第一部「プリンセスたちの劇場」・第2章 ハレム会議室の告発
会議室の空気は、朝から甘かった。
ガラス張りの長方形の部屋に、丸テーブルと低いソファ。会議室というより、誰かのリビングルームのようなその空間は、社内で半ば冗談混じりに「ハレム」と呼ばれていた。
皇帝の娘がここに座るとき、出入りできる男は限られている。
森岡は、その「限られた男たち」の末席に、最近ようやく呼ばれるようになった。取締役候補、というラベルがついてからだ。
向かいのソファで、プリンセスがハンカチを握りしめていた。いつもよりワンテンポ遅れて笑うはずの口元が、今日はきっちりと結ばれている。
「お忙しいのに、急にお時間いただいて、すみません」
そう前置きしてから、彼女は視線を父親に送った。
皇帝は、会長席から少し身を乗り出して、娘の肩にそっと触れる。
「いいんだよ。おまえが困っているなら、会社が困っているのと同じだ」
その言葉を合図にしたように、周りの幹部たちが一斉にメモを取るふりをし始める。
「あの人…」
プリンセスは、政界プリンセスの名前をはっきりと口にした。
「わたし、最初は気にしないようにしていたんです。でも、明らかにおかしい動きがあって」
声が震えている。震えているが、その震えは涙より先に計算を感じさせた。
「おかしいって、具体的には?」
口を開いたのは社長だった。皇帝の古参側近であり、今は形式上の会社のトップだ。
「海外部門の資料が、外に漏れていると思うんです。タイミングがおかしすぎるんです。同じような企画が、先に競合から出てきたりして」
プリンセスの言葉に、周囲の男たちがざわめく。
森岡は、そのざわめきの種類を聞き分けようと耳を澄ませた。
「具体的な証拠は?」
と、副社長が静かに口を挟む。皇帝の息子であり、この会社で唯一、数字と株主構成と国際政治を同時に考えている男だ。
「証拠なんて、そんな…」
プリンセスは、涙ぐみながら副社長を見る。
「でも、彼女、やたらと官僚の人たちと親しいんです。アメリカでもそういう人たちと…」
森岡は、そこでようやく、彼女がどの線をつなげようとしているのかに気づいた。
「産業スパイ、ということかね」
皇帝が、ゆっくりと言葉を選ぶふりをしながら、そのもっとも派手な単語を口にした。
会議室の温度が、ほんの少し下がる。
「おまえは、そう疑っているんだな?」
「はい。わたし、この会社のために言っています」
プリンセスは、ようやく涙を一筋だけ落とした。タイミングは完璧だった。
社長が、重々しくうなずく。
「調査は必要だな。コンプライアンスの観点からも」
幹部の一人が、すぐに調査委員会という単語を口にする。
森岡は、ノートを開いたまま、ペン先を動かさずにいた。
産業スパイ。
言葉だけが、会議室の中で独り歩きを始める。証拠の話は、誰も深く追おうとしない。
プリンセスの肩越しに、森岡は副社長の表情を盗み見た。
彼だけが、わずかに顔をしかめていた。
そのしかめ方が、「まずいな」という実務家のものなのか、「やめろ」という家族のものなのか、森岡にはまだ判別できなかった。




