第五話 それでも、あなたのもとへ帰る
扉が開いてからも、すぐに何かが変わったわけではなかった。
私は相変わらず、森の屋敷にいた。
朝になれば、窓の外には深い森がある。
食堂へ降りれば、エレンが用意した食事がある。
暖炉には火が入っていて、湯は温かくて、夜は静かすぎるほど静かだった。
けれど、ひとつだけ確かに変わったことがある。
部屋の扉に、鍵はかかっていなかった。
私は何度も、それを確かめた。
朝起きて、取っ手を回す。
昼に部屋へ戻って、取っ手を回す。
夜、眠る前に、もう一度回す。
扉は開いた。
当たり前のことのはずなのに、そのたびに胸の奥でこわばっていたものが少しだけ緩む。
でも同時に、自分が何度も確かめずにはいられないことが悲しかった。
私はまだ、エレンを完全には信じられていない。
それは当然だと思う。
閉じ込められた。
怖かった。
あの日、どれだけ扉を叩いても開かなかった感覚は、まだ手のひらに残っている。取っ手を回しても動かなかった時の冷たさも、忘れられない。
けれど、エレンはあれ以来、私に触れようとしなくなった。
階段を降りる時も、以前なら当たり前のように手を差し出した。
森へ出ようとすると、すぐに外套を持ってついてきた。
お風呂が長くなると、扉の外から声をかけてきた。
でも今は、違う。
階段の下で待ってはいる。
森へ出ると聞けば、心配そうに立ち上がる。
浴室の前を通る足音は、いつもより多い。
それでも、彼は何も言わない。
私が求めるまで手を出さない。
私が呼ぶまで扉の外で声をかけない。
私が「一人で行きます」と言えば、ひどく苦しそうな顔をして、それでも頷く。
その姿を見るたびに、胸の奥がざわついた。
閉じ込められたことを、忘れたわけではない。
でも、エレンが変わろうとしていることも、私は見てしまっている。
それがずるいと思った。
怖いままでいさせてくれたらよかったのに。
怒りだけを抱えていられたら楽だったのに。
エレンは私を閉じ込めた人だ。
なのに、彼は毎朝、私の苦手な野菜を小さく刻んでいる。
私が寒そうにすれば、何も言わずに暖炉へ薪を足す。
私が無理に笑うと、それ以上踏み込まず、少しだけ距離を取る。
そして、食事の時には、以前より少しだけ自分も食べるようになった。
私が言ったからだ。
私ばかり食べて、エレンが食べないのは落ち着かない、と。
あんな状況で言った言葉を、彼はちゃんと覚えていた。
そういうところが、また私を困らせる。
扉が開いてから三日目の朝、私は食堂でエレンに言った。
「リーベルへ行きたいです」
エレンの手が止まった。
スープ皿を持つ指先が、ほんの少しだけ強張る。
けれど彼は、すぐに駄目だとは言わなかった。
以前なら、きっと即答だった。
危険だ。
行くな。
ここにいろ。
そう言われると思っていた私は、逆に息を詰めてしまった。
エレンはゆっくりと皿を置いた。
「今日か」
「はい」
「……何をしに」
「町を見に行きたいです。働ける場所があるかも知りたい。あと、異界落ちのことも、自分の耳で聞きたいです」
エレンの表情が曇る。
けれど、それでも彼は黙って聞いていた。
私は膝の上で手を握りしめた。
「一人では無理だと思っています。道もわからないし、まだ文字も全部読めないし、お金もありません。だから……」
そこで少し迷った。
頼るのは違うのではないかと思った。
エレンに閉じ込められたのに。
自由になりたいと言っているのに。
町へ行くためにエレンに頼むのは、おかしいのではないか。
でも、それでも。
この世界で今、私が頼れる人はエレンだけだった。
そのことが悔しくて、少し情けなくて、でも否定しても仕方なかった。
「一緒に来てくれませんか」
そう言うと、エレンは顔を上げた。
驚いたような顔だった。
「俺が?」
「はい」
「……俺でいいのか」
その声は、とても小さかった。
私は少しだけ息を吸う。
「エレンがいいです」
言ってから、自分の言葉に胸が鳴った。
エレンも動かなかった。
私は慌てて続けた。
「道を知っているし、この世界のこともわかっているからです。変な意味じゃなくて」
「……そうか」
エレンは目を伏せた。
その横顔に、ほんの少しだけ寂しそうな影が落ちる。
私は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
変な意味じゃない。
そう言ったのは本当だ。
でも本当に、それだけだったのだろうか。
道を知っているから。
この世界に詳しいから。
危険から守ってくれるから。
それもある。
でも、たぶんそれだけではない。
私はエレンと一緒にリーベルへ行きたいと思った。
町を見たいだけなら、一人で行く方法をもっと強く探してもよかった。
けれど私は、エレンに一緒に来てほしいと言った。
その理由を、まだ言葉にはできなかった。
「わかった」
エレンが静かに言った。
「馬を用意する」
「ありがとうございます」
「ただし」
私は少し身構えた。
けれど、エレンはすぐに言葉を続けなかった。
以前のように、危険だから駄目だと言われるのかと思った。
私の行動を細かく決められるのかと思った。
でもエレンは、苦しそうに息を吐いてから言った。
「嫌なら、いつでも言え」
「え?」
「俺が近くにいることが嫌なら、離れる。話しかけられたくなければ黙る。触れられたくなければ、触れない」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
エレンは私を見ないまま続けた。
「お前の行きたい場所へ行けばいい。俺は、道案内をする」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
不器用だと思った。
とても不器用で、でも本気なのだと思った。
「……ありがとうございます」
私がそう言うと、エレンは少しだけ頷いた。
リーベルへ向かう道は、思っていたよりも長かった。
屋敷の前から森の中へ続く細い道を進む。馬に乗るのは初めてではない。初めてこの屋敷へ連れてこられた日も、私はエレンの馬に乗せられた。
でもあの日は、怖くて、何もかもわからなくて、ただ身を固くしているだけだった。
今日は違う。
私は自分の意思で馬に乗っている。
前に私。後ろにエレン。初めての日と同じ位置なのに、まるで意味が違った。
エレンの腕は、私を囲むように手綱を握っている。
けれど、以前よりも距離があった。
落ちないように必要な範囲だけ。
必要以上には触れない。
そのことに気づいて、また胸が少し痛んだ。
馬の背が揺れるたびに、少しだけ身体が後ろへ傾く。エレンの胸に触れそうになって、私は慌てて姿勢を戻した。
すると背後から、小さな声がした。
「無理に離れなくていい」
私は息を止めた。
「落ちる方が危ない」
「……はい」
どう返せばいいかわからなくて、私は小さく頷いた。
少しだけ力を抜く。
背中に、エレンの体温を感じた。
知らない男の人の近さは怖いはずだった。
けれど今は、怖さだけではなかった。
落ち着く、とまでは言えない。
でも、ひとりで森を歩いていた時の心細さはなかった。
この人は、私を閉じ込めた。
それでも、この森の中で私を守ってくれる人でもある。
その二つが同時に存在していることを、私はまだうまく受け止めきれずにいた。
道の途中で、馬を降りて少し歩く場所があった。
木の根が張り出し、道が細くなっている。エレンは先に降り、私に手を差し出しかけて、途中で止めた。
その手が、宙で迷う。
私はそれを見ていた。
以前なら、彼は迷わなかった。
私の意思を聞く前に手を取って、危ないからと言った。
今は、違う。
怖がらせないように、必死に堪えている。
私はしばらく、その手を見つめた。
そして、自分から言った。
「手を貸してください」
エレンが顔を上げる。
その目に、驚きと、痛いくらいの安堵が浮かんだ。
「ああ」
彼は短く答えた。
差し出された手に、自分の手を重ねる。
エレンの手は、やっぱり温かかった。
強く握られることはなかった。
私が降りる間だけ、支えるように添えられている。
たったそれだけのことなのに、胸が苦しくなった。
閉じ込めた人。
私の意思を奪った人。
でも今、私の「手を貸して」に応えてくれる人。
私はこの人をどう思えばいいのだろう。
答えはまだ出なかった。
森を抜けると、少しずつ景色が変わった。
木々の間隔が広がり、踏み固められた道が現れる。遠くに畑が見えた。低い石垣と、赤茶色の屋根。煙突から上がる白い煙。
そして、町が見えた。
「あれがリーベル?」
「ああ」
リーベルの町は、私が想像していたよりも小さかった。
けれど、ちゃんと人がいた。
荷車を引く男性。井戸端で話している女性たち。店先に布を広げる商人。走り回る子ども。パンを焼く匂い。馬の鳴き声。どこかで鳴る鐘の音。
人の暮らしの音がした。
それを聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
私はずっと、人のいる場所に来たかった。
屋敷は静かだった。
森も静かだった。
エレンも静かだった。
リーベルは、騒がしい。
その騒がしさに、少しだけ泣きそうになった。
「大丈夫か」
エレンが低く聞いた。
私は頷いた。
「大丈夫です。ただ……人がいるなと思って」
そう言うと、エレンは何も言わなかった。
町の入口で、何人かがこちらを見た。
エレンに気づいたらしい。軽く頭を下げる人もいた。
「グランフェルト様」
通りがかった中年の男性が、エレンに声をかけた。
私は思わずエレンを見た。
様。
やっぱり、エレンはこのあたりでは身分のある人なのだ。
エレンは短く頷いただけだった。
男性の視線が私へ移る。
「そちらのお嬢さんは?」
私は身体を固くした。
どう答えればいいのかわからない。
異界落ちです、なんて言えるはずがない。
エレンが一歩、私の前に出かけた。
けれど、すぐに止まった。
私を隠すように立つのを、途中でやめたのだとわかった。
その代わり、彼は静かに言った。
「遠縁の娘だ。しばらく預かっている」
男性は納得したように頷いた。
「そうでしたか。森の屋敷も賑やかになりますな」
悪気のない言葉だったのだと思う。
でも、エレンの肩が一瞬だけ強張った。
「……ああ」
それだけ答えて、彼は歩き出した。
私は隣を歩きながら、そっと聞いた。
「遠縁の娘って、大丈夫なんですか」
「しばらくは」
「嘘をつかせてしまって、すみません」
エレンは私を見た。
「俺が決めたことだ」
「でも」
「お前が謝ることじゃない」
短い言葉だった。
けれど、以前とは違って聞こえた。
私に責任を負わせないようにしている。
そう感じた。
リーベルの市場は、思っていたよりも賑やかだった。
野菜や果物が並び、香辛料の匂いがする。布地を売る店、革製品の店、焼き菓子の店。見たことのない魚の干物や、色鮮やかな瓶詰めもあった。
エレンは必要以上に私を止めなかった。
私が店先を覗くと、少し離れて待っている。
私が足を止めると、歩幅を合わせる。
人混みで肩がぶつかりそうになると、一瞬だけ手を伸ばしかけて、また引っ込める。
そのたびに、私は少しずつ胸が痛くなった。
私を閉じ込めた彼は怖いと思っていた。
でも、今は私を怖がらせないようにしている。
「ミユウ」
名前を呼ばれて振り返ると、エレンが小さな焼き菓子を持っていた。
「食べるか」
「え?」
「さっき、見ていた」
私は思わず瞬きをした。
確かに、店先の焼き菓子を見ていた。丸くて、砂糖のようなものがまぶされていて、少しだけドーナツに似ていたから。
「見てただけです」
「食べたいのかと思った」
「……少しだけ」
正直に言うと、エレンは店主に硬貨を渡した。
焼き菓子が紙に包まれて、私の手に乗る。
温かかった。
「あの、お金……」
「気にするな」
「気にします」
「なら、いつか返せ」
私は顔を上げた。
エレンは私を見ていた。
「お前が働くなら、その時に」
その言葉に、胸が詰まった。
エレンが、私が働く未来を口にした。
ここにいろ、と言い続けた人が。
「……はい」
私は小さく頷いた。
「返します」
焼き菓子は、外側が少し固くて、中は柔らかかった。甘さは控えめで、香草のような香りがする。
「美味しい」
思わず言うと、エレンの表情が少しだけ緩んだ。
その顔を見た瞬間、私は目を逸らしてしまった。
どうしてだろう。
エレンが少し笑うと、私は困る。
怖い人のままでいてくれた方が、ずっと簡単なのに。
市場を抜けたところに、小さな宿屋兼食堂があった。
エレンはそこを知っているらしく、店の女性に短く挨拶した。
「まあ、グランフェルト様。珍しいですね」
恰幅のいい女性が、明るく笑った。
「森から出てこられるなんて。今日はお連れ様も?」
女性の視線が私に向く。
私は緊張しながら頭を下げた。
「ミユウです」
「まあ、可愛らしいお嬢さん。東の方の方かしら? 少し珍しい響きのお名前ね」
「あ、えっと……」
どう答えればいいかわからず詰まる。
エレンが口を開きかけた。
でも私は、その前に言った。
「遠いところから来ました。今は、エレンにお世話になっています」
自分で言えた。
嘘ではない。全部は言っていないけれど、嘘ではない。
女性はにこにこと頷いた。
「そうなの。大変だったわねえ。ここの食事は温かいから、ゆっくりしていくといいわ」
その普通の優しさに、私は少しだけほっとした。
席に着くと、エレンは向かいに座った。
食堂の中には他にも数人の客がいた。商人らしい人、農夫らしい人、旅装の男性。誰も私をじろじろ見ることはなかった。
それでも、私は落ち着かなかった。
ここでは私は異物だ。
服はエレンが用意してくれたこの世界のものを着ている。髪も簡単に結んでいる。けれど、話し方も、立ち居振る舞いも、きっとどこか違う。
食事を運んできてくれた女性に、私は思い切って聞いてみた。
「あの、このあたりで働ける場所ってありますか」
エレンがわずかに顔を上げた。
でも何も言わない。
女性は少し驚いたようにしたあと、私を見た。
「働き口?」
「はい。まだこの国の文字を勉強している途中なんですけど、掃除とか、洗濯とか、食堂のお手伝いとかなら……」
「そうねえ。紹介状があれば、住み込みの口もあるけど」
「紹介状」
「身元を保証してくれる人が必要なのよ。特に若い娘さんならね。親戚とか、雇い主とか、教会とか」
私は黙った。
身元を保証してくれる人。
この世界に、私にはそれがない。
戸籍もない。家族もいない。知り合いもいない。
私の身元を説明できるのは、今のところエレンだけだ。
女性は悪気なく続けた。
「グランフェルト様のご紹介なら、どこでも安心でしょうけどね」
私はエレンを見た。
エレンは静かに言った。
「必要なら、書く」
私は驚いた。
「いいんですか」
「ああ」
「でも、私が働くってことは、外に出るってことですよ」
わざと確認するように言った。
エレンの顔が少しだけ苦しげになる。
けれど彼は、頷いた。
「お前が望むなら」
その言葉に、胸の奥が苦しくなった。
お前が望むなら。
その言葉を聞きたかったはずなのに、聞いたら聞いたで、どうしてこんなに泣きそうになるのだろう。
食事のあと、私は女性にもうひとつ聞いた。
「異界落ちって、知っていますか」
エレンの空気が変わった。
でも止められなかった。
女性は少しだけ声を落とした。
「知っているわよ。この国では、たまに噂になるもの」
「本当に、いるんですか」
「さあねえ。私は見たことはないけど、王都にはそういう人を保護する場所があるんでしょう? 王立異界研究院だったかしら」
保護。
その言葉は、やっぱりどこか薄く聞こえた。
「そこへ行った人は、帰れるんですか」
女性は困ったように笑った。
「異界へ? それはわからないわ。少なくとも、私の周りで帰ったって話は聞いたことがないねえ」
「そうですか……」
「でも、王都なら悪いようにはしないでしょう。たぶんね」
たぶん。
その曖昧さが、怖かった。
女性が去ったあと、私はしばらく黙っていた。
エレンも何も言わなかった。
責めない。
止めない。
ただ、私が聞いた答えを一緒に受け止めている。
それが不思議だった。
以前なら、きっと聞かせないようにしたはずだ。
でも今は、私に聞かせてくれた。
「エレンの言っていたこと、嘘じゃなかったんですね」
私が言うと、エレンは目を伏せた。
「嘘は、ついていない」
「でも、全部も言ってくれなかった」
「ああ」
「それは、私を守るためでもあったんですか」
「そう思っていた」
私はその答えに、少しだけ笑ってしまった。
悲しくて、困って、どうしようもなくて。
「今は?」
聞くと、エレンは私を見た。
「お前を、俺のそばに留めるためだったとも思う」
正直な答えだった。
胸が痛かった。
でも、嘘をつかれるよりずっとよかった。
「そうですか」
「ああ」
私は窓の外を見た。
リーベルの通りを、人が行き交っている。
この町で働くことはできるかもしれない。
エレンが紹介状を書けば、きっと可能性はある。
王都へ行くこともできるかもしれない。
研究院へ行けば、何かわかるかもしれない。
でも、どの道も簡単ではなかった。
私は自由だ。
少なくとも今、エレンは私を止めていない。
けれど自由になった途端、私は自分が何も持っていないことを思い知った。
この世界での家も、身分も、仕事も、知識も、味方も。
そして、帰り道も。
その夜、私はリーベルの宿に泊まることになった。
私が、一人で考えたいと言ったからだ。
エレンは最初、何か言いかけた。
でも結局、頷いた。
「俺は下の部屋にいる」
「隣じゃないんですか」
「嫌だろう」
そう言われて、私は返事に詰まった。
嫌、ではなかった。
でも、隣にいたら、きっと私は安心してしまう。
安心して、自分で考えることをやめてしまうかもしれない。
「下なら、何かあれば呼べるから」
エレンはそう言った。
「呼ばれなければ、行かない」
「……はい」
私は鍵を受け取り、二階の部屋へ入った。
小さな部屋だった。
寝台と机と椅子。窓からはリーベルの通りが見える。森の屋敷の部屋よりずっと狭い。布団も少し硬い。
でも、ここにはエレンの気配がなかった。
扉の鍵は、私が内側からかけた。
自分で。
そのことが、ひどく大きな意味を持っているように思えた。
私は椅子に座り、窓の外を見た。
通りにはまだ少し人がいる。灯りが揺れて、誰かの笑い声が聞こえた。遠くで犬の鳴き声もする。
自由だ。
私は今、森の屋敷にいない。
エレンの部屋の近くにもいない。
私を閉じ込める扉もない。
そう思ったのに、胸の奥は少しも晴れなかった。
私はバッグからスマホを取り出した。
電源を入れる。
電池は二十四パーセント。
圏外。
暗い画面に映る自分の顔が、知らない人みたいに見えた。
「どうしよう……」
小さく呟く。
リーベルで働く。
王都へ行く。
研究院へ行く。
森の屋敷へ戻る。
選択肢は、いくつもあるように見えた。
でも、どれを選べばいいのかわからない。
私は元の世界へ帰りたい。
その気持ちは、今もある。
お母さんに会いたい。友達に連絡したい。大学へ戻りたい。就活セミナーが嫌だなんて言っていた自分に戻りたい。
けれど、帰れるかどうかはわからない。
研究院へ行っても、帰れる保証はない。
そして、森の屋敷へ戻れば、エレンがいる。
そのことを考えた瞬間、胸が静かに揺れた。
エレン。
あの人は、時として怖い。
間違えた。
私を閉じ込めた。
でも、私が町へ行きたいと言えば連れてきてくれた。
焼き菓子を買ってくれた。
働くなら紹介状を書くと言った。
宿に泊まりたいと言ったら、嫌だと言わず、下の部屋で待つと言った。
待つ。
その言葉に、私はふと気づいた。
エレンは、また待っている。
かつて、サリュさんが帰ってくるのを待っていた人。
帰ってこなかった人を、ずっと待ち続けて壊れてしまった人。
その人が今、私のために下の部屋で待っている。
私が呼ばない限り来ないと決めて。
私が明日、どこへ行くと言うのかもわからないまま。
私は胸を押さえた。
かわいそうだから戻るのは違う。
そう思った。
エレンの傷を埋めるために、私がそばにいるのは違う。
サリュさんの代わりになるのも違う。
彼の後悔をやり直すために、私の人生を差し出すのも違う。
それは何度考えても、違う。
でも。
私はエレンを置いていきたいのだろうか。
あの森の屋敷に、ひとり残したいのだろうか。
朝、食堂で向かい合って座ること。
森を歩く時、危ないと言われること。
文字をひとつ覚えるたびに、静かに頷いてくれること。
苦手な野菜を刻まれること。
湯上がりに、冷えるから早く髪を拭けと言われること。
思い出すのは、閉じ込められた部屋だけではなかった。
優しかった時間も、一緒に出てくる。
それが悔しかった。
私はエレンの優しさを、嫌いになりきれない。
それどころか。
下の部屋に彼がいると思うだけで、少しだけ安心している自分がいる。
泣きたくなった。
「好き、なのかな」
言葉にして、すぐに違うと思った。
まだ、そんなふうには言えない。
怖さがある。
怒りもある。
許せない気持ちも残っている。
でも、嫌いではない。
それだけは、もう誤魔化せなかった。
エレンのことをもっと知りたいと思っている。
サリュさんを失う前のエレンも。
失ってから森に閉じこもったエレンも。
私を見つけて壊れてしまったエレンも。
鍵を開けて、手を離そうとしているエレンも。
全部を知った上で、それでもそばにいたいのかどうか。
それを、私自身が確かめたい。
私は寝台に横になった。
宿の布団は少し硬くて、森の屋敷のものより冷たかった。
眠れると思っていたのに、なかなか眠れなかった。
扉の外から、エレンの足音はしない。
暖炉の薪が爆ぜる音もない。
私の部屋に合わせて用意された温かいお茶もない。
自由な夜は、思ったよりも寂しかった。
その寂しさに、私は少しだけ笑ってしまった。
私はたぶん、もう森の屋敷をただの檻だとは思えなくなっている。
あそこは怖い場所だった。
でも同時に、私がこの世界で初めて眠った場所だった。
初めて食事をもらった場所だった。
初めて名前を呼ばれた場所だった。
そして、エレンがいる場所だった。
翌朝、私は宿の階段を下りた。
食堂には、エレンがいた。
窓際の席に座って、手をつけていないカップを前に置いている。
私に気づくと、彼はすぐに立ち上がった。
けれど、近づいてはこなかった。
ただ、その場に立って私を見ている。
何かを待つように。
私は階段の最後の一段を下りて、彼の前へ行った。
「おはようございます」
そう言うと、エレンはわずかに目を見開いた。
「……おはよう」
いつもと同じ短い挨拶。
でも、その声は少しだけ掠れていた。
「眠れましたか」
私が聞くと、エレンは答えなかった。
答えないことが答えだった。
「エレン、ちゃんと寝てくださいって言いましたよね」
「……お前も、あまり眠れていない顔をしている」
「私は考え事をしていたので」
「俺もだ」
少しだけ、いつもの調子に戻った気がした。
私は息を吸った。
エレンはそれを見て、身体を強張らせる。
私が何を言うのか、怖いのだとわかった。
森には戻らない。
リーベルに残る。
王都へ行く。
研究院へ行く。
どれを言われても受け止めるつもりで、でも受け止めきれない顔をしている。
私は静かに言った。
「森の屋敷へ帰りたいです」
エレンは動かなかった。
本当に、息まで止めたように見えた。
「……帰る?」
「はい」
「屋敷へ?」
「はい」
「なぜ」
その声は、信じられないものを聞いたようだった。
私は少しだけ笑った。
「帰りたいと思ったからです」
エレンの目が揺れる。
「逃げられただろう」
「逃げようと思えば、たぶん」
「リーベルに残ることもできる。紹介状を書くと言った。王都へ行くことも」
「はい」
「なら、なぜ」
私はエレンを見上げた。
この言葉を言うのは、少し怖かった。
誤解されたくなかった。
可哀想だから戻ると思われたくなかった。
私が折れたのだと思われたくなかった。
でも、言わなければ伝わらない。
「怖かったからだけじゃありません」
エレンが黙る。
「リーベルで、外の世界が簡単じゃないことはわかりました。研究院も怖いです。身元がないと働くのも難しい。そういう意味では、エレンの屋敷は安全です」
「……」
「でも、それだけなら、私はたぶん帰りたいとは言いません」
私は胸の前で手を握った。
「エレンに、会いたいと思いました」
言ってしまった。
顔が熱くなる。
でも、目は逸らさなかった。
「昨日の夜、部屋で一人になって、自由だと思いました。自分で鍵をかけて、自分で眠れる。誰にも閉じ込められていない。そう思ったのに、なぜか落ち着かなくて」
エレンは動かなかった。
「エレンが下にいると思うと安心しました。でも、エレンが部屋に来ないことも安心しました。変ですよね」
「変ではない」
エレンの声は、とても低かった。
「私、まだエレンのことを全部許せたわけじゃないです」
「ああ」
「閉じ込められたことは、怖かったです。思い出すと今でも嫌です」
「ああ」
「でも、エレンのことを嫌いになりたくないと思いました」
エレンの目が苦しそうに細められる。
「それで、考えました。嫌いになりたくないだけなのか、怖いから頼っているだけなのか、それとも……」
そこから先は、少しだけ言葉に詰まった。
好き。
その二文字は、まだ重かった。
けれど、それに近いところまで来ているのは、もうわかっていた。
「エレンと一緒にいたいのか」
私がそう言うと、エレンの顔が痛みを堪えるように歪んだ。
「ミユウ」
「私は、エレンと一緒にいたいです」
はっきりと言った。
胸がどきどきしている。
でも、不思議と後悔はなかった。
「ただし」
私はすぐに続けた。
「閉じ込められるのは嫌です」
エレンは頷いた。
「わかっている」
「町へはまた来ます。働けるかどうかも考えます。文字ももっと勉強します。王都のことも、研究院のことも、ちゃんと知りたいです」
「ああ」
「私は外を知ります。自分で選びたいから」
「ああ」
「その上で、帰る場所をエレンの屋敷にしたいです」
言った瞬間、エレンの目が大きく揺れた。
彼は何かを言おうとして、でも言葉にならないようだった。
私は少しだけ近づいた。
「逃げません」
エレンが息を呑む。
「でも、鍵はかけないでください」
「かけない」
「絶対に」
「かけない」
「不安になっても?」
「……かけない」
少し間があった。
正直だと思った。
不安にならないとは言わない。
怖くならないとも言わない。
それでも、かけないと言った。
私は小さく頷いた。
「なら、帰ります」
エレンはしばらく私を見ていた。
そして、とても静かに言った。
「触れてもいいか」
その一言に、胸が詰まった。
以前のエレンなら、きっと聞かなかった。
森で拾った時も、階段を降りる時も、外を歩く時も。彼は私を守るために触れた。私の意思を確認する前に。
今は、聞いてくれる。
私はゆっくりと頷いた。
「はい」
次の瞬間、エレンが私を抱きしめた。
強かった。
でも、痛くはなかった。
以前なら、逃がさないための腕だったかもしれない。
今は違う。
震えている。
エレンの腕が、かすかに震えていた。
私は少し迷ってから、彼の背に手を回した。
エレンの身体が、さらに強張る。
「ミユウ」
耳元で呼ばれた名前が、ひどく苦しそうで、ひどく大切そうだった。
「帰ってくるのか」
「はい」
「俺のところへ」
「はい」
「……本当に?」
その声を聞いた時、私は思った。
この人は、まだ信じられないのだ。
帰ってくると言われても、信じたいのに信じられない。
もう二度と失いたくないと思いながら、手を離すことを覚えようとしている。
私は腕の中で、小さく息を吐いた。
「本当です」
そう言ってから、少しだけ意地悪をしたくなった。
「でも、帰りが遅いだけで閉じ込めようとしたら怒ります」
「……しない」
「迎えに来るのは?」
「それは」
エレンが詰まった。
私は少し笑った。
「迎えに来るくらいなら、相談してください」
「相談」
「勝手に決めないでください」
「……わかった」
たぶん、完全にはわかっていない。
でも、わかろうとしている。
それで今は十分だと思った。
森の屋敷へ戻る道は、昨日とは違って見えた。
リーベルの賑わいから離れ、畑を抜け、森の道へ入る。木々が深くなるにつれて、空気がひんやりしていく。
私は馬の前に座り、手綱を持つエレンの腕の中にいた。
昨日よりも、少しだけ身体の力を抜いていた。
エレンは相変わらず必要以上には触れない。けれど、馬が揺れた時、私が少し後ろへ寄りかかっても何も言わなかった。
むしろ、落ちないようにほんの少しだけ腕の位置を変えた。
その気遣いに、胸が温かくなる。
「エレン」
「何だ」
「サリュさんのこと、いつかもっと聞かせてください」
背後の空気が、一瞬止まった。
「嫌なら、無理には聞きません。でも、エレンがどんなふうにその人を大切に思っていたのか、知りたいです」
「……なぜ」
「エレンを知りたいからです」
そう言うと、しばらく返事はなかった。
やがて、低い声が落ちてくる。
「お前は、嫌ではないのか」
「何がですか」
「俺が、サリュを忘れないこと」
私は少し考えた。
嫌ではない、と簡単には言えなかった。
胸が少し痛むのは本当だ。
自分とよく似た亡くなった初恋。
エレンが今も忘れられない人。
その存在に、何も感じないほど私は強くない。
でも。
「忘れたら、きっとエレンじゃなくなる気がします」
私はゆっくりと言った。
「エレンがサリュさんを大切に思っていたことも、失って傷ついたことも、今のエレンを作っているものだと思うから」
「……」
「ただ、私をその人の代わりにするのは嫌です」
「ああ」
「それだけです」
エレンはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「サリュは、穏やかな女だった」
「はい」
「だが、意外と頑固だった」
「少し聞いた気がします」
「お前とは違う」
「はい」
「本当に、違う」
その言い方が、どこか優しかった。
私は少しだけ振り返る。
「それ、褒めてますか?」
エレンは私を見下ろした。
「褒めている」
「本当に?」
「ああ」
「私、結構怒りますよ」
「知っている」
「納得できないとしつこいですよ」
「知っている」
「遠慮なく言う時もあります」
「知っている」
エレンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「だから、お前なんだろう」
胸が鳴った。
私は慌てて前を向いた。
顔が熱い。
ずるい。
そんな言い方をされたら、困る。
私はまだ、好きだと言うには早いと思っているのに。
それでも、今、確かに思ってしまった。
この人のそばにいたい。
怖さも、過ちも、傷も、全部なかったことにはできない。
でも、エレンが私を私として見ようとしてくれるなら、私もエレンを見たい。
失われた初恋に囚われた可哀想な人としてではなく。
私を閉じ込めた怖い人としてだけでもなく。
エレン・グランフェルトという、一人の人として。
森の屋敷が見えた時、私は不思議な気持ちになった。
昨日ここを出た時、私は自由になった気がした。
そして今、戻ってきたのに、閉じ込められたとは思わなかった。
屋敷の扉は閉まっている。
けれど、鍵はかかっていない。
たぶん、これからもかけないとエレンは言った。
私は馬から降りる時、エレンの手を借りた。
地面に足がつく。
屋敷の前に立つ。
深い森の中の、静かな屋敷。
私がこの世界で最初に眠った場所。
怖くて、優しくて、息苦しくて、温かい場所。
私は扉の前で振り返った。
エレンは、少し離れた場所に立っていた。
私が先に入るのを待っている。
押し込まない。
急かさない。
手を引かない。
ただ、待っている。
私はその姿を見て、胸の奥が柔らかく痛んだ。
「エレン」
「何だ」
「ただいま、でいいですか」
エレンの顔が、今まで見たことがないくらい揺れた。
泣きそうなのに、泣き方がわからない人みたいな顔だった。
彼は少しだけ目を伏せて、それから答えた。
「……ああ」
私は屋敷の扉を開けた。
中は、昨日までと同じだった。
古い絨毯。静かな廊下。暖炉の匂い。少しだけ埃っぽい空気。
でも、昨日までとは違う。
私は、自分の足でここへ帰ってきた。
「ただいま、エレン」
そう言うと、背後でエレンが小さく息を呑んだ。
しばらくして、低い声が返ってくる。
「おかえり、ミユウ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
帰る場所。
そう呼ぶには、まだ少し怖い。
でも、この場所をそうしたいと思った。
私は振り返り、エレンを見た。
「約束してください」
「ああ」
「鍵はかけない」
「かけない」
「町へ行く時は、相談する」
「する」
「私が働きたいと言ったら、一緒に考える」
「考える」
「エレンも、ちゃんと食べる」
「……それもか」
「それもです」
エレンは少しだけ困ったように目を伏せた。
「わかった」
「あと」
私は少し迷ってから、言った。
「不安になったら、閉じ込めるんじゃなくて、言ってください」
エレンが私を見る。
「私も、全部うまく答えられるわけじゃないです。でも、言ってくれたら聞きます」
「……俺の不安を?」
「はい」
「重いぞ」
「知ってます」
即答すると、エレンがわずかに目を見開いた。
私は少し笑った。
「知ってます。そのうえで、聞きます」
エレンは何も言わなかった。
ただ、痛いほどまっすぐに私を見ていた。
その視線は、もう私の向こう側の誰かを見てはいなかった。
少なくとも、今は。
私だけを見ている。
そう感じた。
私は一歩、エレンに近づいた。
「触れても、いいですか」
今度は、私が聞いた。
エレンの喉が小さく動く。
「ああ」
私は手を伸ばし、彼の袖を軽く掴んだ。
抱きしめるほどの勇気は、まだなかった。
でも、離れたくなかった。
エレンはその手を見下ろして、しばらく動かなかった。
そして、私に触れてもいいかと目で尋ねるように見た。
私は頷いた。
彼の手が、そっと私の手に重なる。
強く握らない。
逃がさないためではなく、確かめるように。
私はその手を、握り返した。
エレンの指が震えた。
その震えごと、私は受け止めたいと思ってしまった。
好き、とはまだ言わない。
けれど、きっともう、かなり近いところまで来ている。
この人と一緒にいたい。
この人の不安を知りたい。
この人が変わろうとするところを見ていたい。
そして、私自身も、この世界でどう生きるのかを、この人の隣で考えたい。
それは、同情ではなかった。
怖さに負けたわけでもなかった。
自分で選んだ気持ちだった。
「エレン」
「何だ」
「私は、逃げません」
エレンの手に力がこもりかけて、すぐに緩んだ。
閉じ込めるための力ではない。
堪えるための力だった。
「でも、外へは行きます」
「ああ」
「帰ってきます」
「……ああ」
「だから、待っていてくれますか」
エレンは目を閉じた。
その顔は、泣きそうだった。
やがて彼は、低く、震える声で言った。
「待つ」
私は頷いた。
今度の「待つ」は、きっと過去とは違う。
帰ってこない人を待つのではなく、帰ってくると約束した私を待つ。
その違いを、これから何度も、少しずつ積み重ねていくのだと思う。
私はエレンの手を握ったまま、開いた扉の向こうに広がる森を見た。
外の世界は怖い。
この屋敷も、完全に安心できる場所になったわけではない。
それでも私は、ここへ帰ってきた。
誰かの代わりとしてではなく。
閉じ込められるためでもなく。
私自身の意思で、エレンのもとへ。
そして、彼の隣で生きる未来を、少しだけ見てみたいと思った。




