第三部「地雷」・第10章 外資の手と古い物語
株価のチャートは、感情のグラフではない。
そう教えられてきたはずなのに、その日、森岡がモニターで見ていた数字は、どう見ても「怒り」の形をしていた。
大口の売りと買いが交錯し、板は厚くなり、出来高は跳ね上がる。
創業家の七パーセントが、数字の上ではますます小さく見えていく。
「外資のファンドが、本気を出しましたね」
社外取締役がぽつりとつぶやく。
名前は出さない。
だが、そのファンドのCEOの顔を、政界プリンセスはよく知っていた。
アイビーリーグの大学院時代、図書館の同じテーブルで、コーヒーをこぼし合って笑った仲だ。
グループワークで何度も組み、眠れない夜を一緒に過ごした。
彼女が日本に戻ってからも、ときどき彼からメールが来た。
『君の国の某企業、面白いね』
そんな一文から始まるメッセージを、彼女は「ただのビジネスの話」として流していた。
後になって分かるのだが、外資のCEOはすでにその頃から、元華族の海外部門トップと水面下で話をしていた。
「一緒に会社を取らないか」と。
そして今回の騒動の少し前、そのCEOは、久しぶりに政界プリンセスに会いに来ていた。
「君の会社、内部がずいぶんきな臭いね」
都心のカフェ。
ラテの泡をスプーンでいじりながら、彼は軽い調子で言った。
「うちのファンドにも、あの元華族の人が何度か来たよ。
すごく優雅な日本語で、『この会社は古くて、外の血が必要だ』ってね」
政界プリンセスは、苦笑いを浮かべた。
「でも、あなたたちは乗らなかった」
「正確には、保留した」
彼は肩をすくめる。
「君の義理の兄上のこともあるし、官僚の夫くんのことも。
政治リスクが大きすぎる」
彼は、テーブルの上にナプキンを広げ、ペンで簡単な図を描いた。
元華族の海外部門トップ。
会長の娘。
創業家の株式七パーセント。
禿鷹と呼ばれる他の外資。
そして、その外側からブレーキをかけている政界長老。
「面白いパズルだと思わない?」
政界プリンセスは、図を見つめながら言った。
「わたしは、ここにいたいだけなんだけどね」
彼は笑って、最後の線を引いた。
「ところで、ひとつ聞いていい?」
「なに」
「その元華族の人、会長の娘さん以外にも、ちょこちょこ唆しているよ。
でも、乗ってるのは今のところ、彼女だけだ」
その一言が、政界プリンセスの胸に引っかかっていた。
彼女は、夫には話さなかった。
官僚である夫に、そのレベルの生臭い話を持ち込むべきかどうか、迷ったからだ。
代わりに、その夜、義理の兄にだけ電話を入れた。
「たぶん、誰かがわたしを使って、何かしようとしている」
義理の兄は、詳しいことを聞かなかった。
ただ、「分かった」とだけ言い、翌日には監督官庁の旧友に連絡を入れていた。
そして今。
外資のCEOは、義理の兄と完全に敵対する形ではなく、「先生の意向を踏まえつつ」買い増しを進めている。
会社の取締役会に提出された提案書には、こう書かれていた。
『創業家の顔を立てつつ、ガバナンスを国際水準に引き上げるための経営陣刷新』
その具体案の中に、会長と社長の退任。
海外部門トップの解任。
そして、副社長を含む数名の取締役の続投と、新たな社外取締役の受け入れが並んでいた。
森岡の名前は、その一覧の中に「新任取締役候補」として小さく載っていた。
会長室での最後の会議。
会長は、その紙を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
「俺が、やめればいいのか」
誰も、直接「はい」とは言わない。
だが、沈黙がそれを肯定していた。
会長の娘は、隣のソファで泣き腫らした目をしている。
海外部門トップは姿を見せない。
すでに自宅待機という名の事実上の更迭を言い渡されていた。
外資のCEOは、ビデオ会議の向こう側で、穏やかに微笑んだ。
「我々は、敵ではありません。この会社には可能性がある。ただ、その可能性を閉ざしている“古い物語”を、少し書き換えたいだけです」
画面越しに、その言葉を聞きながら、森岡は奇妙な既視感を覚えていた。
大学時代、図書館で政界プリンセスと並んで座り、「この国の古い物語をどう書き換えるか」と語り合っていた夜のことを。
いま、誰かが別の形で、それを実行しようとしている。
個々人のつまらない劣等感と嫉妬が、思いがけない助燃材になって。




