第一部「プリンセスたちの劇場」・第3章 幹部たちの苦悩
「さっきの会議、どう見えました?」
夜の役員フロアは、昼とは別の会社のように静かだった。
会長室の明かりはもう落ちている。残っているのは、副社長室と、その隣の小さなミーティングルームだけだ。
森岡は、水の入ったグラスを両手で挟みながら、テーブルの向こう側にいる男たちの顔を順番に見た。
副社長、社外取締役、そして財務担当の専務。
立場は違うが、三人とも株主名簿とニュースサイトを日課にしている種類の人間だ。
「どう見えました、っていうのは」
副社長が、苦笑しながら言い直す。
「うちのプリンセスが、ずいぶん派手な火遊びを始めたな、という意味ですよ」
社外取締役が、眼鏡を外してテーブルに置いた。
「彼女の言う『産業スパイ』が事実かどうかは、いまは問題じゃない。問題は、その言葉が議事録に残ったことだ」
「議事録は、きれいにしますよ」
専務が、そう言って笑わせようとするが、誰も笑わない。
副社長は、パソコン画面を回して見せた。
そこには大口株主のリストが並び、創業家の「七パーセント」が、数字として小さく浮かんでいた。
「外資が、もうすぐ三割に届きます。向こうは、うちの会長室の空気じゃなくて、ここの数字を見て判断します」
社外取締役が、うなずく。
「そして、相手方のバックは、外資よりもやっかいだ」
森岡は、そこで自分が呼ばれた理由を理解し始めていた。
「彼女の家の話は、ご存じですよね」
副社長が、森岡のほうを見た。
「大学の同期だと聞いています」
森岡は、ゆっくりと答える。
「ただ、学生の頃は、そこまで深くは。あとで、ニュースで見て、ああ、そういう家なのかと」
「元総理で、今も派閥の長老。娘は現職の閣僚」
社外取締役が、そこまで淡々と言い切ったところで、言葉を切った。
「その義理の妹を、うちの会長の娘が産業スパイ呼ばわりして、懲戒免職にしようとしている」
森岡は、グラスの水がわずかに揺れているのを見つめた。
副社長が、短く息を吐く。
「政治は、経済の上にあります。少なくとも、永田町の人たちはそう信じている」
「うちの会長とプリンセスは、逆に信じているようですがね」
専務が、皮肉っぽく付け加えた。
副社長は、それには同意も否定もせず、テーブルに指先で小さくリズムを打った。
「森岡さん」
名前を呼ばれ、森岡は背筋を伸ばす。
「あなたは現場を見てきた人だ。あの子…彼女が、実際にそんなことをしていると思いますか」
森岡は、一瞬だけ、大学時代の政界プリンセスの姿を思い出した。
分厚い政治学の原書の横に、なぜか日本のミステリー小説が積まれていて、図書館の奥の席で、いつも少し眠そうに笑っていた女だ。
アメリカに行ってからも、届くメールは、政策よりも街のカフェの話のほうが長かった。
「…彼女は、野心家じゃありません」
と、森岡は言った。
「出世より、面白いことをしていたい人です。そこにいるだけで、偉い人が勝手に寄ってくるタイプですけど」
社外取締役が、ふっと息を漏らす。
「つまり、利用される側だ」
副社長が小さくうなずく。
「そうですね。そして、今回は、うちの会長の娘にも、利用されかけている」
森岡は、ようやくペンを握りしめた。
「僕は、現場として何をすればいいでしょうか」
副社長は、森岡をまっすぐ見た。
「事実だけを、静かに集めてください。感情や噂は抜きで。
それから…」
少し間を置いてから続ける。
「彼女に伝えてください。これは社内のいざこざではなく、もう少し大きな話になりかねない、と」
それはつまり、「守る」というより、「巻き込まれる覚悟をしておいてくれ」という意味だと、森岡には聞こえた。




