第一部「プリンセスたちの劇場」・第5章 捻れた華族
海外部門トップの部屋は、フロアの端にあった。
どの会議室よりも静かで、どの執務スペースよりも古めかしい。
壁には、戦前の欧州の街並みのモノクロ写真が飾られている。
彼は、そこに似合う男だった。
元華族。
その言葉だけで、多くのことが説明できるようで、実際にはほとんど何も説明できない種類の男。
会長の娘がノックもそこそこに入ってきたとき、彼は古い万年筆のインクを確かめているところだった。
「お忙しいところ、すみません」
プリンセスは、遠慮と親しさを絶妙に混ぜた声で言った。
「あなたのところの、彼女の件で」
彼女、という代名詞だけで、誰のことか伝わる。
政界プリンセス。
アメリカ帰りで、官僚の夫がいて、義理の兄は長老政治家。
海外部門トップは、顔を上げた。
「ああ、彼女ですか」
その「彼女」という二文字の中に、軽蔑と興味と、薄い嫉妬がきれいに混ざっていた。
「最近、少し気になる動きがありまして」
プリンセスが、椅子に腰を下ろす。
「外との情報の行き来が、彼女経由で多すぎる気がするんです」
「それは、彼女の仕事でもありますからね」
海外部門トップは、即答しなかった。
万年筆のキャップを閉め、ゆっくりと机の上に置く。
「ただ…」
一拍置いてから、続きを落とした。
「あなたがそう感じられるのなら、そうなのかもしれません」
プリンセスが、少し身を乗り出す。
「どういう意味でしょうか」
彼は、窓の外を見た。
「かつて、わたくしのところにも、似たような噂がありました。
海外の情報と近すぎる、と」
「産業スパイ、という話ですか」
プリンセスの声が、わずかに弾んだ。
海外部門トップの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「噂は、噂です。ただ、人は、自分が理解できないものに、そういうラベルを貼りたがる」
彼自身、長年「スパイではないか」とささやかれてきた。
元華族という出自も、戦後の混乱のなかで海外と結びついた経歴も、その疑いを完全には晴らさない。
「あなたがお感じになっている“違和感”は、放っておくべきではないでしょう」
「やっぱり、何かおかしいんですね」
プリンセスの目に、安堵に似た光が宿る。
「彼女の義理の兄上が、副社長に何か言ったらしい、という話も聞きました」
海外部門トップは、さらりと言った。
「ああ、それ…」
プリンセスは、少し唇を尖らせる。
「わたし、聞いてないんです。副社長も、お父様も、何も」
それは、彼女にとって許しがたい「置いてけぼり」だった。
「組織の外の力で、人事に影響を与えるのは、好ましくないことです」
海外部門トップは、静かに続ける。
「あなたのお父上も、きっとそうお考えでしょう」
プリンセスは、こくりとうなずいた。
「では…どうすれば」
彼は、少しだけ肩をすくめて見せた。
「わたくしは、事実を申し上げることしかできません。ただ、あなたが会長のご令嬢として、お感じになっている危機感を、そのままお伝えになればよろしいのでは」
「危機感…」
「この会社の情報が、政界や官僚のネットワークに、どのように流れているのか。そのことに、疑問をお持ちだと」
プリンセスの中で、点が線になっていくのが見えた。
「産業スパイの可能性も、否定できないと」
その言葉を、彼女自身の口から引き出すまで、海外部門トップは余計な一言を足さなかった。
「…そうかもしれません」
彼女は、自分の膝の上で手を握りしめた。
「お父様に、お話ししてみます」
彼は、穏やかにうなずいた。
彼女が部屋を出て行ったあと、長い沈黙が訪れる。
デスクの引き出しから、古い家系図がはさまったファイルを一枚取り出す。
自分の名の横に印刷された「華族」の二文字を、しばらく眺めた。
「元華族も、元総理も」
誰に向けるでもなく、彼は小さくつぶやいた。
「戦後という時代は、どちらも長くは要らない、ということか」
彼が仕掛けたのは、自分の肉も少し削る覚悟のある一手だった。
政界長老の義理の妹という肩書きを、本気で信じていなかったのか。
あるいは、信じたうえで、まとめて斬るつもりだったのか。
それは、彼自身にも、まだはっきりとは分かっていなかった。




