第六話 あなたの隣で生きていく
森の屋敷へ戻ってから、三ヶ月が過ぎた。
季節は少しずつ移り変わっていた。
最初に私がこの森へ落ちた頃、木々はまだ濃い緑を抱えていたけれど、今は葉の色が少しだけ淡くなり、朝晩の空気に冷たさが混じるようになっている。
私は相変わらず、エレンの屋敷で暮らしていた。
けれど、以前とは違う。
部屋の扉に鍵はかからない。
私はリーベルの町へ行くこともある。
エレンに文字を教わりながら、町の看板や値札を少しずつ読めるようになった。
宿屋の女将さんに頼まれて、忙しい時間だけ食堂の手伝いをしたこともある。
まだ正式に働いているとは言えないけれど、皿を運んだり、床を拭いたり、簡単な注文を聞いたりするくらいならできるようになった。
エレンは、私が町へ行くことを止めなかった。
止めない。
けれど、毎回とても不安そうな顔をする。
「今日は昼過ぎには戻ります」
私がそう言うと、エレンはいつも一度だけ頷く。
「わかった」
「迎えは大丈夫です。女将さんのところからなら道もわかりますし」
「……日が傾く前には帰ってこい」
「はい」
「もし遅くなるなら、人を使って知らせろ」
「はい」
「知らない男に声をかけられても――」
「ついていきません」
「知らない女でもだ」
「それもわかってます」
「森の道で物音がしたら」
「立ち止まらずに屋敷へ向かいます」
何度も聞いた注意を私が先回りして言うと、エレンは少しだけ黙る。
そして、気まずそうに視線を逸らす。
「……しつこいか」
「少し」
私が正直に言うと、彼は傷ついたような顔をした。
だから私は続ける。
「でも、心配してくれているのはわかっています」
そう言うと、エレンは困ったように黙る。
以前なら、そこで「なら行くな」と言ったかもしれない。
今は言わない。
ただ、苦しそうに耐える。
その姿を見るたびに、胸の奥が柔らかく痛んだ。
私を閉じ込めようとした人。
私を怖がらせた人。
それでも今、私の意思を尊重しようとしている人。
エレンをそういうふうに見るようになってから、私は彼の小さな変化に気づくようになった。
たとえば、私がリーベルから帰ると、彼は必ず屋敷の前にいる。
偶然を装って、薪を運んでいたり、馬の手入れをしていたり、森の境界を確認していたりする。
けれど、私の姿を見つけた瞬間、彼の表情がわずかにほどけるから、待っていたのだとすぐにわかる。
「ただいま、エレン」
私が言う。
すると彼は、いつも少しだけ間を置いてから答える。
「おかえり、ミユウ」
その声を聞くのが、私は好きになっていた。
好き。
その言葉を自分の中で使うたびに、少しだけ戸惑う。
私はまだ、日本を忘れたわけではない。
元の世界へ帰りたい気持ちが消えたわけでもない。
スマホはもうほとんど電池が残っていないけれど、時々電源を入れて、写真を眺めることがある。
家族の写真。
大学の友達と撮った写真。
バイト先でふざけて撮った写真。
駅前のイルミネーション。
就活セミナーの日に撮った、慣れないスーツ姿の自分。
胸は痛む。
帰れるなら帰りたい。
そう思う日もある。
でも、屋敷の扉を開けて、エレンがこちらを見ると、別の気持ちも確かに生まれる。
ここにも、私の帰りを待つ人がいる。
そのことが、いつの間にか私の中で大きくなっていた。
その日、私は台所で小麦粉と格闘していた。
日本でよく食べていたホットケーキのようなものを作ってみたいと思ったのだ。もちろん、こちらにはホットケーキミックスなんてない。卵とミルクに似たもの、それから小麦粉と蜂蜜を混ぜて、何となくそれらしいものができないか試していた。
結果は、少し焦げた。
「……これは」
皿の上に乗った丸いような、丸くないような焼き菓子を見て、私は眉を寄せた。
エレンは隣で黙っている。
黙っているけれど、肩がわずかに震えていた。
「笑ってます?」
「笑っていない」
「今、絶対に笑いましたよね」
「笑っていない」
「じゃあ、食べてください」
私が皿を差し出すと、エレンは少しだけ躊躇した。
その反応に、今度は私が笑ってしまった。
「そんなに怖いですか」
「見た目が少し……独創的だ」
「それ、褒めてないですよね」
「褒めている」
「嘘です」
そう言うと、エレンの口元がほんの少し緩んだ。
以前の彼なら、こんなふうには笑わなかったと思う。
いや、私の前では笑わなかった。
ほんの少し、目元が和らぐだけ。
それでも私は、その変化を見つけるたびに嬉しくなる。
エレンは皿から小さく切った欠片を取り、口に入れた。
私はじっと見つめる。
「どうですか」
「……甘い」
「それは蜂蜜を入れたので」
「少し硬い」
「それは焦げたので」
「でも、食べられる」
「それ、かなり低い評価ですね」
私が唇を尖らせると、エレンは今度こそ小さく笑った。
声にはならなかった。
けれど、確かに笑った。
私はその顔を見て、胸が温かくなる。
その時だった。
玄関の方で、重い扉が叩かれる音がした。
私は瞬きをした。
この屋敷に訪ねてくる人はほとんどいない。
リーベルの商人が荷を届けることはあるけれど、事前に予定がある時だけだ。
エレンの表情が一瞬で変わった。
笑みが消える。
彼は皿を置き、私の前へ立つように動いた。
その動きに、私は胸の奥が少し冷たくなる。
守ろうとしている。
隠そうとしている。
その両方に見えた。
「エレン」
私は彼の袖を軽く掴んだ。
「大丈夫です。私も行きます」
エレンは私を見る。
明らかに迷っていた。
けれど、やがて小さく頷いた。
私たちは一緒に玄関へ向かった。
扉を開けた先に立っていたのは、背の高い男性だった。
エレンより少し年上に見える。深い金茶色の髪を後ろへ撫でつけ、上質な外套を身につけている。整った顔立ちはエレンとどこか似ていたが、目元はもっと鋭い。
男性の視線が、まずエレンへ向く。
「エレン」
「……兄上」
兄。
私は思わず背筋を伸ばした。
この人が、グランフェルト伯爵家の長兄。
エレンの家族。
男性――長兄は、すぐに私へ視線を移した。
その瞬間、彼の表情が凍った。
息を呑む音が聞こえた気がした。
彼は私を見ている。
けれど、今まで何度も見たことのある目だった。
私を見ているのに、私ではない誰かを見ている目。
サリュさんを知っている人の目。
「……まさか」
長兄の声が低く落ちた。
エレンが一歩、私の前に出ようとする。
私はその袖をもう一度掴んだ。
「エレン」
小さく呼ぶと、彼は止まった。
私は前へ出て、頭を下げた。
「初めまして。川崎美優と申します」
長兄は何も言わなかった。
ただ、私の名前を聞いて、わずかに眉を動かした。
「カワサキ、ミユウ」
「はい」
「……この国の名ではないな」
静かな声だった。
でも、そこにはもう疑念がある。
エレンの身体が強張るのがわかった。
長兄はエレンを見た。
「明細を見た」
短い言葉。
エレンは答えなかった。
「女物の服。靴。髪留め。香油。文字練習用の紙。若い娘が好みそうな菓子。屋敷の使用人は断り続けている。妙だと思って来てみれば」
長兄の視線が、もう一度私へ向く。
「サリュ・オルレインに瓜二つの娘がいる」
その名前が出た瞬間、エレンの空気が鋭くなった。
「兄上」
「しかも、名はこの国のものではない」
長兄は低く言った。
「異界落ちか」
その言葉に、私は喉の奥が詰まった。
隠せない。
そう思った。
エレンは何も言わない。
言えないのだと思った。
彼は私を隠した。
報告しなければならないと知っていて、しなかった。
その理由も、私は知っている。
私はゆっくり息を吸った。
「はい」
エレンが私を見た。
止めたそうな顔だった。
でも、私は首を横に振った。
「私は、この世界の人間ではありません。気づいたら、グランフェルトの森にいました」
長兄の目が細くなる。
「エレンが見つけたのか」
「はい」
「そして、報告しなかった」
その問いに答えたのは、エレンだった。
「俺が隠した」
声は静かだった。
でも、震えていた。
「ミユウは悪くない。俺が連れ帰った。俺が報告しなかった。責めるなら俺を責めてくれ」
長兄の表情が険しくなる。
「責める、責めないの話ではない。お前は自分の立場をわかっているのか。グランフェルト家はこの森を管理する義務がある。異界落ちを見つけたなら、王都へ報告する決まりだ」
「わかっている」
「わかっていて、隠したのか」
「ああ」
エレンは否定しなかった。
長兄の目に、怒りが浮かぶ。
けれどその怒りは、私に向けられたものではなかった。
弟に向けた怒りであり、心配であり、どうしようもない痛みのようにも見えた。
「なぜだ」
長兄が聞いた。
エレンは私を見た。
それから、長兄へ視線を戻す。
「失いたくなかった」
その答えに、長兄の顔がわずかに歪んだ。
たぶん、彼はその言葉の意味を誰より理解している。
サリュさんを失ってからのエレンを、見てきた人だから。
長兄はしばらく黙っていた。
やがて、私に向き直る。
「ミユウ嬢」
「はい」
「君は、ここに無理やり置かれているのか」
エレンの息が止まったのがわかった。
私は少しだけ目を伏せた。
嘘はつきたくなかった。
でも、すべてをこの場で言うことが正しいのかもわからなかった。
「最初は……怖いこともありました」
エレンの顔が青ざめる。
私は続けた。
「でも今は、自分の意思でここにいます」
長兄の目が私を探るように見た。
「本当に?」
「はい」
「エレンを庇っているのではなく?」
「庇いたい気持ちはあります」
正直に言うと、長兄は少し驚いたようだった。
「でも、それとは別に、私が選んでここにいます」
私はエレンを見た。
彼は苦しそうな顔をしている。
私はその顔に向かって、少しだけ微笑んだ。
「私は、エレンのところへ帰ってきました。逃げられる機会もありました。でも戻りました」
長兄は黙っている。
「もちろん、まだ迷いはあります。元の世界へ帰る方法を知りたい気持ちもあります。日本の家族のことも、友達のことも、忘れたわけではありません」
胸が痛んだ。
でも、今はその痛みを隠したくなかった。
「それでも、この世界で私の帰りを待ってくれる人は、エレンです」
言葉にした瞬間、エレンが私を見た。
泣きそうな顔だった。
長兄は、その表情を見逃さなかったと思う。
彼は、エレンをじっと見た。
長い沈黙が落ちる。
そして長兄は、低く息を吐いた。
「……数年ぶりに見たな」
エレンが眉を寄せる。
「何を」
「お前がそんな顔をするところを」
長兄の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「サリュが生きていた頃以来だ」
エレンは言葉を失った。
私はその横顔を見る。
エレンが、サリュさんといた頃にどんなふうに笑っていたのか、私は知らない。
でも、長兄は知っている。
その人が今のエレンを見て、そう言った。
サリュさんの代わりとしてではなく。
エレンがもう一度、誰かの隣で生きていると。
そう見えたのなら。
私の胸の奥に、小さな熱が灯った。
長兄――レオンハルト・グランフェルトは、その日は長く滞在しなかった。
本家に戻って話し合う、とだけ言い残して去っていった。
その背中を見送ったあと、エレンはしばらく玄関先に立ち尽くしていた。
私は隣に立ち、彼の横顔を見る。
「エレン」
「……すまない」
最初に出てきたのは、謝罪だった。
「お前を巻き込んだ」
「それは、最初からです」
少しだけ意地悪に言うと、エレンは苦しそうに目を伏せた。
私は慌てて首を振る。
「責めたいわけじゃありません。ただ、今さら私だけ安全なところにいるのは無理です」
「ミユウ」
「私も、ちゃんと向き合いたいです。エレンの家族にも。この世界にも」
エレンは何も言わなかった。
ただ、私の手を見ている。
触れていいか迷っているのだと、すぐにわかった。
私は自分から手を伸ばした。
彼の指先に触れる。
エレンの手が、びくりと揺れた。
「大丈夫です」
そう言うと、彼はそっと私の手を握った。
強くはない。
けれど、ひどくすがるような手だった。
「怖かったですか」
私が聞くと、エレンは少しだけ笑った。
笑ったというより、息を吐いたような顔だった。
「俺が?」
「はい」
「怖かった」
正直な答えだった。
「兄に知られたことが?」
「それもある」
「他には?」
エレンは少しだけ黙った。
「お前を、取られると思った」
胸が締めつけられる。
「兄上に。家に。王都に。研究院に。お前自身の元の世界に」
彼の手がかすかに震えた。
「全部が、お前を俺から奪うものに見えた」
以前のエレンなら、ここで鍵をかけたのかもしれない。
扉を閉ざして、誰にも会わせないようにしたのかもしれない。
でも、今の彼はそうしなかった。
私の手を握るだけで、踏みとどまっている。
「でも、鍵はかけませんでしたね」
私が言うと、エレンは目を伏せた。
「かけたかった」
私は息を呑む。
エレンは続けた。
「お前を奥の部屋に隠して、兄上が帰るまで出したくなかった。誰にも見せたくなかった。サリュに似ていると、異界落ちだと、誰にも気づかれたくなかった」
その言葉は、重かった。
でも、嘘ではなかった。
だから私は聞いていられた。
「でも、しなかった」
「ああ」
「どうして?」
エレンは私を見た。
「お前に嫌われる方が怖かった」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
怖いほど真っ直ぐな言葉だった。
「俺はまだ、まともではない」
エレンは低く言った。
「お前が外へ行くたびに怖い。帰ってくるまで落ち着かない。誰かと話しているのを見るだけで、胸の奥が醜くなる。今日も、兄上がお前を見た瞬間、隠したいと思った」
「……はい」
「だが、閉じ込めればお前は俺を嫌う」
彼は私の手を見下ろす。
「それが、今は一番怖い」
私は何も言えなかった。
歪んでいる。
その愛情は、たぶん普通ではない。
でも、エレンはその歪みを自覚して、必死に抱えている。
私を閉じ込めるのではなく、自分の中の衝動を閉じ込めようとしている。
それを見てしまうと、私はもう、この人をただ怖いだけの人にはできなかった。
長兄が来てから三日後。
グランフェルト家から、再び使者が来た。
今度はレオンハルトだけではなかった。
王都の王立異界研究院に勤めているという次兄、セドリック・グランフェルトも一緒だった。
セドリックはレオンハルトより少し柔らかい顔立ちをしていたが、目だけは鋭かった。研究者らしいと言えばいいのだろうか。私を見る視線は冷たいわけではないのに、何かを観察されているようで少し緊張した。
けれど彼は、最初にこう言った。
「怖がらせるつもりはありません。職業柄、見てしまうだけです」
その言葉に、私は少しだけ力が抜けた。
応接室で、私とエレンは並んで座った。
レオンハルトが口を開く。
「本家で話し合った。父上も母上も、姉も、セドリックも交えて」
エレンの手が膝の上で強張る。
私はその横顔を見て、そっと手を伸ばした。
机の下で、彼の指に触れる。
エレンは一瞬こちらを見て、それから私の手をそっと握り返した。
レオンハルトはそれを見ていたけれど、何も言わなかった。
「結論から言う。現時点では、ミユウ嬢を王都へ正式報告しない」
私は息を呑んだ。
エレンの手にも力がこもる。
「ただし、何もなかったことにはできない。グランフェルト家が管理する森で発見された異界落ちの者を、グランフェルト家の保護下に置いている。そういう扱いにする」
「兄上」
エレンの声が掠れた。
レオンハルトは厳しい顔のまま続ける。
「本来なら許されない。だが、セドリックから研究院の現状も聞いた」
セドリックが口を開いた。
「研究院は牢獄ではありません。ですが、自由な場所でもありません」
その言葉を、私は前にもエレンから聞いたような気がした。
「異界落ちの方は貴重です。言葉、持ち物、知識、身体的な特徴、魔力との関係。調べるべきことが多い。丁重に扱われるでしょうが、本人が望む暮らしとは限りません」
「帰る方法は、あるんですか」
私は聞いた。
セドリックは少しだけ目を伏せた。
「確実な方法は、まだ見つかっていません」
わかっていた。
それでも、胸が痛んだ。
「ただし、記録はあります。曖昧なものも多いですが、調べることはできます。あなたが望むなら、私が個人的に記録を探しましょう。研究院へ正式に報告する前に、可能な範囲で」
私は顔を上げた。
「いいんですか」
「弟が国法ぎりぎりのことをしている以上、兄としても多少は働かなければ」
セドリックはそう言って、ほんの少しだけエレンを見た。
皮肉のようで、でも完全に責めているわけではなさそうだった。
レオンハルトが続ける。
「ミユウ嬢。君が望むなら、グランフェルト本家で保護することもできる。エレンから離れたいなら、その方が安全だろう」
エレンの手が震えた。
私はその手を握り返す。
「私は、ここにいたいです」
迷いはなかった。
「エレンと、この森の屋敷にいたいです」
エレンが私を見た。
レオンハルトは、しばらく私を見ていた。
「エレンは、君を傷つけなかったか。昔から思い詰めると何をするかわからないところがあるから」
その問いに、エレンが息を詰める。
私はゆっくり答えた。
「傷つかなかったとは言えません」
レオンハルトの目が鋭くなる。
エレンは顔を伏せた。
「でも、今のエレンは私の言葉を聞こうとしてくれます。私を閉じ込めないと約束してくれました。私は、それを信じたいです」
「信じたい、か」
「はい。まだ全部信じられるわけではありません。でも、信じたいです」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「君は強いな」
「怖がりです」
「怖がっていても、自分で選ぼうとしている」
そう言われて、私は少しだけ胸が熱くなった。
怖い。
私は今でも怖い時もある。
でも、怖いからといって全部を誰かに預けるのは嫌だった。
エレンのことも。
この世界のことも。
帰るか残るかも。
自分で考えたかった。
レオンハルトはエレンへ視線を向けた。
「エレン」
「はい」
「次に彼女を怖がらせたら、私は兄としてお前を許さない」
低い声だった。
エレンは顔を上げた。
「ああ」
「グランフェルト家も庇えない」
「わかっている」
「本当にわかっているな」
「ああ」
エレンは私の手を握ったまま、はっきりと頷いた。
「もう、ミユウを閉じ込めない」
その言葉を聞いて、私は静かに息を吐いた。
完全な安心ではない。
でも、確かな一歩だった。
レオンハルトとセドリックが帰ったあと、屋敷は急に静かになった。
私は応接室の窓辺に立って、二人の馬車が森の道を遠ざかっていくのを見送った。
エレンは少し離れた場所に立っていた。
彼はずっと黙っていた。
家族に知られた。
異界落ちであることも、サリュさんに似ていることも。
それでも、私は王都へ送られなかった。
グランフェルト家の保護下に置かれることになった。
一応、一件落着なのだと思う。
でも私の胸の中は、落ち着かなかった。
緊張が解けたからかもしれない。
自分がここにいたいとはっきり言ったからかもしれない。
エレンの手がずっと震えていたことを、思い出してしまうからかもしれない。
「ミユウ」
エレンが呼んだ。
私は振り返る。
「後悔していないか」
その声は、とても静かだった。
「何をですか」
「ここにいたいと言ったことを」
私は少しだけ笑った。
「していません」
「本当に?」
「はい」
「俺の屋敷にいるということは、俺のそばにいるということだ」
「わかっています」
「俺は、まだお前を失うのが怖い」
「知っています」
「重い」
「知っています」
「面倒だ」
「それも少し知っています」
そう言うと、エレンは困ったような顔をした。
その顔が、私は好きだと思った。
唐突に、はっきりと思った。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
怖さも、迷いも、全部消えたわけではない。
日本への未練も、帰りたい気持ちも、まだある。
それでも今、目の前のこの人を好きだと思った。
この人の隣にいたいと思った。
この気持ちは、同情ではない。
サリュさんの代わりになるためでもない。
この世界で一人になるのが怖いからでもない。
エレンがいい。
そう思った。
「エレン」
私は彼の名前を呼んだ。
「何だ」
「私は、日本に未練があります」
エレンの表情が強張る。
「帰る方法を知りたい気持ちも、なくなったわけじゃありません」
「ああ」
「家族のことも、友達のことも、忘れたくありません」
「ああ」
「でも」
私は一歩、エレンへ近づいた。
「今、一緒にいたいのはエレンです」
エレンが息を止めた。
「この世界を知るなら、エレンの隣で知りたい。リーベルへ行って、文字を覚えて、帰る方法を探すとしても、帰ってくる場所はここがいい」
胸が高鳴る。
怖い。
でも、言いたい。
「私は、エレンが好きです」
言った瞬間、エレンの顔から血の気が引いた。
嬉しそう、ではなかった。
信じられないものを聞いたような顔だった。
「俺を?」
「はい」
「俺は、お前を閉じ込めた」
「はい」
「怖がらせた」
「はい」
「サリュに似ているから連れ帰った」
「知っています」
「それでも?」
声が震えていた。
私は頷いた。
「それでも、です」
エレンの目が揺れる。
「怖かったことは消えません。許せないこともあります。でも、それだけじゃなくなりました」
私はそっと手を伸ばした。
「優しかったことも、変わろうとしてくれていることも、私を待っていてくれることも、全部知っています」
指先が、エレンの手に触れる。
「私は、あなたを好きになりました」
エレンは動かなかった。
まるで、少しでも動けばこの瞬間が壊れてしまうと思っているみたいだった。
やがて、彼は低く聞いた。
「触れてもいいか」
私は頷いた。
「はい」
エレンの手が、そっと私の頬に触れた。
初めて会った時、彼は私を抱え上げた。
あの時の触れ方は、私の意思を置き去りにしていた。
でも今は違う。
指先は震えていて、少し臆病なくらい優しかった。
「口づけても」
彼はそこで言葉を止めた。
聞き慣れない言い方に、一瞬だけ胸が跳ねる。
私は小さく頷いた。
「はい」
エレンが近づく。
ゆっくりと。
逃げる時間をくれるように。
私は逃げなかった。
唇が触れた。
それは、思っていたよりもずっと優しいキスだった。
触れるだけ。
確かめるだけ。
けれど、エレンの手が私の頬に添えられたまま震えているのがわかって、胸が苦しくなった。
一度離れて、彼が私を見る。
「嫌ではないか」
「嫌じゃありません」
私が答えると、エレンの目が深く揺れた。
次のキスは、さっきより少し長かった。
唇の熱が重なる。
息が近くなる。
エレンの腕が私の背中へ回りかけて、途中で止まる。
私は自分から、その腕の中へ入った。
エレンが息を呑む。
「ミユウ」
「大丈夫です」
「俺は」
彼の声は掠れていた。
「我慢が、うまくない」
その言葉に、胸が熱くなった。
サリュさんにはできなかったこと。
待っていればいいと思って、何もできないまま失ったこと。
それが、エレンの中でどれほど深い後悔になっているのか、私は知っている。
だから、彼はもう我慢したくないのだと思う。
でも今のエレンは、私に聞いてくれる。
止まろうとしてくれる。
そのことが、私は嬉しかった。
「それでも、私が嫌だと言ったら止めてください」
「止める」
「本当に?」
「止める。たぶん、ひどく苦しいが」
正直な答えに、私は少しだけ笑ってしまった。
「そこは格好よく言い切ってください」
「嘘はつきたくない」
「そういうところ、エレンらしいです」
私が言うと、彼は苦しそうに目を伏せた。
「嫌なら、今言ってくれ」
「嫌じゃありません」
私は彼の服をそっと掴んだ。
「私も、エレンに触れてほしいです」
その瞬間、エレンの表情が崩れた。
泣きそうで、苦しそうで、それでも確かに幸せそうな顔だった。
彼は私を抱きしめた。
今度は強く。
けれど、逃げ道を塞ぐためではなかった。
私がその腕の中にいたいと思ったから、そこにいる。
それがわかっていた。
何度も名前を呼ばれた。
ミユウ、と。
サリュではなく。
誰かの代わりではなく。
私の名前を。
その夜、私は自分の意思でエレンのそばにいた。
日本への未練が消えたわけではない。
帰る方法を知りたい気持ちも、なくなったわけではない。
それでも、エレンに触れられることを選んだ。
エレンの孤独に同情したからではなく。
この世界で一人になるのが怖かったからでもなく。
私が、彼を好きになったから。
翌朝、目が覚めた時、私は一瞬だけ動けなかった。
見慣れた部屋ではない。
エレンの部屋だった。
隣には、エレンがいる。
彼は眠っていなかった。
私が目を開ける前から、ずっとこちらを見ていたようだった。
「……寝てないんですか」
声がかすれた。
エレンは少しだけ困ったように目を伏せる。
「眠るのが惜しかった」
「ちゃんと寝てください」
「無理だった」
「エレン」
「隣にお前がいたから」
その言葉に、顔が熱くなる。
私は布団を少しだけ引き上げた。
「そういうことを、朝から言わないでください」
「事実だ」
「余計に困ります」
エレンの口元がわずかに緩んだ。
その顔を見て、胸が甘く痛む。
「ミユウ」
「はい」
「後悔していないか」
またその問いだった。
私はエレンを見た。
昨夜、何度も確認された。
嫌ではないか。怖くないか。止めなくていいか。
彼は欲しがりながら、同じくらい怯えていた。
私を傷つけることを。
私に後悔されることを。
だから私は、ちゃんと答える。
「していません」
「本当に」
「本当に」
「……俺と、ここにいることも?」
「はい」
私は少しだけ身体を起こした。身体の甘い痛みが昨夜のことを思い出させる。
エレンも起き上がる。
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。
「日本のことは、忘れません」
私は言った。
「帰る方法も、いつか知りたいです。セドリックさんが記録を探してくれるなら、それも聞きたい」
「ああ」
「でも、今の私はエレンの隣にいたい」
エレンの目が揺れる。
「それが、今の私の本当です」
彼は何も言わなかった。
ただ、私の手を取って、額を寄せた。
祈るような仕草だった。
「ありがとう」
低く、掠れた声。
私は首を横に振る。
「お礼を言われることじゃありません」
「俺には、奇跡みたいなことだ」
その言葉に、胸が詰まった。
きっとエレンにとって、誰かが帰ってくることは奇跡なのだ。
待っていた人が帰ってこなかった過去があるから。
だから私は、何度でも言おうと思った。
「エレン」
「何だ」
「今日も、私はここにいます」
エレンが目を閉じた。
「明日も?」
「明日はリーベルに行くかもしれません」
彼の身体がわずかに固まる。
私は笑った。
「でも、帰ってきます」
エレンは目を開けた。
その目に、まだ不安はある。
けれど、以前より少しだけ、光があった。
「待っている」
「はい」
「迎えに行ってもいいか」
「時間を決めて、遅くなったら」
「わかった」
「勝手に来たら怒ります」
「……努力する」
「そこは約束してください」
「約束する」
私たちは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
完全に正しい恋ではないのかもしれない。
綺麗なだけの愛でもない。
エレンの中には、まだ重い不安と執着がある。
私の中にも、迷いと未練が残っている。
それでも、私たちはここから始めるのだと思った。
閉じ込められるためではなく。
誰かの代わりになるためでもなく。
私は、川崎美優として、エレンの隣にいる。
そして彼は、失われた初恋の影ではなく、私の名前を呼ぶ。
「ミユウ」
「はい」
「好きだ」
初めて、エレンがはっきりそう言った。
胸の奥が熱くなる。
私は彼の手を握り返した。
「私も好きです、エレン」
窓の外では、森が朝の光に揺れている。
かつて私を閉じ込めているように見えた森。
今は、その奥に続く道を知っている。
リーベルへ向かう道も。
王都へ続くかもしれない道も。
そして、この屋敷へ帰ってくる道も。
どの道を選ぶのか、まだ全部は決められない。
でも今は、ひとつだけ確かにわかっている。
私は今日も、この森の屋敷で生きていく。
亡き初恋の代わりではなく。
エレン・グランフェルトが愛した、私自身として。




