第二部「疑惑の炎と見えないブレーキ」・第6章 永田町の匂い
最初の電話は、夜九時を少し回ったところで鳴った。
森岡ではなく、副社長の携帯に。
そして、その着信履歴は翌朝、役員フロアの空気を変えていた。
「永田町からだそうです」
社外取締役が、コピー用紙をひらひらさせながら、低い声で言った。
永田町という二文字は、実名より重い。
「義理の兄御本人ではない。秘書の秘書の、そのまた向こう側くらい」
副社長が、わざと曖昧な表現を使う。
「でも、『たいへん心配しておられる』そうです」
会議室の端で、そのやりとりを聞きながら、森岡は、事態が静かに第二幕に入ったのを感じていた。
政界プリンセス本人は、前日の夕方、森岡と別れたあとも、いつもどおり淡々とメールの返信をしていたらしい。
しかし、話を聞いた夫が、まず省内の上司に相談し、そこからごく自然な形で長老政治家の耳に入るまでに、半日もかからなかった。
「うちとしては、まだ懲戒手続きは正式に始めていません」
専務が、あくまで事務的な口調で言う。
「でも、社内ではもうそういう空気ですよね」
と、社外取締役。
副社長は、机の上の書類を整えながら、短くうなずいた。
「会長は?」
「『会社の自律的な判断に任せる』と」
副社長が答える。
「その『判断』を自分が下している自覚は、あまりお持ちでないようですが」
僅かな沈黙のあと、社外取締役が椅子にもたれた。
「外資は、こういうとき、案外冷静ですよ」
「むしろ、チャンスと見るかもしれませんね」
専務が続ける。
「創業家と政界が両方絡むスキャンダルになれば、経営陣の『刷新』の口実になる」
森岡は、自分の名前がまだ一度も出ていないことに、妙な安堵を覚えていた。
そのとき、副社長がふと、視線を森岡に移した。
「きのう、彼女には何と?」
「社内のいざこざでは済まないかもしれない、と」
森岡は答えた。
「それと、事実だけを見たい、と」
副社長は、ほんの一瞬だけ笑った。
「彼女は?」
「あまり実感がないようでした。 でも、『たぶん、兄と夫のほうが本気で怒る』と言っていました」
社外取締役が、机の上のペンを指で転がす。
「怒りというより、これは『仕事』ですね。一族の名誉を守る仕事。官僚として、政治家として」
その日の午後、監督官庁からの「ごく一般的な」照会文書が一通、会社に届いた。
内容は、最近のコンプライアンス体制の見直し状況についてのヒアリング依頼。
そこに個人名は、一つも書かれていない。
けれど、差出人の局名とタイムスタンプを見て、多くの人間が同じことを悟った。
政界は、すでにこちらを見ている。
まだ静かに、だが確実に。
そして、その視線の重さを、唯一理解していないのが、会長と、その娘だった。




