国境なき戦争(下)
その日、私は初めて人の存在を無視した。雅は最初、懸命に話しかけてきたが、私がコンクリートみたいに微動だにしないのを見て、昼前に諦めてくれた。
私と同じように雅も容易に口を開かない。先生に勉強を教わっていたと思うと、反抗してみたり。
「大河内さん、この連立方程式を解いてみてください」
「今日は数学の気分じゃありません。他のやっていいすか?」
先生も重苦しい我らの空気に当てられたのか、言葉数少なく引き下がる。
中学生の貧乏ゆすりがうるさい。時々足が机の足にぶつかってつららを叩いたような音が鳴る。何で先生注意しないんだろう。
「……、うるせえな」
帰り支度をしている時、私は数時間ぶりに唇の隙間から音を発した。意識してなかったけど、隣にいる雅には聞き取れたみたいだ。私の方を見ないようにしていたけど、空気でわかった。
雅は大きく目を見開き、口を片手で覆っている。目の縁に涙が溜まっていた。背筋も前かがみになってきた。
え、待って待って、あんたのこと怒ったわけじゃないから。いかにも痛みに耐えてますって感じに膝の上で拳握らないでよ。大好きだよ、雅。あんたがいなかったらきっと雪に埋もれた私は死んでただろうね。私たちの友情はこんな形で終わってしまうの。そんなの嫌だよ。
「ねえ、放課後練習しないの」
私たちの後ろに新沼が立っていた。私は怒り疲れてしまい、手だけで追い払う仕草をした。
「新沼君、かるた好き?」
雅が泣き顔を半分髪で隠して問いかけた。
「うん。アナログなゲームが新鮮だった」
またボロが出そうな答え方だ。隠すつもりもないのかもしれない。悪党め、どんな心臓だよ。
「じゃあかるた部に入りなよ。職員室に申し込み用紙があるから一緒に行く?」
「うん。ありがとう。じゃ、雪さん後で」
雅と新沼が連れだって教室を出ていった後、私は心配になって後をつけた。
廊下の少し離れた位置から二人の背中を追う。何喋っているのか聞き取れないが、雅は楽しそうだ。よかった。
職員室に二人が入ると、私の扉にはりついて中の様子に聞き耳を立てた。
「新沼君さ、雪ちゃんのことどう思ってる?」
いきなり雅が私の話を振った時は逃げ出したくなった。自分が卑劣そのものになったみたいでどうにかなりそう。
「良い子だなって思う。お風呂にも入れてくれたし」
「うっそ、マジ。そっかー、二人はそんな深い仲だったのか……」
真に受けるな、バカ。深い仲ってなんだよ。私はそんなに安い女じゃない。叫びたいのをぐっと堪える。
「じゃあ雪ちゃんは私と新沼君が仲良くしてるって誤解して怒ってるんだ。謝らないとね」
「謝る必要なんかない!」
私は我慢できずに職員室に飛び込んだ。職員室には雅と新沼の他誰もいない。赤っ恥になるけどこれなら少しましだ。
「私、雅のこと好きだから。そいつは関係ない」
雅の腕が当たって、職員室の机にのっていたプリントを床に散々ばらまいた。それは明日やる予定だった古文のテストだ。ラ行変格活用という文字に太線が引かれている。
雅は制服の袖で目を拭った。私は雅の肩を抱き寄せてから、新沼に指をつきつけた。
「こいつはペンギンだよ! 気を許しちゃだめ」
私の糾弾を聞いた雅は、赤くなった目をぼんやり新沼にむけた。
「うん、知ってる。新沼君がさっき教えてくれた」
既に新沼は雅に正体を明かしていたのだ。よく考えたらドローンを持ってる新沼のことを怪しまないわけがない。
「そうだったんだ……、じゃあもう私も雅に隠し事しなくていいんだね」
私は雅に、新沼の秘密を知って悩んでいたことを打ち明け、さっきの強情な態度を謝った。
「なんだー、雪ちゃんに嫌われちゃったかと思った。ほんとに怒ってない?」
「ないない」
喧嘩したその日に仲直りできてよかった。胸のつかえが下りたはいいが、新沼がプリントを集めているのが目に入った。几帳面にプリントの角を整えている。
「大河内さん、用紙ってどれ?」
私たちの感情の機微が読めないのか、こいつ。ペンギンってやはり危ない奴だ。
「はーい、新沼君、これだよ。名前とクラスだけ書いてくれればいいから」
雅はいつもの面倒見の良さを発揮して、プリントを取ってあげていた。雅も小林と同じように排除しない方針なのかな。私だけ仲間外れみたいで嫌だ。
それからかるたの練習を一時間ばかり行い、私たちは校舎を出た。
帰り際、こっそり雅に新沼のことをどう思うか聞いてみたら意外な答えが返ってきた。
「ぶっちゃけ怖いよ。新沼君かわいい感じだから忘れそうになるけど、ペンギンだもんね。雪ちゃん、私と新沼君を二人きりにしないでよね」
それは私の台詞だ。頼りにされても保証はできない。それでも二人なら何とかなると思う。
外は吹雪で前もろくに見えない。斜めから吹いてきた風に倒されそうになる。新沼が私の腕を支えている。気づかないふりをして、マフラーを口元に引き上げた。人肌に安心してるわけじゃないから。
足を雪から引っこ抜くようにして、行軍していたが私は後ろの二人がやけに静かなことに気づいた。
「雅?」
くぐもった声で確認するが、返事はない。聞こえなかったのかもしれない。もう一度、今度は大声を出そうとしたが、雪が口の中に入ってしまいむせた。
そうしている間にも、頬に固い雪の粒がぶつかってくる。まるで悪いことをした私に石が投げつけられているみたいだ。
獲物を狙う狼のように低くうなる風の音と、静寂の中にあっては心細いことこの上ない。ここどこだ。周りは雪に囲まれて袋小路みたいだし、前方は暗く穴が広がっていても不思議はない。事実、水路に落ちて亡くなった人もいたはずだ。
「雅……、どこ行ったのよ。二人きりになりたくないって言ってた癖に」
学校を出た時は三人だった。いつの間にかはぐれてしまったようだ。どうしよう。助けを呼ぼうか。でも顔をあげるのも大変なのだ。風はますます勢いづいてきて、息苦しい。姿勢を低くするつもりが、腰を下ろしてしまった。
実は私は以前にも一度同じような状況に陥ったことがある。
青森に来たばかりの頃、祖母の家に預けられた私は、吹雪の日に薄着で出かけた。北国をなめていたのか、つまらない反抗心だったのか、よくわからないが私は今のように腰を下ろし、雪に埋もれるがままに任せた。運がよかったのか、近くを通りかかった自衛官に助けられた。
誰にも言ったことないけど、私は心のどこかで雪に埋もれて消えたいと思っている。どうせ私がいなくなっても何も変わらない。雪は全てのものに平等に降りつもる。存在自体をなかったことにして。清廉な自然の象徴になりたかったのかもしれない。
腰の当たりまで雪で覆われていた私を引っ張りあげようとする動きに目を見張る。やだ、やめて。
「しっかり! もう大丈夫だ」
か細い男の声が耳の底に響く。お前が頑張れよってくらいの頼りない腕に私の命は救われた。
新沼に助けてもらった私は一言も口をきかずに、家まで歩いた。家の明かりが見えてくると、情けないことにほっとしている自分がいた。
新沼は私とはぐれたことに気づき、引き返してきたのだ。自分だって雪に慣れているわけじゃないのに、遭難するのも恐れずに、私なんかのために。
「これで貸し借りなしだよ」
「何それ」
「ほら、初めて会った時」
思い返せば、転校初日、新沼も雪に埋もれていたんだ。あれは助けたって言うのか。
「何であの時、私の家の前に雪に埋まってたの?」
そう訊ねる私の声は鼻声だ。下着にまで寒さが染みる。自業自得だけど風邪ひいたのかもしれない。
「雪だるま作ろうとして。欲張ったらああなった」
「はあ? どうやったらああなるのよ。おかしいよ、それは、あはは……」
まただ、新沼は笑ってる私の顔を観察するようにまじまじと見ている。恥ずかしいからやめて欲しい。下を向く。
「君の笑った顔のサンプルがもっと欲しいんだ」
熱で浮かされていたせいか、私はさらに笑い声を立てた。後で聞いたら家の中にいた祖母にも聞こえたらしい。恥ずかしい。
「雅じゃ駄目なの?」
「うーん……、わからない」
わからないのかよ。はっきりしない奴だ。正直なのは美徳だけど、小林みたいな大人にならないか心配になる。
「明日の朝日は当たり前に来るとは限らない。そうだよね?」
「う、うん」
私の行動を責めているのか。悪かったとは思うけど、勝手に助けたのは新沼だろうに。
「だから君の笑顔は尊いんだ。僕はそう思う」
「は、はい、わかりました。私が悪かったってば」
嫌々、非を認めたように見えるかもしれないけど、私は結構へこんでいる。はっきり私が悪いと言われたように感じたからだ。
「ねえ、ペンギンのこと知りたい?」
私が悩んでいることを雅から聞いたのかもしれない。本音では知りたいと思っていたけど、知りすぎた代償として捕まることも考えられる。
「君の不安を少しでも払拭できたらと思って。知りたくなったらいつでも言って。明日の朝練頑張ろうね」
新沼は先生の家の敷地に入っていく。隣で暮らしてるんだ。同じ年頃の男子が。
あ、足首が雪にはまって新沼が転んでる。ドジだなあ。
こいつがペンギンじゃなかったら……、いや、考えるのはやめとこう。深い意味は全然ないからね。




