第二部「疑惑の炎と見えないブレーキ」・第7章 匂いの元
噂は、社内より先に、霞が関に届いた。
政界プリンセスの夫が勤める省の、夜の廊下。
窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、彼はスマートフォンを握りしめていた。
「本当に、そう言われたのか」
受話口の向こうで、妻は申し訳なさそうに笑った。
「わたしがスパイなんて、一番笑ってるのは森岡くんだよ」
「笑い事じゃない」
彼は短く言い、深く息を吐いた。
義理の兄である長老政治家の事務所にも、すでに情報は回っている。
「民間企業の人事の話だから」と、最初は誰も本気にしなかった。
しかし、「会長の娘」「産業スパイ」「懲戒免職」「外資」「海外部門トップ」という単語がそろったあたりで、空気が変わった。
「兄さんには、まだちゃんと言ってない」
妻が言う。
「心配かけたくなくて」
「もうとっくに耳に入っている」
彼は答えた。
「あの人たちのネットワークを、甘く見るなよ」
その頃、永田町の一角では、長老政治家の秘書のさらに下のスタッフが、一通のメモをタイピングしていた。
『某上場企業におけるコンプラ案件について
・被害者は先生のご親族
・相手方は創業家(会長令嬢)
・産業スパイの疑いをもって懲戒予定との情報
・監督官庁所管案件の可能性あり』
メールの宛先は、直接の大臣ではない。
その前段階の、「気にしておいていただきたい件」としての共有だ。
翌日、監督官庁から会社に届いた「一般的なヒアリング」の文書は、その一歩目にすぎない。
政界は、まだ怒ってはいない。
ただ、「匂い」を嗅ぎつけているだけだ。
その匂いの発信源が、元華族の海外部門トップなのか。
それとも、創業家のプリンセスなのか。
あるいは、長年整理されてこなかった企業統治のほころびそのものなのか。
誰も、まだはっきりとは言葉にしない。
ただ一つ確かなのは、海外部門トップが会長の娘を使って放った「産業スパイ」という言葉が、社内政治の道具では済まされない領域に足を踏み入れた、ということだった。




