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第四話 私はあなたの初恋じゃない


 扉の向こうで、足音が遠ざかっていく。

 私はしばらく、そこから動けなかった。

 扉の取っ手を握ったまま、何度も回す。押す。引く。けれど、扉は少しも動かなかった。

 昨日までは開いたのに。

 何度も確かめた。

 いつでも出られるのだと、自分に言い聞かせていた。

 だから大丈夫だと思っていた。

 この屋敷は怖いけれど、逃げようと思えば逃げられる。

 エレンは何も教えてくれないけれど、私を無理に閉じ込めているわけではない。

 そう思いたかった。

 でも、今は違う。

 鍵がかかっている。

 その事実が、何よりもはっきりと私の胸を冷やしていた。

「……開けて」

 声が震えた。

「開けてください、エレン」

 返事はなかった。

 私は扉に額をつけたまま、ずるずると床に座り込んだ。足元に置いたバッグの紐が、指に絡まる。

 このバッグひとつで、どこへ行くつもりだったのだろう。

 リーベルという町。

 アルフェリア王国。

 王都ルーヴェルディア。

 王立異界研究院。

 名前だけは覚えた。

 でも道は知らない。文字もまだ少ししか読めない。お金もない。身分を証明するものもない。この世界の常識も、危険も、何も知らない。

 エレンが言ったことが全部嘘だとは思えなかった。

 王都に報告されれば、研究院に送られる。

 自由に暮らせるとは限らない。

 帰れる保証もない。

 それは、きっと本当なのだと思う。

 でも。

「だからって……」

 私は膝を抱えた。

「だからって、閉じ込めていい理由にはならない」

 声にした途端、涙がこぼれた。

 助けてもらった。

 それは本当だった。

 森で一人で倒れかけていた私を、エレンは拾ってくれた。水をくれた。食事を用意してくれた。風呂に入れてくれた。怪我を見てくれた。靴をくれた。森を歩く時は手を貸してくれた。

 優しかった。

 たぶん、優しかった。

 でも、私は彼の優しさの中に閉じ込められている。

 サリュ・オルレイン。

 その名前が、頭の中から離れなかった。

 エレンの初恋だった人。

 亡くなった人。

 そして、私はその人に似ているらしい。

 初めて会った時のエレンの目。

 浴室から出た時の、痛みに似た懐かしさ。

 私ではない誰かを呼びかけたような唇。

 全部、そこに繋がっていたのだと思うと、胸が苦しかった。

 私は拾われたのではなく、見つけられたのだ。

 失った人に似ていたから。

 彼の中に残った傷に、偶然、私の顔が触れてしまったから。

「私は、私なのに……」

 小さく呟いた声は、部屋の中に落ちて消えた。



     

 夕方になって、扉の外に足音が戻ってきた。

 私は寝台の端に座っていた。

 泣き疲れて、頭が痛かった。

 喉も渇いていた。

 けれど、扉に近づく気にはなれなかった。

 軽い音がして、鍵が回る。

 扉が開いた。

 エレンが立っていた。

 片手に盆を持っている。上にはスープとパン、それから湯気の立つカップが乗っていた。

 彼はいつも通りに見えた。

 でも、よく見ると顔色が悪かった。目の下に濃い影が落ちている。私よりずっと冷静に見えるのに、指先だけがわずかに強張っていた。

 エレンは部屋に入ってきて、机の上に盆を置いた。

「食べろ」

 いつもの短い言葉。

 私は答えなかった。

 エレンがこちらを見る。

「ミユウ」

「食べたくありません」

「食べなければ身体を壊す」

「それが心配なら、扉を開けてください。ここから出して」

 自分でも驚くほど、冷たい声が出た。

 エレンは黙った。

 私は彼を見つめる。

「閉じ込めておいて、食べろって言うんですか」

「……悪いと思っている」

「思っているなら開けてください」

 エレンは答えなかった。

 やっぱり、と私は思った。

 謝ることはできる。

 食事を運ぶこともできる。

 私を気遣うこともできる。

 でも、自由にはしてくれない。

 胸の奥に、怒りと悲しみが混ざっていく。

「どうしてですか」

 私は聞いた。

「どうして、そこまで私をここに置きたいんですか」

「言っただろう」

「失いたくない、ですか」

 エレンの目が揺れる。

「私はエレンのものじゃありません」

 その言葉に、彼は傷ついたような顔をした。

 でも、私は言わなければならなかった。

「私を助けてくれたことには感謝しています。でも、それとこれは違います。私がどこで生きるか、何を知るか、誰と会うかを、エレンが全部決めるのはおかしいです」

「外は危険だ」

「危険でも、私の人生です」

 声が震える。

 怖い。

 怖いけれど、それでも言う。

「私は、サリュさんじゃありません」

 部屋の空気が、ほんの少し震えた気がした。

 エレンは目を伏せた。

「わかっている」

「本当に?」

「ああ」

「じゃあ、どうして私を見る時、そんな顔をするんですか」

 エレンは何も言わなかった。

「初めて会った時も、昨日も、今も。エレンは時々、私じゃない誰かを見ているみたいな顔をします」

「……」

「その人に似ていたから連れてきたんですよね」

「最初は」

 また、その言葉だった。

 私は唇を噛んだ。

「最初はって、何ですか」

 エレンが私を見る。

 その目は、ひどく苦しそうだった。

「最初は、サリュが戻ってきたのかと思った」

 静かな声だった。

「そんなはずはないとわかっていた。死んだ人間が戻るわけがない。お前の服も、言葉も、持ち物も、何もかも違った。けれど顔を上げた瞬間、息ができなくなった」

 私は何も言えなかった。

 エレンは、机の横に立ったまま続けた。

「サリュは、俺の幼馴染だった」

 その名前を口にする彼の声は、とても柔らかくて、痛かった。

「オルレイン商会の娘で、父親に連れられてよく屋敷へ来ていた。俺は末子で、家を継ぐ予定はなかった。兄たちは忙しく、姉は年が離れていて、屋敷の中で俺はいつも半端だった」

 半端。

 エレンの口からそんな言葉が出るのが、少し意外だった。

 伯爵家の人。

 この深い森を管理する家の人。

 いつも静かで、何も動じないように見える人。

 でも彼にも、子どもの頃があったのだ。

「サリュは、俺を特別扱いしなかった。伯爵家の子としてではなく、エレンとして話しかけてきた。最初はうるさいと思った。屋敷の庭で迷うなと言っても、花を見つけるたびに立ち止まる。商家の娘だからか、何にでも値段をつけたがった。これは高そう、これは売れそう、これは買う人がいないから私だけが好きでいい、そんなことばかり言っていた」

 エレンの口元が、ほんの少しだけ動いた。

 笑ったのだと気づくまで、一瞬かかった。

 それは私が初めて見る、彼の過去に向けた笑みだった。

「控えめで、穏やかで、優しかった。自分から強く求めることは少なかったが、一度決めたことは譲らなかった。俺が家を出てさりゅと共にオルレイン商会を継ぐと言った時も、最初に反対したのはサリュだった」

「どうして……」

 思わず聞いていた。

 エレンは少しだけ私を見る。

「俺が、サリュのために全部を捨てるつもりだと思ったからだ」

 私は黙った。

「違うと言った。俺がそうしたかった。兄が家を継ぐ。次兄は王都へ行く。姉は嫁ぐ。俺はグランフェルトに残っても、残らなくてもよかった。なら、サリュと生きる道を選びたかった」

 エレンは手を握りしめた。

「サリュが成人したら、正式に結婚を申し込むつもりだった。互いに想いは伝えていた。だが、この国では婚約前に男女が深く交際することは好まれない。特に、貴族家の息子と商家の娘なら余計に」

 彼の声が少し低くなる。

「手が触れるだけで、胸がうるさかった。髪に落ちた花びらを取るだけで、何日も思い出した。もっと触れたかった。抱きしめたかった。口づけたかった。だが、できなかった」

 私は思わず視線を落とした。

 その言葉は、生々しいというより、あまりにも悲しかった。

 好きだったのだ。

 エレンは、本当にその人が好きだったのだと思った。

「急ぐ必要はないと思っていた。あと一年で、サリュは成人する。そうしたら婚約できる。婚約すれば、手を取ることも、隣に立つことも、未来を語ることも、誰に遠慮する必要もなくなる」

 そこで、エレンは言葉を切った。

 長い沈黙。

 私は続きを聞くのが怖かった。

 でも、エレンは続けた。

「俺の十八の誕生日が近かった」

 声がかすれていた。

「サリュは、贈り物を買いに王都へ行った。行きは父親の仕入れ馬車に乗っていた。帰りは、父親の商談が長引いたらしい。誕生日に間に合わせたいからと、一人で辻馬車に乗った」

 私は息を止めた。

「その馬車が、強盗に襲われた」

 胸が冷たくなった。

 エレンの目は、もう私を見ていなかった。

 遠い過去の、帰ってこなかった馬車を見ているようだった。

「金品目当てだった。サリュが狙われたわけではない。ただ、そこに乗っていただけだ。早く帰ろうとしただけだった。俺への贈り物を持って」

 言葉が、静かに崩れていく。

「俺は何もできなかった。何も知らなかった。屋敷で、彼女が帰ってくるのを待っていた。もうすぐ会えると思っていた。贈り物などいらなかった。ただ、生きて帰ってきてくれればよかったのに」

 エレンは片手で顔を覆った。

 その姿を見て、私の怒りは少しだけ行き場を失った。

 かわいそうだと思ってしまった。

 でも、すぐにその感情を止めた。

 かわいそうだからといって、私を閉じ込めていい理由にはならない。

 私は小さく息を吸った。

「……それで、私が似ていたから」

 エレンの手がゆっくりと下りる。

「森でお前を見つけた時、サリュが返されたのだと思った」

 その言い方に、胸が痛んだ。

 返された。

 失くしたものが、戻ってきたように。

「だが、すぐに違うとわかった」

 私は顔を上げた。

 エレンは私を見ていた。

「お前はサリュじゃない」

「……」

「サリュは、初対面の男に向かって『降ろしてください』と怒鳴らない」

 私は思わず瞬きをした。

 エレンは真剣な顔のままだった。

「サリュは、俺の目をまっすぐ見て『教えてください』とは言わない。納得できなければ何度でも聞き返すこともない。怖がっているのに、自分の意見を引っ込めないこともない」

「それは……」

 褒められているのか、呆れられているのかわからなかった。

 でもエレンの声は、静かに熱を帯びていた。

「最初の夜、お前は俺を怖がっていた。それでも食事を出せば、震えながら『ありがとうございます』と言った。足を痛めているのに、大丈夫だと強がった。名前を聞いた時も、俺を見上げて、自分の名を教えた」

 彼は、一つひとつ思い出すように言った。

「二日目の朝、俺が靴を持っていくと、お前は誰のものか聞きかけて、やめた。気づいていたんだろう。俺が、誰かのものだった靴を渡したのだと」

 私は息を呑んだ。

 確かに、気づいていた。

 でも聞けなかった。

「それでもお前は、履いた。そして礼を言った」

「……他に履くものがなかったからです」

「ああ」

 エレンは頷いた。

「それでも、礼を言った」

 胸が詰まる。

「森を歩いた時、お前は怖がっていたのに、朝の森を綺麗だと言った。俺にはもう、森はただの森だった。サリュを失ってから、何を見ても同じだった。だが、お前は光が綺麗だと言った。白い花を見て、名前を聞いた。知らない鳥の声に驚いて、怖がりながらも笑った」

 そんなことまで覚えているのかと思った。

 私にとっては、ただの何気ない一日だった。

 異世界に来て、怖くて、でも朝の森が綺麗で、少しだけ救われたような気がした日。

 エレンは、それを見ていた。

「文字を教えた時もそうだ。お前は最初、まるで子どもに戻ったみたいだと悔しそうにしていた。けれど、三つ覚えればすぐに次を知りたがった。間違えると眉を寄せる。読めると、嬉しそうに笑う」

「……そんな顔、してましたか」

「していた」

 即答だった。

 私はなぜか、顔が熱くなった。

「食事もそうだ。苦手なものを隠そうとするくせに、顔に出る。だが、残すのは悪いと思って無理に食べる。次の日から小さく刻めば、気づいているくせに何も言わずに食べる」

「それは、だって……」

「湯が熱すぎる時は、黙って我慢する。寒い時も、言うのが遅い。だが、俺が気づくと困ったように笑う」

 エレンの声が、少しずつ苦しくなっていく。

「サリュとは違う」

 彼は言った。

「似ているのは顔だけだ。いや、顔も、よく見れば違う。目の動きも、口元も、怒った時の眉も、笑い方も、全部違う」

 私は動けなかった。

「似ているから連れ帰った」

 エレンの目が私を捕らえる。

「だが、違うとわかるたびに、お前から目が離せなくなった」

 胸が鳴った。

 怖いのに。

 怒っているのに。

 その言葉に、どうしようもなく心が揺れた。

「サリュを思い出して苦しいのに、お前がサリュではないと知るたびに、息ができる気がした。お前が怒れば、サリュではないと思った。俺を睨めば、サリュではないと思った。自分で働きたいと言った時も、外へ出ると言った時も」

 エレンは唇を噛んだ。

「サリュなら、そんなふうには言わなかった」

「だから、嫌だったんですか」

「違う」

 彼は首を振った。

「怖かった」

 その言葉は、あまりにも正直だった。

「お前がサリュではないとわかった。だからこそ怖かった。また別の誰かを失うのではなく、ミユウを失うのが怖くなった」

 私は息を呑んだ。

「最初は、サリュに似ていたから手放せなかった。だが今は違う。似ているからではない」

 エレンの声が震えた。

「お前だから、手放せない」

 部屋の中が、静まり返った。

 私は何も言えなかった。

 今の言葉を、信じたいと思ってしまった。

 でも、信じるには遅すぎた。

 だって私は今、閉じ込められている。

 どれほど真剣な言葉を重ねられても、その事実は消えない。

 私はゆっくりと立ち上がった。

 エレンがわずかに身構える。

 私は彼から少し離れた場所で、まっすぐに見た。

「それなら、どうして閉じ込めるんですか」

 エレンは黙った。

「私を好きだと言うなら、どうして私の言葉を聞いてくれないんですか」

「……失いたくない」

「私を失いたくないから、私を傷つけるんですか」

 エレンの顔が歪んだ。

「違う」

「違わないです」

 私は首を振った。

「私は怖かった。今も怖いです。エレンが何を考えているのかわからなくて、外へ行きたいと言っただけで閉じ込められて、扉が開かなくて……本当に怖かった」

「ミユウ」

「私をサリュさんの代わりにしないでください」

 涙が滲んだ。

 でも目を逸らさなかった。

「私に、あなたの後悔をやり直させないで」

 エレンが息を止めた。

 その言葉が彼に届いたのがわかった。

 痛い場所に、深く刺さったのだと思った。

「サリュさんにできなかったことを、私にすれば取り戻せるわけじゃない。サリュさんを守れなかったからって、私を閉じ込めれば安心できるわけでもない」

 声が震える。

「私は、私です」

 言った瞬間、涙がこぼれた。

「川崎美優です。二十一歳で、大学三年生で、就活セミナーの帰りに変な森へ落ちて、何もわからなくて、怖くて、でも何とかしなきゃって思ってる。ただの私です」

 エレンは動かなかった。

 私は続けた。

「エレンに助けてもらったこと、感謝しています。エレンが優しかったことも、嘘だと思いたくない。でも、閉じ込められたら、その優しさまで怖くなる」

「……」

「私を好きだと言うなら、私を見てください」

 エレンの目が揺れる。

「サリュさんに似ている私じゃなくて、あなたのところから出ていこうとする私も、怒る私も、怖がる私も、全部見てください」

 声が、少しだけ掠れた。

「それでも好きだと言うなら、鍵を開けてください」

 部屋の中に、長い沈黙が落ちた。

 暖炉の火が小さく爆ぜる。

 窓の外では、風が森を揺らしている。

 エレンは私を見ていた。

 何かを言おうとして、何度も唇を動かす。

 けれど言葉にならない。

 そしてようやく、彼は小さく呟いた。

「開けたら」

 声が低かった。

「お前は出ていく」

「出ていくかもしれません」

 私は正直に言った。

 エレンの顔が青ざめる。

 胸が痛んだ。

 でも、嘘はつけなかった。

「でも、閉じ込められたままなら、私はエレンを嫌いになります」

 それは、たぶん一番言いたくなかった言葉だった。

 エレンが、目に見えて傷ついた。

「嫌いに……」

「なりたくないです」

 私は泣きながら言った。

「なりたくないから、開けてください」

 どうしてこんな言い方になってしまうのだろう。

 どうして私は、閉じ込めた相手を嫌いになりたくないと思っているのだろう。

 自分でもわからなかった。

 でも本当だった。

 エレンの優しさを、全部嘘にしたくなかった。

 私の名前を呼ぶ声を、怖いだけのものにしたくなかった。

 森で手を貸してくれた温かさまで、憎みたくなかった。

 エレンはゆっくりと目を閉じた。

 その顔は、何かを手放す人の顔だった。

「……俺は」

 かすれた声だった。

「一度目の恋で、何もできなかった」

 私は黙って聞いていた。

「触れることも、抱きしめることも、守ることもできなかった。何も奪わなかった。何も望まなかった。待っていればいいと思った。正しくあれば、いつか手に入ると思った」

 彼の拳が震えている。

「だが失った」

 低い声。

「何もしていないのに失った。だから、今度は何もしないで失うのが怖かった。お前が欲しいと思った時、待つことが怖かった。正しくあることが怖かった。外へ出すことが怖かった」

 エレンは目を開けた。

「俺は、お前を守りたいと思っていた」

「……はい」

「だが本当は、守ると言いながら、自分が安心したかっただけかもしれない」

 その言葉を聞いた時、胸の奥が少しだけ震えた。

 エレンが、自分でそれを認めた。

 守るためではなく、安心したかった。

 私を閉じ込めた理由の中に、自分のための欲があったのだと。

「悪かった」

 エレンが言った。

 それは、今までで一番静かな謝罪だった。

「怖がらせた」

 私は唇を噛む。

「傷つけた」

 エレンは私から目を逸らさなかった。

「お前を、見ていなかった」

 その瞬間、堪えていた涙がまたこぼれた。

 怒りが消えたわけではない。

 怖さも残っている。

 許せるかどうかもわからない。

 でも、彼の言葉は私の胸に届いた。

 エレンは机の上に置いた盆を少し横へ寄せた。

 そして、扉の方へ向かう。

 私は息を止めた。

 彼は扉を開け、外へ出る。

 また閉められるのかと思った。

 けれど、違った。

 廊下側から鍵を外す音がした。

 金属が擦れる、小さな音。

 エレンは廊下に立ち、私を見ていた。

「鍵は取り外した」

 ただ、それだけを言った。

 私は動けなかった。

 扉は開いている。

 本当に開いている。

「出ていくなら、止めない」

 エレンの声は、今にも壊れそうだった。

「リーベルへ行きたいなら、道は教える。必要な金も渡す。研究院に行くと言うなら……」

 そこで彼は、少しだけ言葉に詰まった。

「連れていく」

 絞り出すような声だった。

「だが」

 エレンの目が私を見た。

「頼む」

 その言葉は、命令ではなかった。

 初めて聞く、本当の懇願だった。

「俺を、置いていかないでくれ」

 胸が痛んだ。

 ずるい、と思った。

 そんな顔をしないでほしかった。

 そんな声で言わないでほしかった。

 私は怒っている。怖かった。閉じ込められたことを、なかったことにはできない。

 それなのに、彼の痛みを見てしまう。

 失った人を待ち続けて、帰ってこなかった過去。

 何もできなかった後悔。

 似ていたから連れ帰って、違うから好きになって、それでも失うのが怖くて壊れてしまった人。

 私は扉の前に立つエレンを見つめた。

「……今日は、出ていきません」

 言うと、エレンの目が大きく揺れた。

「でも、許したわけじゃないです」

「ああ」

「閉じ込められたこと、怖かったです」

「ああ」

「次に同じことをしたら、私は本当にエレンを嫌いになります」

 エレンは苦しそうに頷いた。

「わかっている」

「本当に?」

「……わかるようにする」

 その答えが不器用で、少しだけ泣きそうになった。

 私は扉の外へ一歩出た。

 廊下の空気は、部屋の中より少し冷たかった。

 たった一歩だった。

 でも、閉じ込められていた部屋から自分の足で出る一歩だった。

 エレンは私に触れなかった。

 いつもなら、転ばないようにとすぐ手を伸ばすのに。

 今は、震える指を握りしめて、ただ私を見ていた。

 私はその横を通り過ぎる。

 廊下を数歩進んでから、振り返った。

 エレンは同じ場所に立っていた。

 私を追いかけたいのを、必死に堪えているように見えた。

「エレン」

 呼ぶと、彼が顔を上げる。

「私は、サリュさんじゃありません」

「ああ」

「あなたの初恋にも、なれません」

 エレンの瞳が揺れた。

 けれど私は続けた。

「でも、私を私として見てくれるなら……話は、聞きます」

 それが今の私に言える精一杯だった。

 好きだとは言えない。

 許すとも言えない。

 ここにいるとも、出ていくとも、まだ決められない。

 でも、完全に背を向けることもできなかった。

 エレンはゆっくりと頷いた。

「ミユウ」

「はい」

「俺は、サリュを忘れない」

「……はい」

「だが、お前をサリュの代わりにはしない」

 その言葉を、信じてもいいのかはわからない。

 けれど、信じたいと思った。

 そう思ってしまった自分に、少しだけ戸惑いながら、私は小さく頷いた。

「なら、まずは食事をちゃんと食べてください」

 ふと、そんな言葉が口から出た。

 エレンが瞬きをする。

「私ばかり食べて、エレンはいつもほとんど食べてないじゃないですか。そういうところも、見ていて落ち着かないんです」

「……今、それを言うのか」

 少しだけ呆れたような声だった。

 私は涙を拭って、ほんのわずかに笑った。

「言います。私はサリュさんじゃないので」

 エレンは黙った。

 そして、初めてほんの少しだけ、痛みの混じった顔で笑った。

「そうだったな」

 その笑みを見た瞬間、胸の奥が小さく揺れた。

 この人は怖い。

 間違えた。

 私を傷つけた。

 でも、それだけではないのだと思ってしまう。

 開いた扉の向こうで、私はまだ知らない世界を見ている。

 アルフェリア王国。

 リーベルの町。

 王都ルーヴェルディア。

 異界落ちの研究院。

 怖いものはたくさんある。

 エレンも、まだ少し怖い。

 それでも今、私の前にある扉は開いている。

 私はそのことを、忘れないようにしようと思った。

 そして同じくらい、エレンにも忘れさせない。

 私は誰かの代わりではない。

 閉じ込められるために、この世界へ来たわけでもない。

 私は、私の足で歩く。

 たとえその先に、またエレンのいる屋敷へ戻る日が来るとしても。

 それを決めるのは、私でいたかった。



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