第一部「プリンセスたちの劇場」・第1章 現場叩き上げの森岡
森岡は「総合職候補」ではなかった。
大学は出ていたが、当時の人事の判断は冷静で、ある意味、残酷だった。まずは現場で経験を積んでもらう。そう分類された人間の行き先は、研修センターではなく、地図と名刺の詰まったバッグだった。
総合職研修に呼ばれた同期たちを横目に、森岡は最寄り駅の出口を間違え、炎天下の住宅街でスーツの背中を汗で貼りつかせながら飛び込み営業をしていた。
後になって思えば、あのときからもう、この会社にとって誰が「プリンセス」で、誰がそうでないかは決まっていたのだ。
産業スパイの疑いが持ち上がったのは、その十年後だった。
社内で「プリンセス」と呼ばれている先輩社員が、自分より後に入ってきた若い女に向かって、あれはおかしいと囁き始めた。
自称プリンセスは創業家の血筋で、形式的には本物のプリンセスだった。だからこそ、彼女の言葉に権力を持つ男たちが乗っかったとき、話は一気に「懲戒免職」のレールに乗った。
誰も気づいていなかった。ただの女同士のいざこざに見えていた相手が、総理大臣経験者で今も政界の長老と呼ばれる男の義理の妹であり、その男の娘は現職の閣僚だということに。
経済の論理より、さらに一段上に政治の論理があることを、現場で汗をかいてきた森岡だけは、薄々感じていたのだが。
皇帝の娘は、自分を「プリンセス」と呼ぶのが冗談ではないと信じている人間だった。
皇帝は、世の中の仕組みを昔のままだと信じている人間だった。
二人とも、外資の持ち株比率にも、政界の力学にも興味はない。
だからこそ、女同士の小競り合いのつもりで産業スパイをでっち上げたとき、それがどんな地雷を踏むか、想像もしなかったのだ。
副社長だけが、すべてを知っていた。
父の無邪気さも、妹の残酷さも、そして標的にされた女の苗字の重さも。
取締役の何人かも、知っていた。
けれど、皇帝とプリンセスに忖度する中間の誰かが、ブレーキより先にアクセルを踏んでしまったのだ。




