第三部「地雷」・第9章 地雷だったプリンセス
会長室のカーペットは、妙に柔らかかった。
森岡は、それを初めて踏んだ日のことを覚えている。
今、その柔らかさが、足元の不安定さと重なって感じられた。
会長の向かいに、監督官庁の局長経験者という肩書きを持つ社外取締役が座っている。
その横には、副社長。
ソファの端には、会長の娘。
ドアが閉まる音が、いつもより重く響いた。
「で、これはどういうことなんだね」
会長が、プリントアウトを握りしめて言った。
そこには、監督官庁からの二通目の文書がホチキス留めされている。
一通目の「一般的なヒアリング」とは違い、今度はもっと具体的だった。
『特定社員に対する懲戒手続きの適正性について』
個人名はない。
だが、関係者なら一目で誰のことか分かる。
「一般論ですよ」
会長は、まだそう言い張ろうとしていた。
社外取締役が、静かに首を振る。
「会長。
この文書が“先生”のところを経由していることは、確認が取れています」
「先生?」
会長の眉がぴくりと動く。
「元総理の」
副社長が短く補った。
一瞬、空気が止まる。
会長は、手元の紙から目を離し、娘のほうを見る。
「おまえ…」
プリンセスは、唇をかみしめていた。
「わたしは、会社のことを思って…」
「会社のことを思って、先生の親族を、スパイ呼ばわりしたのか」
会長の声に、いつもの甘さはなかった。
「スパイとは…わたし、そこまで」
「議事録には、はっきり残っています」
社外取締役が、別の紙を差し出す。
「『産業スパイの可能性を否定できない』。
あなたの発言です」
プリンセスの顔から血の気が引いていく。
「だって、海外部門トップが…」
そこで、会長の視線がさらに鋭くなる。
「彼が、そんなことを?」
「“疑念をお持ちならば、会長にお伝えしたほうがいい”と」
プリンセスの声は、ほとんどかすれていた。
社外取締役は、短く息を吐いた。
「彼自身についても、過去からの噂が、政界側で再点検されています」
会長が、信じられないものを見る目で社外取締役を見つめる。
「うちの会社を、外資から守ってきたのは誰か。
会長、そこを一度、冷静に振り返ってください」
社外取締役の声は穏やかだが、言葉は鋭かった。
「ここ数年、“禿鷹ファンド”と呼ばれる外資が、何度もこの会社を狙っていました。
そのたびに、監督官庁側から『待った』がかかったのは、ご存じでしょう」
「それは、おまえたちがうまくやってくれていると」
「我々だけではありません」
社外取締役は首を横に振る。
「あの長老が、“先生”が、水面下でブレーキを踏んでいたからです。
自分の義理の妹が働いている会社を、むざむざ外資に呑ませるわけにはいかない、と」
会長の手から、プリントが少し滑り落ちそうになる。
「そのブレーキが、今回の件で外れかけています。あの長老にしてみれば、『身内をスパイ呼ばわりする会社を、なぜ守らなければならないのか』という話になる」
プリンセスが、小さな声で言う。
「わたしは…本物のプリンセスなんて、なれないから。せめて、お父様の会社を守る役に立ちたくて」
その告白は、半分は本音で、半分は自分への言い訳だった。
海外経験もない。
華やかな政界の血筋もない。
元華族という肩書きも、アイビーリーグの学位も、何も持っていない。
会長の娘、という立場だけが、彼女の「プリンセス」だった。
その劣等感が、元華族の男のねじれた嫉妬と共鳴し、政界プリンセスという弄ってはいけないピースを動かしてしまった。
副社長が、静かに口を開く。
「お父さん。これは、謝って済む話ではないかもしれません」
会長は、息子の顔を見た。
「だが、謝るところからしか、始められんだろうな」
その言葉に、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。
けれど、そのわずかな変化を待ってはくれない勢いで、外資はすでに動き始めていた。
週明けの市場で、会社の株価は大きく揺れることになる。
創業家が持つ七パーセントと、政界長老がこれまで押さえつけてきた「外資の食欲」とが、同じチャートの上に並ぶ。
その中で、一番小さく見えるのは、会長の娘が抱えていた劣等感かもしれなかった。
しかし、その小さな感情こそが、はじめの一押しだったのだ。




