第二部「疑惑の炎と見えないブレーキ」・第8章 ブレーキの正体
最初に名前が出たのは、社内ではなかった監督官庁に近い記者クラブの、窓のない小さな部屋。
誰かがこぼした「産業スパイ」という単語に、別の誰かが「それ、むしろあの会社の海外部門トップのほうだろう」と笑い飛ばした。
その笑い話が、メモに変わるまでに、さほど時間はかからなかった。
元華族。
戦後すぐに海外とつながり、長年「何か握っている」と噂されてきた男。
その名前と、「産業スパイ疑惑」というラベルは、実は昔から相性が良かった。
社内で最初にその火の粉を感じたのは、副社長だった。
「政界側から、こんな資料が回ってきました」
社外取締役が差し出した封筒の中には、古い新聞記事のコピーと、数年前の社外調査報告書の抜粋が入っていた。
海外部門トップの過去の経歴。
海外の取引先との異様に濃いパイプ。
そして、かつて別の企業でささやかれた「情報流出」の噂。
「これを、どう読めばいい?」
副社長が問う。
社外取締役は、少しだけ肩をすくめた。
「少なくとも、政界は『誰が本当に危ないのか』を、冷静に見ているということですね」
「うちの会長の娘が“スパイ”呼ばわりしている相手ではなく、彼女を唆した側を?」
「ええ。
そして、もう一つ」
社外取締役は、別の紙をテーブルに置いた。
『某外資系ファンド、当社株式の追加取得を見送り』
短い英文メールのコピーだった。
「政界長老が、ここ数年、この会社が“禿鷹外資”に呑み込まれないよう、監督官庁経由でさりげなくブレーキをかけていたそうです」
副社長は、息を飲んだ。
「その長老の義理の妹を、会長の娘が標的にした結果、そのブレーキが外れた。
そういう見方もできます」
森岡は、会議室の端でその会話を聞きながら、背中に冷たい汗がじわりとにじむのを感じていた。
海外部門トップは、政界プリンセスが「弄ってはいけない人材」だということを、本気では信じていなかったのかもしれない。
元華族という出自。
海外経験。
会長の娘よりも、本物の「お姫様」いや、「お殿様」に近いと、どこかで思っていた。
だからこそ、政界プリンセスへの嫉妬も、会長の娘への軽蔑も、同じように「つまらない感情」として処理できると思っていた。
森岡の視線の先で、専務がぼそりとつぶやいた。
「肉を削って血を断つつもりだったんだろうが…削った肉が、自分の心臓に繋がっていた、ってところですかね」
その日のうちに、社内調査委員会の議題に、ひっそりと一行が追加された。
『海外部門における情報管理体制および責任所在の明確化について』
その行が、誰を意味しているのか。
理解できない人間は、一人もいなかった。




