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視線というものには、明確な質量と温度がある。
そう気付いたのは、一体いつ頃からだっただろうか。
柔らかく分厚い羽毛布団の中で目を覚ますと、まず最初に感じるのは肌を這うような微かな違和感だ。薄絹のネグリジェから露出した首筋、鎖骨のくぼみ、あるいは無防備に投げ出された手首。そういった皮膚の薄い急所を、見えない舌でゆっくりと舐め上げられるような、なまぬるくて粘着質的な気配。
「…………っ」
私は弾かれたように身を起こし、天蓋付きのベッドの周囲を見回した。
精緻な刺繍が施された重厚なベルベットのカーテンの隙間から、白々とした朝の光が差し込んでいる。空気中を舞う細かな埃が、光の帯の中でキラキラと金色の粒子のように輝いていた。
ここはラウレンティウス公爵家の本邸、東棟の最上階にある私の私室だ。壁には淡いブルーのシルクが張られ、床には足が沈み込むほど分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められている。部屋の隅にある豪奢なアンティークの姿見も、大理石の暖炉も、すべてが昨日眠りについた時と変わらない位置にある。
誰もいない。私以外、この部屋には誰もいない。
それなのに、見られている。
じっとりと、瞬き一つせず、私という存在のすべてを観察し、愛で、貪るような、どす黒いほどの執着を孕んだ視線。
私はそっと自分の腕を抱きしめ、小さく息を吐き出した。
前世の記憶という、ひどく曖昧で、けれど確かな異郷の記憶を抱えてこの世界に生まれ落ちた私――ラウレンティウス公爵家令嬢、アウレリア。
コンクリートと鉄とガラスで出来た、ひどく合理的で無機質な世界の記憶を持つ私にとって、この世界はあまりにも美しすぎた。魔法という不可思議な力が存在し、貴族たちが華やかな夜会で微笑み合う、まるで美しい油絵の中に迷い込んだようなルキフェリア王国。
美しい両親の愛情を一身に受け、広大な領地の豊かさに守られ、何不自由ない生活を送ってきた。いわゆる「異世界転生」の物語であれば、私は間違いなく幸福の絶頂にいるヒロインのはずだった。
実際、私の人生は完璧に誂えられたドレスのように瑕疵がなかった。少なくとも、一ヶ月前までは。
『コンコン』
控えめなノックの音が、静まり返った部屋に響いた。私はびくっと肩を揺らしたが、すぐに声の主を察して強張った表情を緩めた。
「お嬢様、朝でございます。お目覚めはいかがでしょうか」
「……ええ、入ってちょうだい、カミラ」
静かにオーク材の扉が開き、私付きの専属メイドであるカミラが入ってくる。糊のきいた真っ白なエプロンと、焦げ茶色の質素なドレス。彼女の赤みがかったそばかすのある頬と、陽気なヘーゼルナッツ色の瞳を見ると、ほんの少しだけ息がしやすくなる気がした。
「今朝は少し冷えますね。すぐに暖炉に火を入れますから」
「ありがとう。……ねえ、カミラ」
「はい、何でしょうか?」
暖炉の前にしゃがみ込み、手早く薪を組みながら振り返る彼女に、私は言葉を飲み込んだ。
『誰かが私を見ているの』――そう言えたら、どれほど楽だろうか。
しかし、彼女が不審者から私を守るために部屋の隅々を調べたところで、何も見つからないことは私が一番よく知っていた。窓には外側から細工された痕跡はなく、扉には内側から頑丈な鍵がかかっている。そもそも、この公爵邸の警備は王城に匹敵するほど厳重なのだ。魔法の結界まで張られたこの部屋に、物理的な侵入者が入り込む余地などない。
だからこそ、恐ろしいのだ。
「ううん、何でもないの。今日の紅茶は、少し香りの強いものがいいわ」
「承知いたしました。では、東方のスパイスを効かせたものをご用意いたしますね。それからお嬢様、本日は午後からヴァレリウス様がお見えになりますよ。お召し物はどうなさいますか?」
ヴァレリウス。その名前を聞いた瞬間、私の胸の奥に甘い安堵と、説明のつかない微かな痛みが同時に走った。
ヴァレリウス・クラウディウス侯爵令息。
私の、婚約者。
「そうね……彼がこの間褒めてくれた、あの淡い藤色のドレスにしようかしら。レースがたっぷりとあしらわれたもの」
「まあ、素敵です! ヴァレリウス様、きっとお喜びになりますよ。いつもお嬢様から目を離そうとなさいませんものね」
カミラの悪気のない言葉に、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。
目を離さない。見つめられる。
その言葉の響きが、今の私には酷く重く、ぬかるみのように感じられた。
午前中の退屈な刺繍の稽古と、家庭教師による歴史の授業を上の空で終わらせた私は、昼下がりの陽光が降り注ぐガラス張りの大温室へと足を運んでいた。
公爵家の温室は、まるで小さな森のように多種多様な植物で溢れている。一年中咲き誇る大輪の薔薇、甘くむせ返るような香りを放つ夜会草、そして見たこともないほど色鮮やかな異国の蘭。ガラスの天井からは眩いばかりの光が降り注ぎ、噴水から上がる水しぶきが虹を作っていた。
白亜の丸テーブルには、カミラが用意してくれたスパイスティーと、可愛らしい焼き菓子が並べられている。私は藤色のドレスの裾を優雅に捌きながら、籐の椅子に腰掛けた。
「アウレリア」
ふいに、鼓膜を甘く震わせるような低い声が、背後から降ってきた。
振り返るよりも早く、私の視界は彼の色彩で満たされる。
月明かりを紡いで作られたような、サラサラとした白銀の髪。そして、どんな宝石の輝きも霞んでしまうほど深く、透き通ったアメジストの瞳。
ヴァレリウス・クラウディウス。王国の貴公子と称され、社交界のあらゆる令嬢たちが熱い溜息をこぼす至高の美貌を持つ青年が、そこには立っていた。王立騎士団の深い藍色の軍服が、彼の長身と鍛え抜かれた体躯を完璧に引き立てている。
「ヴァレリウス様……。お待ちしておりましたわ」
「そんなに畏まらないでほしいと言っているだろう、私の愛しいアウレリア」
彼は優雅な所作で私の前に跪くと、私の右手をそっと取り、レースの手袋越しに恭しく口付けを落とした。触れた唇の熱が、布地を通して私の肌へと伝わってくる。その瞬間、彼の瞳が甘く細められ、私への底知れぬ愛情が溢れ出すのがわかった。
「今日も君は、ため息が出るほど美しい。その藤色のドレスも、君の白磁のような肌をよく引き立てている。まるで、春の女神がここに舞い降りたかのようだ」
「ふふ、相変わらず大げさですこと。あなたの方こそ、今日の軍服姿もとても素敵ですわ」
社交辞令ではない。彼は本当に、絵画から抜け出してきたように完璧だった。私への愛情は時に過保護すぎるほどで、私が少しでも咳き込めば世界が終わるかのように狼狽え、私が他の男性と話しているだけで、そのアメジストの瞳には暗い嫉妬の炎が揺らぐのだ。
前世で平凡な人生を送っていた私にとって、これほどまでに一人の人間から熱烈に、狂おしいほどに愛されるという経験は、最初は戸惑うものであり、やがて甘い毒のように私を魅了していった。
私は彼を愛している。彼も私を愛している。
私たちの未来には、何の障害も不安もないはずだった。
彼が私の隣の椅子に腰掛け、優雅にティーカップに手を伸ばしたその時だった。
――ゾワリ。
首の裏側から背筋に向かって、氷の塊を滑らせたような悍ましい悪寒が走った。
視線だ。
また、見られている。
先ほどまで温室の植物たちの影に潜んでいた「それ」が、這い出てきたのだ。ヴァレリウスという存在が私の空間に入り込んだことで、「それ」は明確に刺激され、興奮しているようだった。
「……アウレリア? どうしたんだい、顔色が少し悪いようだが」
ヴァレリウスがすぐに私の異変に気付き、心配そうに眉をひそめて顔を近づけてくる。彼から漂う、爽やかなシトラスと微かな白檀の香りが鼻を掠めた。彼の美しい顔が目の前にあるというのに、私の意識は背後や、頭上や、足元――ありとあらゆる空間から突き刺さる「視線」に囚われていた。
「い、いえ……何でもありませんの。少しだけ、立ち眩みがしただけで……」
「立ち眩み? それは大変だ。すぐに医者を呼ぼう」
「本当に大丈夫ですわ! 昨夜、少し本を読みすぎてしまって、寝不足なだけですの。お茶を飲めば落ち着きます」
私は必死に笑顔を作り、震えそうになる手でティーカップを持ち上げた。カチャリ、とソーサーとカップが微かにぶつかる音が、やけに大きく響く。
ヴァレリウスはまだ疑わしそうな目を向けていたが、やがて小さくため息を吐いた。
「君がそう言うなら信じるが、無理はしないでほしい。君の身に何かあれば、私は生きていけないんだからね」
そう言って、彼は内ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。
「今日は、君に贈り物を持ってきたんだ。受け取ってくれるかい?」
箱が開かれると、黒いクッションの上で、大粒のサファイアをあしらった銀のネックレスが鈍い光を放っていた。信じられないほど精巧な細工が施されたそれは、王家の宝物庫にあってもおかしくないほどの一品だった。
「まあ……なんて美しいの。でも、こんな高価なもの……」
「君の美しさには敵わないさ。さあ、後ろを向いて。私がつけてあげよう」
断る理由などなく、私は大人しく彼に背を向けた。
ヴァレリウスの大きく温かい手が、私の首筋に触れる。彼の手のひらの熱を感じた瞬間――。
『ギロリ』
明確な悪意。いや、違う。悪意ではない。
それは、どろどろに煮詰められたような、底なしの「執着」と「嫉妬」、そして「歓喜」が入り混じったような、言語化できない醜悪な感情のうねりだった。
見られている。見られている。見られている。
ヴァレリウスが私の首にネックレスの留め具をかけるその一挙手一投足を、温室のガラスの向こうから、いや、薔薇の茂みの中から、いや、私の足元に広がる影の中から、無数の目玉がぎょろぎょろと蠢きながら観察しているような錯覚。
「……あ……っ」
私は思わず、小さく短い悲鳴を上げてしまった。
「アウレリア!? どうした、痛かったか?」
「あ、いいえ……! 少し、冷たかっただけですわ。本当にごめんなさい」
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、私は首を振った。ヴァレリウスは「そうか」と安堵の息を漏らし、私の肩にそっと手を置いたまま、私の耳元に唇を寄せた。
「よく似合っているよ。私の愛しいアウレリア。……君はずっと、私のものだ」
その声は甘く、優しく、そしてどこか呪いのように重かった。
私はただ、ひきつった笑顔を浮かべることしかできなかった。なぜなら、ヴァレリウスが私に触れるたびに、彼が愛の言葉を囁くたびに、空間に満ちた「視線」の温度が、異常なほどに上がり、沸騰していくのを感じていたからだ。
まるで、「それ」は私とヴァレリウスのやり取りを特等席で楽しんでいる観客のように。
あるいは、私を縛り付けるための舞台装置そのもののように。
逢瀬が終わり、ヴァレリウスが帰路についた後、私は逃げるように自分の寝室へと戻った。
日は完全に落ち、部屋は重苦しい夜の闇に包まれようとしていた。カミラが灯してくれた数本の蝋燭の火が、かすかな隙間風に揺れて、壁に不気味な長い影を作っている。
「カミラ、今日はもう下がってちょうだい。誰にも邪魔されたくないの」
「ですが、お夕食もまだ……」
「いらないわ。鍵をかけて寝るから、明日まで誰も入れないで」
私の切羽詰まった声色に、カミラは何か言いたげだったが、深くお辞儀をして部屋を出て行った。
重いオーク材の扉が閉まり、カチャリ、と内側から鍵をかける。さらに念を入れて、かんぬきまで落とした。
窓のカーテンもすべて隙間なく閉め、外からの視界を完全に遮断する。
これで、この部屋は完全に密室だ。
私以外、誰もいない。誰も入ってこれない。
私はベッドの端にへたり込み、両手で顔を覆った。
静寂。自分の荒い呼吸と、壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
カチ、カチ、カチ。
「……気のせいよ。全部、私の気のせい」
声に出して、自分に言い聞かせる。前世の記憶と、現世の完璧すぎる環境のギャップが生んだ、ただの精神的なストレスなのだと。婚約者の愛が重すぎるゆえの、マリッジブルーの一種なのだと。
しかし。
『——————』
音のない音が、部屋に満ちた。
空間の密度が、急激に変化したのがわかった。空気が重く、粘り気を持ち、まるで水中に沈められたように息苦しくなる。
蝋燭の炎が、風もないのに一斉に小さく揺らぎ、不自然なほど青白い光へと変わった。
いる。
見ている。
間違いなく、この部屋の「中」から、私を見ている。
私は顔を上げ、部屋中を見回した。
クローゼットの暗がり。ベッドの天蓋の下。大理石の暖炉の奥。アンティークの姿見。
どこから見られているのか、わからない。
全方位だ。部屋のあらゆる場所から、無数の視線が私の一挙手一投足に突き刺さっている。
じわり、じわりと。
私の恐怖を、絶望を、混乱を、まるで極上のワインでも味わうかのように、舐め回すような視線。
それは悪霊の類なのだろうか。それとも、何らかの呪術なのだろうか。
魔法が存在するこの世界ならば、遠隔から対象を監視する魔法があってもおかしくはない。だが、これほどまでに濃厚で、直接的で、ひたひたと肌に這い寄るような「気配」を伴う魔法など聞いたことがない。
「だれ……」
震える唇から、かすれた声が漏れた。
「誰なの……! どこにいるの! 姿を見せなさい!!」
私は半ば狂乱しながら、手元にあったクッションを部屋の隅に向かって投げつけた。クッションはドスッと鈍い音を立てて壁にぶつかり、床に転がった。
何も起きない。誰も答えない。
ただ、視線だけがそこにある。
私の怯える姿を見て、視線の主が歓喜に震え、ニタリと笑ったような気がした。
ふと、私の視界の端で何かがきらめいた。
胸元。
今日、ヴァレリウスが私の首にかけてくれた、サファイアのネックレス。
銀の細工に囲まれた青い宝石が、まるで――一つの大きな「瞳」のように、青白い蝋燭の光を反射して怪しく輝いていた。
私は弾かれたようにそのネックレスを引きちぎろうとした。
しかし、留め具は魔法のようにおかしく絡み合い、外れない。何度爪を立てても、首の皮膚がこすれて赤くなるだけで、冷たい銀の鎖は私の首をしっかりと締め付けている。
(ああ……)
気付いてしまった。
この部屋には、逃げ場などないということに。
視線は外から来ているのではない。窓の外でも、扉の向こうでもない。
私の日常のすべてに、私の生きるこの美しい世界そのものに、「それ」は溶け込んでいるのだ。
「……あ、ああ……」
私は力なくベッドに崩れ落ちた。
見えない何かが、ベッドに倒れ込んだ私の体に覆い被さってくるような感触があった。
物理的な重みはない。けれど、確かな気配がある。
私の髪を撫で、私の震えるまぶたに口付け、私の絶望を貪り喰うような、悍ましくも甘い、透明な愛着。
私はきつく目を閉じた。
しかし、暗闇に落ちた視界の裏側でさえ、無数の瞳が私をじっと見つめているのがわかった。




