないの?」
「いえ、留め具は正しく外れているのですが……何でしょうか、これ。まるでお首の皮膚に吸い付いているようで……」
カミラの言葉に、心臓が跳ね上がった。
カミラは怪訝そうな顔をしながら、少し強めの力でチェーンを引っ張った。
痛い。
「痛っ……!」
「申し訳ございません! でも、おかしいですわ。鎖が……まるで、お嬢様のお肌と一体化しているみたいに……」
鏡の中の私は、悲鳴を上げそうになる口を必死に両手で押さえた。
カミラの指が鎖を引っ張るたび、私の首筋の皮膚が引き伸ばされ、そこからじわりと赤紫色の内出血のような斑点が浮かび上がってくる。
鎖が肌に刺さっているのではない。まるで、私の肉体がその銀の金属を「受け入れ」、内側から絡み取っているかのように。
「も、もういいわ! もういいの、カミラ! 触らないで!」
「お、お嬢様……?」
私が叫ぶと、カミラは弾かれたように手を離し、怯えたように数歩後退った。
私は鏡の中の自分を睨みつけた。
鏡の中のアウレリア。私と同じ顔をし、私と同じ恐怖に怯えているはずの、ガラスの向こうの私。
――その鏡の中の「私」の瞳が。
ほんの瞬きほどの僅かな時間。私が頭を動かしたにもかかわらず、鏡の中の瞳だけが動かず、じっとこちらの「実体」である私を観察するように留まっていた。
「ひっ……!」
私は後ずさりし、背後のテーブルに腰をぶつけた。銀のティーポットが倒れ、甘い香りの紅茶が絨毯に黒い染みを作っていく。
「お嬢様! どうなさったのですか!?」
「鏡……! カミラ、鏡を……! 布をかけなさい! 早く!」
「は、はい! ただちに!」
私の取り乱しようにただ事ではないものを感じたカミラは、ベッドから分厚いシーツを引っぺがすと、すぐさま大きな姿見の上から被せた。
鏡が遮断され、部屋の中に残されたのは、私とカミラの荒い息遣いだけになった。
「お嬢様……一体、何が起きているのですか? 私、怖いですわ……」
震える声で尋ねるカミラ。しかし、私は彼女に真実を伝えることができなかった。伝えたところで、彼女に何ができるというのだろう。ただ私を精神の病だと疑い、部屋に閉じ込めるのが関の山だ。
前世の知識がある私だからこそわかる。これは、単なる病気や気のせいなどという生ぬるいものではない。
この世界に存在する「何か」が、私という存在を根底から侵食し始めて居るのだ。
午前中、私は体調不良を理由にすべてのレッスンをキャンセルし、公爵邸の地下にある図書室へと潜り込んだ。
ラウレンティウス家の図書室は、並の大学の図書館を上回る規模を誇る。何千本もの革装本の匂い、ほこりと古い紙の匂いが充満するこの空間は、普段の私にとって最も心が安らぐ場所だった。
だが今の私にとっては、そびえ立つ巨大な本棚の隙間すべてが、私を覗き込む「何か」の隠れ場所に見えた。
「……呪い、監禁魔法、精神侵食、あるいは古代の魔導具……」
私は背の高い梯子に登り、古びた魔導書や史書を片っ端から引き抜いては、テーブルの上に積み上げていった。
誰かに見られているという圧倒的な体感。
現実に干渉し始める異常現象。
そして、身につけた者から離れない「意思」を持った装飾品。
頁を繰る指がガタガタと震える。
『監視の瞳』という古代の黒魔法についての記述を見つけたとき、私の心臓は一瞬跳ね上がった。しかし、そこに書かれている効果は「術者が水晶球を通じて対象の位置と周囲の音を察知する」という程度のものだった。
私の感じている、この皮膚を直に撫で回されるような生々しい感触や、空間そのものが私を愛撫するかのような気味の悪い「質量」の説明には程遠い。
「ここにも、ない……これも違う……!」
バサリ、バサリと本を閉じる音が、誰もいない地下図書室に虚しく響く。
「アウレリア? そんなところで何をしているんだい?」
静寂を破って掛けられた声に、私は悲鳴を上げそうになって跳び上がった。
本棚の影から姿を現したのは、美しい白銀の髪をなびかせた青年――私の兄の友人であり、王立魔導学院で最若手の教授を務めるジュリアン・ヴァルデンだった。
知的な金縁の眼鏡の奥から、優しい翡翠色の瞳が私を見つめている。彼の肩には、魔導士特有の深い緑色のローブが羽織られていた。
「ジュリアン様……どうしてこちらに?」
「ヴァレリウスから話を聞いたんだ。『アウレリアの様子がおかしい。何か重い病に侵されているのではないか』と、今朝早くに私の屋敷まで飛んできてね。心配になって様子を見に来たのだが……なるほど、病人には見えないが、かなり追いつめられている顔だ」
ジュリアンは私の前に歩み寄ると、テーブルの上に積み上げられた不穏なタイトルの本たちに視線を落とした。彼は眉をひそめ、細い指先で『王国暗黒史:禁術と呪詛』の表紙をなぞった。
「呪術の調査……? アウレリア、君は一体何に怯えているんだ?」
私は迷った。
ジュリアンは王国でも指折りの魔導の権威だ。魔法理論に通じ、あらゆる怪異や古の知識に精通している。彼ならば、私の身に起きていることを理解してくれるかもしれない。
「ジュリアン様……あの、信じていただけますか?」
「私と君の仲だろう? 幼い頃から君を見てきたんだ。君が妄想で騒ぎ立てるような娘ではないことくらい、よく知っているよ。話しなさい」
ジュリアンは穏やかに微笑み、私の隣の椅子を引き寄せて座った。
私は意を決し、ここ一ヶ月ほど私を苦しめている「視線」のこと、昨夜の部屋の異常な空気、そして鏡の中の違和感について、声をひそめて打ち明けた。
そして最後に、首元のサファイアを見せた。
「このネックレス……ヴァレリウス様からいただいたのですが、どうしても外れないのです。まるで、私の肌に根を張っているみたいで……カミラもそれを見て驚いていました」
ジュリアンは私の話を黙って聞いていた。その美しい顔立ちから笑みが消え、学問的な真剣さが宿っていく。
「ふむ……興味深いな。見せてもらってもいいかい?」
「ええ、お願いします」
ジュリアンはポケットから小さな単眼鏡を取り出し、私の首元のサファイアに顔を近づけた。彼は魔力を感知するための細かな詠唱を呟きながら、じっくりと宝石と銀の細工を観察した。




