失われた初恋と、二度目の恋(エレンside)
ミユウが眠っている。
俺の腕の中で、静かな寝息を立てている。
薄い朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、彼女の頬に淡く落ちていた。黒い髪が枕の上に広がり、伏せた睫毛が小さく影を作っている。
初めて森で見つけた時も、俺はこの顔に息を止めた。
ありえないと思った。
死者が戻るはずなどない。
失ったものが、そのまま返されるはずなどない。
それでもあの瞬間、俺は理性を失った。
サリュだと思った。
いや、正確には違う。
サリュではないと、どこかでわかっていた。
髪の色も、身につけている奇妙な服も、怯えた時の目の動きも、俺の知る彼女とは違っていた。
それでも、似すぎていた。
俺の時間を七年前へ引き戻すには、十分すぎるほどに。
腕の中のミユウが、少しだけ身じろぎをした。
俺は息を潜める。
起こしたくない。
眠っている彼女を見るのが、好きだった。
無防備で、やわらかくて、ここにいるのだと確かめられるから。
以前の俺なら、きっとそう思った瞬間に扉へ鍵をかけただろう。
失いたくない。
誰にも見せたくない。
どこにも行かせたくない。
その衝動は、今も完全には消えていない。
けれど今、俺は鍵をかけない。
ミユウが目を覚ましたら、彼女は今日も自分の意思で部屋を出る。
リーベルへ行きたいと言うかもしれない。
セドリックが調べている異界落ちの記録を読みたいと言うかもしれない。
いつか、元の世界へ帰る方法が見つかるかもしれない。
その可能性を考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
それでも、鍵はかけない。
ミユウに嫌われる方が怖いから。
そして、ミユウを愛するということは、俺の恐怖で彼女を閉じ込めることではないと、ようやく知ったから。
そんな当たり前のことを、俺は二十五年生きて、二度目の恋でようやく知った。
サリュ・オルレインと初めて会った日のことは、よく覚えている。
彼女は父親に連れられて、グランフェルトの屋敷へ来ていた。
オルレイン商会は、うちに出入りしている商家のひとつだった。森の管理に必要な道具や、屋敷で使う布、香辛料、紙類。そういったものをよく納めていた。
サリュは、その商会の娘だった。
最初に見た時、彼女は父親の後ろに隠れるように立っていた。
淡い色の髪を丁寧に編み、緊張した顔で屋敷の床を見つめていた。
俺はその頃から、屋敷の中で少し持て余されていた。
長兄レオンハルトは、伯爵家の後継として教育を受けていた。
次兄セドリックは幼い頃から賢く、王都へ出ることを期待されていた。
姉は社交的で、母によく似て華やかだった。
俺は末子だった。
家を継ぐこともなく、特別な才があるわけでもなく、ただ「末の子」として扱われることが多かった。
不満があったわけではない。
愛されていなかったわけでもない。
けれど、自分がどこへ向かえばいいのかわからなかった。
そんな俺に、サリュは普通に話しかけてきた。
「あなたがエレン様?」
父親の後ろから顔を出して、そう聞いた。
俺は、子どもながらに少しむっとした。
「様はいらない」
「でも、伯爵家の方でしょう?」
「俺は家を継がない」
「じゃあ、エレン?」
「……それでいい」
サリュはふわりと笑った。
それが始まりだった。
彼女は控えめで、穏やかで、人の言葉をよく聞く子だった。
けれど、自分の中にある小さな好奇心にはとても素直だった。
屋敷の庭で花を見つければ立ち止まる。
珍しい彫刻を見れば、これは高そうだと言う。
古い壺を見て、これは売れるのかしらと真剣に考える。
商家の娘らしいところがあった。
俺には、それが面白かった。
貴族家の者たちは、物の値段をあからさまに口にしない。
だがサリュは、綺麗なものを綺麗だと言い、高そうなものを高そうだと言い、誰にも買われなさそうなものを「それなら私だけが好きでいい」と笑った。
俺は、サリュといると息がしやすかった。
彼女は俺を、グランフェルト伯爵家の末子として見なかった。
家を継がないからと軽んじることもなければ、貴族だからと遠ざかることもなかった。
ただ、エレンと呼んだ。
そのことが、嬉しかった。
いつ好きになったのかは、わからない。
気づけば、サリュが屋敷へ来る日を待つようになっていた。
彼女の父親が商談に来ると聞けば、落ち着かなくなった。
庭に出る口実を探し、廊下で会えば何でもないふりをして声をかけた。
彼女が笑うと、その日一日が明るくなった。
手が触れるだけで、胸がうるさくなった。
髪に落ちた花びらを取るだけで、何日もその感触を思い出した。
雨の日に自分の外套を貸した時は、彼女が袖を握りしめる手元ばかり見ていた。
本当は、もっと触れたかった。
抱きしめたかった。
口づけたかった。
好きだと、何度も言いたかった。
だが、できなかった。
この国では、正式な婚約前に男女が深く交際することは好まれない。まして俺は伯爵家の息子で、サリュは商家の娘だった。慎重でいるべきだと思っていた。
焦る必要はない。
そう信じていた。
サリュが成人したら、正式に婚約を申し込む。
俺は家を継がない。なら、オルレイン商会に入ってもいい。サリュの父親を手伝い、商家の仕事を覚え、彼女と一緒に生きる未来もある。
それを話した時、サリュは困ったように笑った。
「私のために、全部捨てようとしないで」
「捨てるんじゃない。選ぶんだ」
「エレンは、時々とても頑固ね」
「お前に言われたくない」
そう言うと、彼女は静かに笑った。
その笑顔を、俺は未来だと思っていた。
サリュと生きる未来。
当たり前に来るものだと、思っていた。
だが、その未来は来なかった。
俺の十八の誕生日が近かった。
サリュは贈り物を買いに王都へ行った。
行きは父親の仕入れ馬車に同乗していたという。だが帰りは、父親の商談が長引いた。
俺の誕生日に間に合わせたい。
そう言って、彼女は一人で辻馬車に乗った。
その馬車が、強盗に襲われた。
金品目当てだったらしい。
サリュが狙われたわけではない。
彼女が何かをしたわけでもない。
ただ、その馬車に乗っていただけだった。
早く帰ろうとしただけだった。
俺に贈り物を渡すために。
知らせを聞いた時のことは、よく覚えていない。
母が泣いていた。
父が何か言っていた。
レオンハルトが俺の肩を掴んでいた。
姉が口元を押さえていた。
セドリックは、真っ青な顔で立っていた。
俺だけが、何も言えなかった。
サリュが死んだ。
その意味を、理解できなかった。
昨日まで、彼女は生きていた。
次に会ったら、誕生日おめでとうと言ってくれるはずだった。
きっと少し照れながら、贈り物を差し出してくれるはずだった。
なのに、帰ってこなかった。
俺は何もできなかった。
王都へ行くなと言えばよかった。
一緒に行けばよかった。
誕生日の贈り物などいらないと言えばよかった。
もっと早く婚約を申し込めばよかった。
人目や慣習など気にせず、抱きしめていればよかった。
好きだと、もっと何度も言えばよかった。
後悔は、いくらでも湧いてきた。
だが、そのどれもが遅かった。
正しくあろうとしたこと。
大切にしようとしたこと。
焦らず待とうとしたこと。
それらすべてが、俺の中で呪いになった。
待っていても、未来は来ない。
大切にしていても、奪われる。
触れずに守っても、失う。
それなら、何の意味があったのか。
サリュを失ったあと、俺は少しずつ人と関われなくなった。
誰かの笑い声がつらかった。
屋敷の庭を見るのがつらかった。
オルレイン商会の名を聞くことすら苦しかった。
家族は俺を責めなかった。
誰も、俺のせいだとは言わなかった。
だから余計に、俺は自分を責めるしかなかった。
やがて俺は、グランフェルトの森にある別荘へ移った。
表向きは森の管理役。
異界落ちの監視と報告。
狩猟林の整備。
魔力の歪みの確認。
だが本当は、逃げただけだった。
人のいる場所から。
サリュがいない世界から。
彼女を思い出すものから。
逃げた先にあったのが、森の屋敷だった。
静かで、暗くて、誰もいない場所。
俺には、それで十分だった。
ミユウを見つけたのは、そんな森の中だった。
愛馬を走らせて、森の巡回をしていた。
何か特別な日ではなかった。
ただ、いつものように木々の間を進んでいた。
そこで、彼女を見つけた。
大きな木の根元に座り込んでいた。
奇妙な服を着て、黒い鞄を抱えて、泣きそうな顔でこちらを見上げていた。
その顔を見た瞬間、世界が止まった。
サリュ。
喉まで出かかった名前を、飲み込めたのかどうかも覚えていない。
心臓が痛いほど鳴った。
手綱を握る手が震えた。
息ができなかった。
戻ってきたのだと思った。
そんなはずはないと、理性は叫んでいた。
死者は戻らない。サリュはもういない。目の前の娘は別人だ。
それでも身体が先に動いた。
彼女が何かを言っていた。
ここはどこかと聞いていた。
人のいる場所を教えてほしいと言っていた。
俺は何も答えられなかった。
答えれば、この幻が消える気がした。
だから抱え上げた。
抵抗された。
降ろしてくれと言われた。
怖がらせているとわかっていた。
それでも、森に置いていけなかった。
義務はわかっていた。
異界落ちの可能性がある者を見つけたら、王都へ報告しなければならない。
グランフェルト家は、その森を管理している。
俺は、そのためにここにいる。
だが俺は、報告しなかった。
ミユウを屋敷へ連れ帰った。
最初は、サリュに似ていたから。
その事実を、俺は否定できない。
だが、彼女はすぐにサリュではないとわかった。
サリュは、初対面の男に向かって「降ろしてください」と怒鳴らない。
サリュは、怖がりながらも睨みつけるような目をしない。
サリュは、わからないことをそのままにせず、何度でも問い詰めることをしない。
ミユウは、サリュとは違った。
何もかも。
声も、話し方も、名前の響きも、怒り方も、怯え方も。
似ているのは顔だけだった。
いや、顔さえ、よく見れば違った。
サリュの目はもっと穏やかだった。
ミユウの目は、怖がりながらもまっすぐだった。
サリュの笑みは春の日差しのようにやわらかかった。
ミユウは、困ったように笑ったり、呆れたように笑ったり、時々こちらが何も言えなくなるほど自然に笑ったりした。
最初は、その違いに救われた。
サリュではない。
その事実に苦しみながら、同時に安堵していた。
サリュではないから、まだ失っていない。
サリュではないから、今度は目の前にいる。
だが、いつからか違っていく。
サリュではないことに安堵するだけではなく、ミユウであることに惹かれるようになった。
彼女は、何も知らない世界に落ちてきたのに、ただ怯えているだけではなかった。
最初の夜、俺に怯えながらも水を飲み、「ありがとうございます」と言った。
足を痛めているのに大丈夫だと強がった。
名前を聞けば、カワサキミユウだと教えた。
俺の名を聞いて、ぎこちなくエレンと呼んだ。
二日目の朝、靴を渡した時もそうだった。
誰のものか聞きかけて、やめた。
気づいていたのだと思う。
この屋敷に、以前誰か女性の持ち物があったのだと。
それでも彼女は、礼を言って履いた。
森を歩いた時、朝の光を見て綺麗だと言った。
俺にとって森は、ただの森だった。
サリュを失ってから、季節の移ろいも、花の色も、鳥の声も、どれも遠かった。
だがミユウは、その森を怖がりながらも綺麗だと言った。
白い花を見て、名前を聞いた。
知らない鳥の声に驚いた。
ぬかるみに足を取られそうになって怒った。
文字をひとつ覚えるたびに、少しだけ得意そうな顔をした。
食事の時は、苦手なものがすぐ顔に出る。
それなのに残すのは悪いと思うらしく、無理に飲み込む。
小さく刻めば、気づいているくせに何も言わない。
湯が熱すぎても我慢する。
寒くても言うのが遅い。
泣いていたくせに、泣いていないと嘘をつく。
俺が食べていないことに気づいて、怒る。
俺は、そんなミユウを見ていた。
サリュに似ているからではない。
ミユウがミユウだったから、目が離せなかった。
けれど、目が離せなくなるほど、怖くなった。
また失うのではないか。
外へ出したら、帰ってこないのではないか。
王都へ行けば、研究院に奪われるのではないか。
リーベルで誰かと出会えば、俺の元を離れるのではないか。
元の世界へ帰る方法が見つかれば、本当に帰ってしまうのではないか。
恐怖は、日に日に増していった。
そして俺は、間違えた。
ミユウがリーベルへ行きたいと言った日、俺の中で何かが壊れた。
町で働きたい。
自立したい。
助けてもらった礼はする。
また会いに来る。
彼女はそう言った。
また。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中にサリュの声が蘇った。
すぐに帰ってくる。
誕生日に間に合わせる。
そう言って、サリュは帰ってこなかった。
ミユウはサリュではない。
わかっていた。
それでも、帰ってこない未来しか見えなかった。
だから閉じ込めた。
俺の見えない場所へ行かせたくなかった。
外の世界に渡したくなかった。
研究院にも、王都にも、リーベルにも、誰にも。
守るためだと思った。
だが本当は、俺が失いたくなかっただけだ。
ミユウは泣いた。
怒った。
俺を怖いと言った。
私はサリュさんじゃない、と言った。
私に、あなたの後悔をやり直させないで。
その言葉は、今でも胸に残っている。
俺はあの時、ようやく自分の醜さを見た。
サリュにできなかったことを、ミユウで埋めようとしていた。
サリュを守れなかった後悔を、ミユウを閉じ込めることでなかったことにしようとしていた。
ミユウを見ているつもりで、見ていなかった。
愛しているつもりで、傷つけていた。
鍵を開けるのは、怖かった。
扉を開ければ、ミユウは出ていくかもしれない。
出ていけば、二度と帰ってこないかもしれない。
だが、閉じ込めたままなら、彼女は俺を嫌う。
それが何より怖かった。
俺はサリュを失った。
だがミユウに嫌われたら、俺は自分で彼女を失うことになる。
だから鍵を開けた。
出ていくなら止めないと言った。
嘘ではなかった。
止めたくてたまらなかったが、それでも止めないと決めた。
ミユウは一度、屋敷を出た。
リーベルへ行った。
俺は、待った。
待つことは、俺にとって恐怖だった。
待っていた人は、帰ってこなかったから。
だがミユウは帰ってきた。
ただいま、と言った。
その時のことを、俺は生涯忘れない。
帰ってきたのは、サリュではなかった。
俺が失った過去でもなかった。
ミユウが、ミユウとして、自分の足で帰ってきた。
その事実が、俺の中の何かを少しだけ変えた。
待つことは、失うことだけではない。
信じて待てば、帰ってくる人もいる。
そんな当たり前のことを、ミユウが教えてくれた。
その後の日々は、俺にとって知らないことの連続だった。
誰かをそばに置きたいのに、閉じ込めないこと。
心配なのに、止めないこと。
触れたいのに、聞くこと。
不安なのに、言葉にすること。
ミユウは、俺の歪みをよく見ていた。
見て、怒った。
叱った。
時には笑った。
そして、逃げなかった。
リーベルへ行く日は、今でも落ち着かない。
屋敷の前で待つなと言われても、結局、何かしら理由を作って外へ出てしまう。薪を運び、馬の手入れをし、森の境界を見回る。
ミユウが帰ってくる道を、何度も見てしまう。
彼女の姿が見えた瞬間、息ができる。
「ただいま、エレン」
そう言われるたびに、胸の奥が痛いほど満たされる。
「おかえり、ミユウ」
そう返すたびに、俺は少しずつ覚えていく。
彼女は、俺のものではない。
けれど、帰ってきてくれる。
そのことが、どれほど幸福か。
サリュとの恋は、穏やかだった。
未来を疑わず、いつか来る日を信じていた。
触れたい気持ちを抑え、正しくあろうとし、待つことを美しいと思っていた。
あの恋は、俺に初めて人を愛する喜びを教えてくれた。
誰かの声を待つこと。
誰かの笑顔で一日が明るくなること。
未来を二人分で考えること。
相手の幸せを、自分のことのように願うこと。
サリュがいなければ、俺はその幸せを知らなかった。
ミユウへの恋は、もっと苦しい。
俺は一度失う痛みを知ってしまった。
だから臆病で、醜くて、独占欲にまみれている。
ミユウが誰かと話すだけで胸が騒ぐ。
帰りが遅いだけで、森へ駆け出したくなる。
彼女が元の世界の写真を見る時、その画面ごと奪いたくなることすらある。
だが、それをしてはいけない。
ミユウを愛するなら、ミユウの世界も、記憶も、未練も、選ぶ自由も、奪ってはいけない。
尊重することは、怖い。
手放すことに似ている。
だが、手放すことと信じることは違うのだと、ミユウが教えてくれた。
サリュは、俺に人を愛する幸福を教えてくれた。
ミユウは、その幸福を、失う恐怖ごと抱きしめる方法を教えてくれた。
サリュへの想いは、今も消えていない。
消えないだろう。
彼女を忘れることはない。
だが、その記憶はもう、ミユウを縛る影ではなくなってきている。
かつては、サリュを思い出すたびに後悔だけが胸を刺した。
どうして守れなかった。
どうして行かせた。
どうして触れなかった。
どうして好きだともっと言わなかった。
今は、少し違う。
サリュがいたから、俺は人を愛する幸せを知った。
サリュを大切に思った日々があったから、ミユウと過ごす時間の尊さがわかる。
サリュを失った痛みがあったから、俺は自分の弱さを知り、ミユウに許されないことを知った。
サリュを愛した俺がいたから、今、ミユウを愛する俺がいる。
そう思えるようになった。
それは、ミユウがここにいてくれるからだ。
レオンハルトにミユウの存在を知られた日、俺はまた間違えそうになった。
兄が玄関に立っていて、その視線がミユウへ向かった瞬間、全身が冷えた。
隠したいと思った。
ミユウを奥の部屋へ押し込んで、誰にも見せず、誰にも気づかせず、この屋敷の中だけに閉じ込めたいと思った。
だが、ミユウが俺の袖を掴んだ。
大丈夫です。
ちゃんと話しましょう。
彼女の声で、踏みとどまった。
レオンハルトは、すぐに気づいた。
サリュに似ていることも。
この国の名ではないことも。
異界落ちであることも。
俺は責められる覚悟をした。
だが、レオンハルトが見ていたのは、それだけではなかった。
後で兄は言った。
数年ぶりに見た、と。
俺がそんな顔をするところを。
サリュが生きていた頃以来だ、と。
俺はその時まで、自分がどんな顔をしてミユウを見ているのか知らなかった。
だが兄には見えていたらしい。
俺が、もう一度誰かを愛していることが。
グランフェルト家は、ミユウを正式には王都へ報告しなかった。
グランフェルト家の管理下で保護する。
その扱いにすると、兄たちは決めた。
セドリックは研究院の記録を探すと言った。
レオンハルトは、次にミユウを閉じ込めたら許さないと言った。
当然だと思った。
俺も、自分を許せない。
だがミユウは、ここにいたいと言った。
俺の屋敷にいたいと。
その言葉を聞いた時、嬉しさよりも先に恐怖が来た。
信じていいのか、わからなかった。
俺はこの人に何をしたのか。
それを思えば、俺のそばにいたいと言われても、すぐには信じられなかった。
だがミユウは言った。
日本に未練がある。
帰る方法を知りたい気持ちもある。
家族も友達も忘れたくない。
でも、今一緒にいたいのはエレンだ、と。
好きだ、と。
俺は、救われたのだと思う。
あの瞬間に。
サリュを失ってからずっと、俺の中にあった暗い穴が完全に消えたわけではない。
だが、そこに光が差した。
ミユウが俺の名を呼び、俺を選んだ。
サリュの代わりではなく。
異界で一人きりだから仕方なくでもなく。
俺を、エレン・グランフェルトとして。
その夜、俺はミユウに触れた。
サリュにはできなかったことを、ミユウにしたいと思った。
だがそれは、もうサリュの代わりではなかった。
俺が触れたかったのは、ミユウだった。
俺が口づけたかったのは、ミユウだった。
俺の腕の中にいてほしいと願ったのは、ミユウだった。
何度も聞いた。
嫌ではないか。
怖くないか。
止めなくていいか。
ミユウはそのたびに、少し呆れたように、でも逃げずに答えてくれた。
嫌じゃありません、と。
私も、エレンに触れてほしいです、と。
あの言葉を聞いた時、俺はたぶん、人生で初めて本当の意味で報われた。
ミユウが小さく身じろぎをした。
朝の光が、少しずつ強くなっている。
彼女の睫毛が震え、ゆっくりと目が開いた。
まだ眠たそうな瞳が、俺を映す。
「……エレン」
掠れた声で呼ばれた。
俺の胸の奥が、どうしようもなく満たされる。
「起きたか」
「また見てたんですか」
「ああ」
「寝てくださいって言いましたよね」
「眠った」
「少しだけでしょう」
「少しは眠った」
ミユウは呆れたように眉を寄せる。
その顔さえ愛おしい。
「今日、リーベルに行くんですからね。エレンも一緒に」
「わかっている」
「女将さんに、この前の焼き菓子の作り方を聞くんです。今度こそ焦がしません」
「前のものも、食べられた」
「食べられた、じゃなくて美味しかったって言ってほしいです」
「……努力する」
「そこは即答してください」
ミユウが笑う。
俺は、その笑顔を見る。
サリュとは違う笑い方。
少し怒ったように、少し呆れたように、でもちゃんと楽しそうに笑う。
その笑顔を見て、俺も笑っているのだと気づいた。
昔、サリュと笑い合っていた頃の俺は、きっとこんなふうに息をしていたのだろう。
だが、今ここにいるのは過去の俺ではない。
サリュを失い、壊れ、ミユウを閉じ込め、間違えて、許されるかどうかもわからないまま、それでも彼女の隣にいたいと願う俺だ。
綺麗ではない。
正しくもない。
だが、今度こそ学びたい。
人を愛するということを。
守ることと閉じ込めることは違う。
欲しいと思うことと奪うことは違う。
待つことは、失うことだけではない。
ミユウが教えてくれた。
そして、サリュが最初に教えてくれた。
人を愛する喜びを。
俺は心の中で、そっと彼女の名を呼んだ。
サリュ。
俺は今、幸せだ。
お前を忘れたからではない。
お前を愛した日々が、俺をここへ連れてきた。
お前と過ごした時間があったから、俺は誰かを大切に思う幸福を知っている。
その幸福を失う怖さに負けて、ミユウを傷つけた。
けれどミユウが、そこから俺を引き戻してくれた。
だから今度こそ、愛で守りたい。
恐怖ではなく。
後悔ではなく。
檻ではなく。
ミユウが自分の足で帰ってこられる場所として、この屋敷を守りたい。
「エレン?」
ミユウが俺の顔を覗き込む。
「どうしました?」
「いや」
俺は首を横に振る。
そして、彼女の手を取った。
「好きだ、ミユウ」
言葉にすると、ミユウの頬が少し赤くなる。
何度言っても、彼女はまだ少し照れる。
それが嬉しい。
「……私も好きです」
小さく返ってきた言葉に、胸が震えた。
俺は彼女の手に口づける。
ミユウはくすぐったそうに笑った。
その笑い声が、朝の部屋にやわらかく広がる。
森の外には、まだ知らない世界がある。
リーベルの町。
王都ルーヴェルディア。
異界落ちの研究院。
ミユウが帰れるかもしれない道。
不安は消えない。
きっとこれからも、何度も怖くなる。
それでも、俺は鍵をかけない。
ミユウが出ていく時は、待つ。
帰ってきたら、おかえりと言う。
不安なら、不安だと言う。
触れたい時は、触れていいかと聞く。
そんな当たり前のことを、ひとつずつ覚えていく。
ミユウが俺を選び続けてくれる限り。
いや、たとえいつか違う道を選ぶ日が来るとしても。
その日まで、俺は彼女を、彼女のまま愛したい。
サリュの影ではなく。
失われた初恋の代わりではなく。
川崎美優という、俺の二度目の恋として。
ミユウが起き上がり、窓のカーテンを開ける。
朝の光が部屋いっぱいに満ちた。
森が揺れている。
かつては、俺を閉じ込めるだけだった森。
今は、ミユウが帰ってくる道を抱いた森。
彼女が振り返る。
「エレン、今日は帰りに蜂蜜も買いましょう」
「ああ」
「あと、文字練習用の紙も。もう残り少ないです」
「ああ」
「それから、エレンもちゃんと朝食を食べてくださいね」
「……ああ」
「今、少し間がありました」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないです」
ミユウが笑う。
俺も、たぶん笑っていた。
かつて失った未来とは違う。
けれど確かに、ここにも未来がある。
俺はその未来を、今度こそ急がず、奪わず、けれど恐れすぎずに、彼女と歩いていきたい。
ミユウが扉へ向かう。
その扉に鍵はかかっていない。
俺はその後ろ姿を見つめ、静かに息を吐いた。
行ってしまう背中を見るのは、今でも怖い。
けれど、彼女は振り返る。
「エレン?」
俺を呼ぶ。
俺は歩き出す。
「ああ。今行く」
そして俺は今日も、開いた扉の向こうへ向かう。
失った初恋を胸の奥に抱いたまま。
二度目の恋の隣で、生きていく。




